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「陽だまりの君」

作者: 朔羅

あの時君が僕に言った言葉が、今でもずっと胸に残ってる。

どうして君はいつも困ったように笑うのか…僕にはとても不思議だったんだ。

でも、今はきっと笑えてるよね。

いつか、君にまた会いたいと思っている僕の願いは叶うのだろうか。

そんなこと言ったら、きっとまた君は怒るんだろうね。

それでも…




――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「ひろっ!旅行いこっ!」

部屋に入ってくるなり、突拍子も無い事を言ってきたのは4年前から付き合っている僕の彼女、飯田薫だ。

「旅行?どこに?」

「京都行きたい!」

「またなんで…って、ベタな場所だな。」

「いいじゃん!行ったことないし!いこ!」

「はいはい。」


僕の彼女はいつも、突然思い付いたことを言っては実行する。その行動力と言ったら、目を見張るものがある。それをもう少し別の事に活かせたらいいのにとも思うが…。

「で?いつ行くの?」

「んーと…再来月にしよ!そしたら、お金も貯められるし、その頃には仕事も片付くと思う。」

「了解。」


彼女は某アパレル雑誌の編集者だ。毎日忙しく仕事に駆け回ってる彼女はとても輝いていた。

一方僕はというと、大学を卒業してからというもの、就活浪人という名のフリーターだった。それでも、彼女に負担を掛けるのが嫌で就活よりもアルバイトメインで毎日を過ごしていた。それが悪循環の原因となっていたが…。

「博彰さ、就活順調??」

「ん?あ、ああ。まあな。」

「あー。そうやってまた曖昧な返事!ちゃんと就職してよね!!」

怒ったように口を尖らせているが、本当に怒った時はこんなもんじゃないのを知ってる。…心配してくれているのだ。

「はいはい。それより、こんな時間だけど、大丈夫?」

やばいを連呼しながら慌てて部屋を後にする彼女は、本当にいつも忙しそうだ。10分でも15分でも、時間の合間を縫って会いに帰って来てくれる。

薫とは大学1年の冬に出会ってから、早いものでもう4年が経つ。2年前から同棲を始めたのが相まってか、最近では2人で出掛けるのもめっきり減っていた

初めて出会ったあの時、こんな風に一緒にいるようになるとは思いもしなかった。後から聞いた話だが、初対面での僕の第一印象は最悪だったらしい。




初めて2人が出会ったのは、サークルでの飲み会だった。彼女は俺の1個上でサークルでは先輩にあたる。

「古枝博彰くんだよね?そんなに酔ってて大丈夫?帰れる?」

サークルで初めての飲み会。僕は慣れない酒を浴びるほど先輩達に飲まされ、泥酔状態だった。

「らいじょーぶれすよ。かえれますから。」

呂律の回らない状態で、答える僕に彼女は呆れ果てて僕の事をアパートまで送り届けてくれた。

「古枝くん!あなた家ここで合ってる??何号室なの??鍵は??」

タクシーの中で眠ってしまった僕はうんともすんとも言わなかったらしい。正直僕の記憶には何も残っていないのだが。

「んー。」

「もう。荷物見せて貰うよ??」

整理されていない僕の荷物の中から、鍵1つ探すのも一苦労だったと、今でも時々愚痴を聞かされる。その度居た堪れない気持ちなるのだが、いつも笑って謝るしか出来ない。記憶が飛んでいるのだから、そうするしかないのだ。

それ以来、サークルで会う度に何もともなく話す内、次第に仲良くなっていった。実際彼女と過ごす時間はとても満たされていて楽しかった。彼女の行動力は当時から凄かったのが印象的だった。

僕たちが入っていたサークルというのは、よくあるシーズンスポーツをメインとするといった名目の飲みサー。

春は果物狩りやお花見という名の飲み会、夏は海、秋は松茸狩りなどにも出掛け、勿論冬にはスキーやスノーボードに勤しんだ。それらのどれもが、薫主体で立案されていた。

リーダー的存在の彼女はサークル内でも人気が高く、付き合う前はサークル仲間に高嶺の花だからやめろだとか、おこがましいだとか散々の言われようだった。決して僕から彼女と付き合いたいだなんて一言も言ったことは無い筈なのに。


