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「お前を愛するつもりはない」と仰った殿下と皮肉の言い合いをしていたら、いつの間にか溺愛されるようになってしまいました。愛を知らなかった私はどう接すればいいのか分からず困っています。

作者: 千秋 颯

 私、エリーゼ・フォン・クラッセンには生まれる前から決められた婚約者がいました。

 聖なる力を持つ血統、王族の中でもその血を色濃く引く第一王子――リーンハルト・オスヴァルト・フォン・ヴァレリーベ殿下。

 太陽の光を反射する美しい金髪に、エメラルドにも劣らない、輝くような黄緑の瞳を持つ、美しい顔立ちの殿方です。


 公爵家に生まれ、第一王子の婚約者としての立場が確約されていた私は両親からも家庭教師からも厳しくしつけられて来ました。

 両親は決して私をいじめるような方ではありませんでした。

 ただ、クラッセン公爵家という高貴な家柄と、第一王子の婚約者に発生する義務が、家族の愛よりも教育の質や淑女としての品格を優先させました。


 ですから家族に愛されたいという欲求は早々に消え、代わりに残ったのは、『誰かから愛されることを期待してはいけない』という教訓だけでした。

 期待をすれば、思い通りにいかない時に傷つくのは自分ですから。

 私は自分の中に生まれたこの教訓を必死に貫き続けました。


 五歳の頃。私は王宮に招かれ、そこで初めてリーンハルト殿下とお会いしました。

 陛下や両親の計らいで、私達は二人で王宮の庭園を散歩し、屋外テラスでお茶をする事になりました。

 二人の仲が少しでも縮まるようにという大人達の考えから作られたこの時間は、結果を申し上げれば……まったくもって無意味なものとなりました。


「お前を愛するつもりはない」


 開口一番。リーンハルト殿下はそう仰ったのです。

 他人の愛を期待しないという誓いを立てていた流石の私も、これには驚きました。

 高貴な身分の者は、例え気に入らない相手がいても、直接的な拒絶の言葉を用いる事は殆どありません。

 遠回しに相手に悟らせる。それが貴族や王族として正しい振る舞いですし、私の周りの大人達も同様でしたから、このようにあからさまな拒絶を受けたのは初めてだったのです。


 とはいえ、驚いたのはその一瞬のみ。

 彼が私を愛してくださるなど、微塵も期待はしておりませんでしたから、彼が私を嫌悪しているという結果自体は想定内だったと言えるでしょう。

 私は淑女教育で身に付けた、完璧な作り笑いを顔に貼り付け、大人と同様のお辞儀をしました。


「勿論、構いませんわ殿下」


 あのような言葉選びをすれば嫌な顔一つくらいするのが当然だ。

 その程度の事は幼い殿下も分かっていたのでしょう。

 彼は驚いて私を見つめておりました。


「私達の婚約は、あくまで相互の利益のために結ばれた契約。そこに愛は不要です。互いに婚約者としての務め――婚姻後は夫婦としての責務を果たすこと。それ以外のことは全て殿下に一任いたしますから、どうぞご安心ください。例え側室を迎え入れる判断を殿下がなさったとしても、私は一切異を唱えませんわ」

「な、そ、側室……!? そこまでは言っていないだろう」

「例えばの話ですわ」


 要は両家の目標である跡継ぎの出産さえできれば、他は何でも好きにしてくれて構わないという事が言いたかったのですが。

 私と同等かそれ以上に学を積んでいるはずの殿下はしかし、私よりも少々初心だったようです。

 彼は顔を僅かに赤らめて驚くと大きな咳払いを一つ落としました。


「そ、そもそも、気が早すぎるだろう。私はそのような話がしたかった訳ではない」

「そうでしたか」


 動揺を顕わにした殿下とは打って変わり、最低限の相槌を淡々と返す私は、それはそれは可愛げのない娘だったでしょう。


 それから私達はテラスでお茶をしました。

 とはいえ、途中まで会話は殆どありませんでした。


 殿下は私のことを嫌っているのだとわざと知らしめるように、仏頂面で、目を合わせることすらしませんでした。

 そして私もまた、殿下に媚を売る必要はないと判断しておりました。

 彼が強い拒絶の姿勢を見せている以上、私が何か話を振っても良くて無視、もしくは文句や嫌味が返ってくるのが関の山です。

 それに、殿下が婚約者としての務め事態を放棄するつもりではないという事は、この凍えるような空気のお茶会に参加している時点でよくわかりましたから。


 互いに互いの務めは果たす。その意志がある。

 無言の空気の中でその確認が取れたからこそ、私は自分から何か行動を起こす事を避けました。

 良かれと思って動いたことで殿下を刺激する方が好ましくはありませんでしたから。


 私は口を閉ざし、ただにこにこと微笑みながらお茶を楽しんでいるふりをしました。


「お前は気味が悪い奴だな」


 漸く口を開いた殿下が吐いたのはそのような嫌味。

 これもまた、随分と直接的な言葉選びです。

 私は口を付けていたカップをソーサーへ戻すと、口を開く。


「お言葉ですが、殿下。他者へ否定的なご意見を述べる際は、遠回しなお言葉を用いた方が品格と聡明さを主張できますよ」

「ご高説どうもありがとう。貴女はまるで自身が王族よりも気高い存在だとでも思っているようだな」

「まさか。勿論、殿下方を置いて国の頂点へ座するに相応しい方々などおられないでしょう。ただ、殿下程教養を積んでいるお方であれば、そうできるだけの語彙があるにもかかわらずそれをなさらないのは……とその裏を考えてしまいまして」

「子供のお前相手にこちらが配慮する必要も、大人達と同じ態度で振る舞う必要も感じられないだけだ」

「まぁ! ではやはり敢えての選択でしたのね。私達、同じ年ですものね。心の内を明かすに値する存在とお考えに? 嬉しいですわ」

「人の話を聞いていたか!?」


 彼の意図を読み違えた発言は勿論わざとです。

 嫌味が全く通じない私が変わらずにこにこと笑みを浮かべていると、彼は少し時間を空けてから漸く、私の発言の意図に気付いたのでしょう。


『王族に相応しい言動を試みないのであれば、いつまでも同じ様に煽りますよ』


 オブラートを全て取っ払って言うのであればつまりこう。

 自分より下の身分と判断した方々へ同様の振る舞いをなさる癖でも付いたら大変ですから、今のうちに直していただかなければと私は考えたのです。

 殿下は口をはくはくと開けたり閉じたりした後、やはり少しだけ顔を赤らめてから大きく顔を背けました。


「可愛げが全くない奴だ!」

「まぁ、殿下。またですわ」

「違うと言っているだろう!」


 またもや直接的な罵倒を仰いますので、お望み通り可愛がって差し上げようとしましたが、その言葉は殿下の大きな声に掻き消されてしまいました。

 それにしても『可愛げがない』だなんて。

 私が身に付けたこの作り笑いは、これまで出会って来たどんな人にだって好まれてきましたのに。

 殿下って、不思議なお方ですわ。




 それから、互いにそれぞれの家へ足を運んでは同じ時間を共有する日が増えました。

 殿下は初対面で言い負かされた事を根に持っていたのでしょう。

 会う度に彼は私へ嫌味や皮肉を言うようになりました。

 ですから私も、彼の期待に応えて皮肉を返してあげるようにしました。


「やぁ、エリーゼ」

「ご機嫌よう、リーンハルト殿下」


 公爵邸を訪れたリーンハルト殿下を私はお迎えに上がります。

 使用人や両親が周りにいる時は互いに分厚い仮面を被って当たり障りない世間話をします。

 しかし二人きりの時間が出来た直後。それは始まるのです。


「クラッセン公爵家には客人を待たせるべきという一風変わった考えがあるようだ」

「お気を悪くされたのでしたら申し訳ありません。殿下にお会いできると思ったらいても立ってもいられず、侍女たちにいつも以上におめかしを強請ってしまいましたの」


 殿下は天使の様な微笑みを引きはがして仏頂面へ戻り、私はいつもと同じ作り笑いを貼り続けます。


「貴女が? 冗談も程々にした方が良い。でなければ今日の昼間には吹雪がやって来てしまうだろう」

「まあ殿下こそ、愛らしい御冗談はおやめになってください。今は夏ですから、雪が降る訳もありませんわ」


 私だけがくすくすと笑います。

 また、冷たい視線が二つ、互いの出方を窺うように交差しております。

 この場にどなたかが居合せれば、この場を満たす凍えるような空気に身を震わせていた事でしょう。




「貴女はいつも同じ顔をするな。まるで庭園の花のように、変わらぬ笑顔をしている」

「まあ。私なんて、王宮の庭園に咲く花などとは比べものになりませんわ」



「貴女はいつも私の前でにこにこと笑うだけだが、日頃の行いを見ているだけでは淑女教育がきちんと進んでいるのか疑わしいな」

「であれば、今度刺繍を施したハンカチでもお送りいたしましょうか? 先生方は絶賛してくれるのですよ」



「殿下。私の誕生日に山ほどの宝石をお送りになるのはおやめください。国庫の無駄遣いと民から批判を集めてしまいますわ」

「生憎、私の婚約者が無欲なせいで公爵令嬢としても王族の婚約者としても、相応しくない身なりをするものでね。婚約者をぞんざいに扱っているという批判を集めないように手を打ったまでだが。もしや、また何か勘違いでもしているのではないか」

「まさか。ただいつも言い負かされてしまう殿方が趣向を変えて財力で張り合おうとしているのかと思ってしまいまして」

「待て。それは流石に聞き捨てならない」



「パーティーで、侯爵令息らと話していたな。公爵家の令嬢は王族一人の地位では満足できないのだろうか」

「ただご挨拶をしていただけですわ。殿下は私の事ばかり気に掛けてくださっていたのですね」

「婚約者が失態を犯さないか監視するのは当然のことだろう。貴女の方こそ、随分と可愛らしい解釈をするものだな」




 どれだけ時を重ねようと、私達の関係は変わりませんでした。

 お陰で、成長し、学園へ通うようになってすぐに私達の不仲の噂は広がってしまいました。

 けれど私は気にしません。別に間違ってはいませんもの。




「ピクニック?」

「ええ。学友と湖にある別荘へ行きましたの」


 公爵家の庭の芝生に私達は腰を掛けていました。

 王太子として正式に指名をされた殿下はこの頃公務でお忙しく、木陰で休んでいる私の隣で分厚い書類に視線を落としておりました。


「子爵家の友人がいるのですが、彼女は時折ご両親と料理を楽しむようで軽食を作ってくださいました。それがとても美味しくて。ただ景色を楽しむ時とは違う、新鮮な心地になりました」

「そうか」

「殿下も興味がおありなのでしたら一度試してみてはいかがですか。私も料理には興味を持っておりましたし……」

「いや。私は王族だから、決められた者以外が作った料理は口を付けられない」

「……そうですわね。失念しておりましたわ」


 暫し沈黙が訪れます。

 それを破ったのは殿下の方でした。

 彼は喉の奥で笑います。


「そもそも、貴女も料理はした事がないのだろう? 試しに作らせたらきっと口には出来ないものが生まれてしまうだろう」

「まあ。殿下はご存じないかもしれませんが、私の器用さは家でも学園でも有名ですのよ」

「器用、か」


 今度は鼻で笑われました。

 何がおかしいのかと問うように殿下の顔を覗き込んだ時。

 私は殿下の目の下に隈が出来ていることに気付きました。


 私は殿下の膝の上から書類を奪います。


「おい」

「王太子ともあろうお方が、御身の価値も理解していらっしゃらないとは、国の行く先が思いやられますわ」


 その言葉で、私の言いたい事は粗方伝わったのでしょう。

 初めは書類を奪い返そうとしていた殿下はすぐに引き下がりました。


「一理あるな」

「まあ、珍しい。今日は随分と素直なのですね」

「私はいつだって素直だが」


 彼が見え透いた嘘を吐くので私は肩を大きく竦めます。

 するとそんな私の膝の上に、彼は自身の頭を乗せて寝転がりました。


「殿下」

「王太子に地面に顔を付けて寝ろと言うつもりか?」

「……仕方がありませんわね」


 殿下はお疲れのご様子でしたし、確かに顔に泥をつけさせる訳にもいきませんから、私は渋々この体勢を受け入れました。

 殿下は目を閉じると、一つ長い溜息を吐きます。


「お疲れのようですね」

「多少はな。……もう、慣れてはいることだが」


 穏やかな風が私達を撫でます。

 静かに揺れる殿下の前髪も、伏せられた睫毛も、美しいと思いました。


「どうしたって周りの者は王族に取り入る為、必死になる。私に近づく者はその地位による恩恵か、この顔が目当てのものばかりだった」


 存じ上げておりました。ずっとお傍で彼を見ておりましたから、彼を取り巻く環境は嫌という程理解出来ました。

 初めて出会った時に私を拒絶したのだって、下心を持って近づく方々に嫌気が差していたからだろうと、殿下と接する内に気付いておりました。


「ただ…………」


 殿下は何かを言いかけます。

 しかしいつまで待っても言葉の続きはやって来ませんでした。


「……殿下?」


 不思議に思って声を掛け、漸く気付きます。

 薄く開かれた口から、規則正しい呼吸が繰り返されていることに。


「……全く。まだまだ子供のようですわ」


 目元に掛かる前髪を避けて差し上げようと、私は手を伸ばしました。

 けれど、途中で思い直します。

 この時の私の指先は僅かに震えていたので、うっかり殿下を起こしてしまうかもしれないと思ったのでした。




 あるパーティーの日。

 殿下が多くの方とご挨拶をしている間、私の周りには何名かの殿方がいらっしゃいました。

 婚約者がいる身であっても、ダンスに誘われれば一曲はお付き合いするのが社交界に於ける礼儀です。

 ですから私は殿下をお待ちしている間、何曲かダンスを踊りました。


 しかし、正直なお話、ダンスには集中できませんでした。

 度々視界の端に映る殿下の姿。

 その隣には彼の体に触ったり、手や腕を絡ませたりする御令嬢がいらっしゃいました。


 ビアンカ・ゴルトベルク伯爵令嬢。

 学園で殿下と仲の良い女性です。

 私と殿下は学科が違いますが、殿下とビアンカ嬢は同じ学科です。

 学園では殿下もビアンカ嬢も時々お姿をお見掛けする程度なのですが、どちらかをお見掛けする時は必ずもう一人もいるというくらい、学園では常に共に過ごしているようでした。

 ビアンカ嬢は小柄で愛らしい顔立ちの女性です。

 大きく丸い瞳も小さく艶やかな唇も、そして何より思っていることがころころと表情に出るような素直さと無邪気さを持っているお方でした。


 ええ。私とは正反対のお方。

 可愛げという言葉は彼女にこそふさわしい言葉なのでしょう。


 私は彼女との関係性を問うことも、口を出すことも致しません。

 だって、殿下は私の事を婚約者として扱ってくれていましたし、ビアンカ嬢との時間の為に私との時間を減らす、なんていう事もしませんでした。

 私達の関係自体はそう大きく変わっていなかったのです。


 それに、「側室を迎えたとしても構わない」という幼い頃の発言も、私は覚えていましたから。

 だから構わないのです。

 私と殿下が互いに使命さえ全う出来れば、それで。




 それから数ヶ月が経った頃。

 私の環境が急変いたしました。

 仲の良い学友が私を避けるようになり、誰も私に目を合わせる事はなくなり、時折嘲笑が聞こえるようになりました。

 そして私に関する覚えのない悪評が数々と耳に入ります。


 孤立した理由もきっかけも心当たりはありません。

 ただ、元から他者には期待しないようにしておりましたから、取り乱す事も、必死になる事もありませんでした。

 私が考える事と言えば『婚約はなくなるかしら』という事くらい。


 学園中に広がった悪評は社交界にまで及びました。

 幸い、殿下と私は元から不仲の噂がありましたから、殿下まで悪い噂が囁かれるような事はありませんでした。

 しかしこれ以上噂が大きくなれば、いつ殿下を巻き込んでしまうかもしれませんし、殿下とて皮肉屋な上に様々な悪評を抱える婚約者など迷惑極まりないと感じるでしょう。




 そして、事態は更に悪化します。

 私は校舎の大広間。大衆の面前で突然、いじめや暴力、不貞、殺人未遂など――多くの罪を突き付けられます。

 ビアンカ嬢と、彼女が引き連れた複数の男子生徒達によって。


 勿論否定しましたし、矛盾点は指摘しました。

 けれどこの場に私の味方はいませんでした。野次馬に務める生徒の方々もまた、ビアンカ嬢の味方だったのです。

 正しいアリバイを提示しても、事実を捻じ曲げられ、私の目撃情報はなかったことになりました。

 人数の暴力の前では、私の言葉など誰にも届きません。


「貴女は、リーンハルトに相応しくないわ!」


 ビアンカ嬢の言葉に皆が便乗しました。

 もうどうしようもありませんでした。打つ手がありませんでした。

 この場に殿下はいらっしゃいませんでしたが、彼はビアンカ嬢と親しい間柄ですし、私の事は嫌っています。

 大勢に囲まれた私の主張は全て破綻しているように聞こえるでしょう。

 数百人全員が嘘を吐いていて私が正しいなど、そんな道理が通じる訳がないのです。


 潮時です。

 これ以上事を荒立てる前に、身を退くべきだと感じました。

 この先で私がどのような扱いを受けるのか定かではありませんが、とにかくこの場に居て良い事は一つもありませんでした。

 ですから私は「仕方ありませんね」と心の中で呟き、いつも通りの笑顔を貼り付け、優雅に頭を下げます。


 その時でした。

 バタンと大きな音を立てて大広間の扉が開かれます。

 そこから飛び込んで来たのは殿下です。


 彼は息を乱し、大広間を見回したあと、私やビアンカ嬢のいる元へ駆けつけます。

 そして――


 ――私の横をすり抜け、ビアンカ嬢を抱きしめました。


 わかっていました。

 ええ、わかっておりましたとも。

 全て、予想の範疇の出来事でしかありません。


 ですのに、この時確かに私の心からはボキリという音が聞こえました。


 ビアンカ嬢はいかに私が悪女であるかを語りました。

 それを聞きながら私は殿下と過ごした日々を思い出していました。

 もう帰っては来ない過去に思いを馳せ、そしてそこで漸く――彼との奇妙な掛け合いの時を心から楽しんでいた事に気が付きました。

 彼の気を引いて、彼が他の人には見せない不愛想な態度を見せて……そんな時間を繰り返している間に、どうやら私は、無意識の内に自分が彼の特別になっているとうぬぼれていたようでした。

 そして期待してしまっていたのです。


 一度諦めた『愛』を。

 彼ならば私を愛してくれるかもしれない、という期待を。


「これ以上、私から語ることは何もございませんわ、殿下。ご迷惑をお掛けし申し訳ありません。この先はどうぞ、殿下のご判断で――」


 ――ご選択ください。

 その言葉が出ませんでした。


 嫌でした。彼が誰かの元へ行ってしまう未来を考える事が。

 私は僅かに顔を上げます。

 美しい黄緑の瞳と目が合いました。

 けれどそのすぐ傍に、ビアンカ嬢の姿があって、彼女の勝ち誇った笑みを見て――


「…………いかないで」


 掠れた声が漏れました。


 その声が聞こえたのでしょうか。

 殿下が双眸を見開きます。

 刹那。


 彼は呪文を唱えました。

 何が起きたのか、理解はできませんでした。

 ただ、彼の詠唱と共にまばゆい光が辺りを包み――ビアンカ嬢の体から弾き出された黒い煙のようなものがのみ込まれて消えていきました。


「……で、んか…………ど、して」

「王族に闇の魔法は効かない」


 ビアンカ嬢が絞り出した苦しげな声に、殿下は淡々と答えます。

 そして光が収束すると同時……。

 殿下と私以外の人々が、糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちました。


 辺りは突如、静寂に包まれました。

 私は未だに状況が理解できませんでした。


 殿下は持っていた縄でビアンカ嬢の手足を拘束します。

 それから私の顔を見て、距離を詰めようとしました。


 そこで漸く、私は自分の頬が濡れていることに気付き――みっともなく流れる涙を殿下に見られたのだと悟ります。

 私は殿下に近づかれた分だけ後退り、それから彼に背を向けて走り出します。


 最近の周りの方々がおかしかったのはビアンカ嬢によるものである事。

 それを殿下が解決してくださったのであろう事。

 それは何となく理解していました。


 けれど、今に至るまでの過程のどこまでが殿下の本心で、どこまでが芝居であったのかは一切わかりません。

 彼はきっと説明してくれるでしょうが、それを落ち着いて聞けるだけの心が今の私にはありませんでした。


 一度心が折れてしまった私は、拒絶されても、ビアンカ嬢を愛していたと聞かされてもきっと平然としてはいられません。

 ですから思わず逃げてしまったのですが、残念ながら私は簡単に殿下に捕まってしまいました。


「エリーゼ」

「やめてください」

「エリーゼ、こっちを見てくれ。話を」

「いやです。聞きたくありません」


 両肩を掴まれ、無理矢理向き合うような形にされます。

 けれど私は視線を落として、殿下の顔を見る事を拒絶しました。

 掴まれた肩は大きく震えていました。それに気付いたらしい殿下は一度捲し立てようとした言葉をしまいました。

 代わりに私を抱き寄せて、頭を撫でて来たのです。


「何のおつもりですか」

「……すまない」

「何を謝っていらっしゃるのですか」

「貴女を悲しませてしまった」

「同情ですか? でしたらそれは見当違いですわ。私、殿下を試しただけですのよ。涙を流して見せれば驚かれると思って……そう、揶揄おうとしただけですわ」


 こんな嘘が本当に通用するとは思っておりませんでした。

 ただ、誰かに弱さを見せる事などこれまでありませんでしたから、無理にでも虚勢を張る方法しか知らなかったのです。

 殿下もそれを見抜いていたのでしょう。私の苦しい言い訳を彼が笑うことはありませんでした。


「貴女が学園で孤立しているのは知っていた。けれど……私がいても、貴女の為にはならないだろうと。貴女は……私を嫌っているから」


 彼の告白はあまりに意外なものでした。

 私は思わず顔を上げて殿下を見ます。


「嫌い……? 私、一度だってそんな事を口にした覚えはありませんわ。嫌っていたのは殿下の方でしょう。私を愛するつもりはないと」

「ああ…………そうだ。その通りだった。私の思い違いで……いや、君の口から真実を聞くのを恐れていたのかもしれない」


 殿下は私を抱く力を強めました。


「すまない、エリーゼ。愛しているんだ」


 信じられない言葉です。

 彼の口からそのような言葉を聞く日が来るとは夢にも思いませんでした。


「幼い私は、初めて出会った時に貴方を強く拒絶してしまった。だからこそ、あんな事を言った人間の事を好きにはなってくれないと思い、ならばせめて現状の関係の維持に努めようと、昔と変わらない振る舞いを続けてしまった」

「う、嘘ですわ」

「嘘じゃない。貴女にこんな思いをさせて、傷付けるくらいなら……もっと早くから素直になるべきだった」


 すまない、エリーゼと。彼は許しを請いました。

 震える声も、私を抱きしめる力の強さも、偽りが感じられませんでしたから、彼の言葉が真実であるという事を私は嫌という程思い知らされました。


「う、うそつき……っ」

「ああ、私は大嘘吐きだ。愛しているよ、エリーゼ。こんなどうしようもない男だが、これからも傍に居て欲しい」


 私は嗚咽混じりの声で何度も「嘘吐き」と繰り返しました。

 けれど彼だけが責められるべきではないことを、私は良く知っています。


 私だって、自分を偽り続けてきました。

 誰からの愛も期待しない等という誓いはとっくの昔に破れていて、本当はずっと殿下をお慕いしていました。

 その事から目を逸らし、彼からの拒絶を恐れる自分を隠し続けていました。

 殿下を嘘吐きというのならば、この想いを秘め続けて来た私だって、同様に嘘吐きと呼ばれるべきでしょう。


「で、殿下……殿下ぁ……っ」

「リーンでいい」


 それは殿下の家族が使う、彼の愛称でした。

 私は子供のように泣きじゃくりながらそれを何度も繰り返し、そしてずっと秘めていた想いを言葉にします。


「愛しています、リーン様」

「ああ。私も愛しているよ。エリーゼ」




 後から聞いた話になりますが、何でもビアンカ嬢は国で禁忌と定められた闇の魔法に手を染めていたそうです。

 彼女はその後、投獄され、誰に看取られるでもなく処刑されたそうです。


 また、一連の経緯としてリーン様は


 他者を洗脳し、魅了させるその魔法のせいで学園の方々の様子がおかしかった事。

 彼女は王太子の婚約者としての座を狙っていたらしい事。

 闇魔法は聖なる力を継ぐ王族には気付かず、それ故にリーン様はビアンカ嬢の企て気付けた事。

 ビアンカ嬢の力は闇を祓う神器である短剣で打ち消す事ができたが、国王陛下の許可を得てそれを王宮外へ持ち出す為には証拠を集める必要があり、ビアンカ嬢との親密な関係を偽装していた事。

 そして短剣を彼女へ確実に刺す為、エリーゼの前であってもビアンカ嬢を抱きしめる必要があった事。


 それらをリーン様は打ち明けてくれました。




 さて。

 学園中に掛けられていた洗脳が解け、周囲の方々の謝罪の嵐を受けた私はその後、平穏な学園生活を送っております。

 ただ一つ、あの一件以降に変わった事があるとすれば――




 お昼休憩になり、学友と中庭のベンチへ向かおうとしていた時の事です。

 廊下を出ると、殿下に声を掛けられました。


「エリーゼ」

「リーン様?」


 学科も校舎も違うはずのリーン様が、何故か教室の前で待っていらっしゃったのです。


「ご機嫌よう、リーン様。わざわざこのような場へお越しくださるなんて、余程お時間を持て余していらっしゃるのですね」


 私は至ってこれまで通り、彼に皮肉を述べる。

 しかし――


「貴女といられるのならば、いくらでも時間を増やしてみせるよ。エリーゼ」


 リーン様はというと、これまで見せた事もなかった、輝くような笑顔を私に向けました。

 それから私の腕を引いて自分の腕の中に閉じ込めてから、私の顔にキスを落とします。


 近くにいた学友たちが黄色い声を上げました。


「そういう訳だ。大変申し訳ないのだが、彼女との時間を私に譲っては頂けないだろうか」

「も、勿論ですわ殿下!」

「どうぞ、ごゆっくり!」

「え、あ、お二方とも……っ!」


 私が呼び止める頃には颯爽と背を向け、去り始めていた学友たち。

 「不仲なんて大嘘じゃない」と話す声が遠くから聞こえてきました。


「……どういうおつもりですか、リーン様。私を揶揄っていらっしゃるのですか」

「揶揄う? まさか」


 リーン様は、これはまた爽やかな微笑みを私に向けます。


「もう自分の想いを隠す必要もなくなったからな。これからは好きなように貴女を愛でさせてもらう」

「な、愛……っ」


 自分でもわかる程、顔に熱が溜まります。

 それに殿下が気付かない訳もありません。


 殿下はくすりと笑うと私の顎を持ち上げ、唇にキスを落としました。


「私は存外執念深い男らしい。この先、君を手放すような事は絶対にないだろう。覚悟しておいてくれ――私の可愛いエリーゼ」


 突然繰り出される甘い言葉達に、思考の整理が追い付きません。

 そもそもこんな言葉、殆ど言われた事もないのですから、どのような反応をするのが正解なのか、わからなくて当然なのです。


「は……はい…………?」


 きっとこの先、彼を言い負かせる機会を失っていくのでしょう。

 私は顔を真っ赤にしたまま小さく頷く事しかできませんでした。

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リーンハルト殿下におかれましては、華燭の祭典までの間は何卒、何卒、理性と節度を持ってエリーゼ嬢と親交を深めてくださいますよう、伏して願います。 罷り間違っても、華燭の祭典でエリーゼ嬢が身にまとうドレス…
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