元々、他のサークルへの勧誘がしつこく断るのも面倒で適当に過ごせればいいと思って入ったサークルだったのだが、思いの外サークル活動は充実していて、大学時代の思い出殆どを形作った。

中でも、彼女との思い出が色濃く残っていて、付き合い出してからというもの、アルバムがみるみる内に増えていった。

「京都か…。そういえば名所巡りなんかでも行ったことなかったな。ベタ過ぎて行きたくないとかなんとか…。」

今更そんな観光名所に何故行きたいと言い出したのか、不思議には思っていたのだが、彼女の突発的な行動はいつもの事とあまり気にも留めなかった。言い出したら聞かない性格の彼女に正直、手を焼くこともあったのだが、そこも含めて彼女の魅力と捉えていた。




「古枝先輩!お久しぶりです!」

元気に声を掛けてきたのは大学時代の後輩の…大森さんだっけ。

バイトへ向かう道中、突然話しかけられ、少し困惑してしまった。

「なにしてるんですかっ??」

きらきらとした笑顔を向けられる。

「大森さん久しぶりだね。今からバイト行くとこだよ。」

「バイト??先輩就職しなかったんですか?」

「残念ながら、就活戦争に負けました」

大袈裟に肩を竦め、首を振って見せる。

「ごめんなさいいい。あたし余計なこと言いました?」

「大丈夫。今更気にしてないよ。就活は一応続けてるからね」

「それならよかったですっ。あ。バイトってもう時間やばいですか?」

「いや?まだ少し余裕あるけど」

「よかったら、ちょっとだけお茶しませんか?」

「いいけど、どうしたの?急に」

突然の誘いに面食らう。少し表情と声が強張る。こ

「そんな冷たい言い方しないで下さいよー。じゃ、行きましょ」

腕を引っ張るように掴まれ僕は連行される形になった。

近くの茶店でそれぞれ注文し、席に着くまでの間、大森さんの話は尽きなかった。今の職場がどうとか大学時代のサークルがどうだったとか。昔からお喋り好きだったのは変わらないが、2人で話をする機会は少なかったので、僕は舌を捲った。

「わたし、大学の時古枝先輩の事いいなって思ってたんですよ」

「…なにを突然言い出すの」

僕は飲みかけのコーヒーを吹き出しそうになり、内心とても焦った。

「本当ですよー。でも先輩と飯田先輩がずっと仲良しだったから、わたし入る隙無くて。」

大袈裟に残念がりながら、はあーと溜息混じりに頬杖をつく彼女。その姿はとても可愛らしく、あざと女子という部類に入るのだろう。

「なんか…ありがとう。」

突然の告白に、照れ笑いが隠せない。

「そういえば、飯田先輩とはまだお付き合いされてるんですか?」

「お陰様でね」

「そうですかあ。なんか意外。知ってます?飯田先輩の元彼さんの話」

「いや?過去の話はお互いにあまりしなくてね」

「飯田先輩って、大学入ったばっかの頃に元彼さんが海外に行ったきり連絡取れなくなったらしくって…」

聞いてもないのに大森は次々と僕の知らない薫の過去を暴いていく。正直あまり聞きたくない内容だった。

「普通に留学とかだった筈なんですけど、それ以来一度も日本に帰って来てないんですって。だから、自然消滅って言うのかな。別れたわけでもないから、忘れられないって、なんかの飲み会の時に聞いたんですよね」

「…そうだったんだ。知らなかったな」

本当に、僕は何も知らなかった。何故だろう。僕は薫の事ならなんでも知っている気になっていたようだ。付き合っている期間や同棲している安心感からか、油断していたとでも言うのだろうか。元彼の一人くらいいてもおかしくは無い筈なのに、初めて知る事実は僕にとってあまりも衝撃的だった。

「あ。でも気にしないでくださいねっ。かなり前の話ですし、もう飯田先輩も忘れてると思いますっ」

慌てたようにフォローしてくれる大森さんはまた余計な事を言ったと後悔しているようだった。

「大丈夫だよ。そろそろ時間だから行くね。じゃ、また」

伝票を手に僕はそのまま店を後にする。後ろから慌てて身支度を整えようとしてる大森を振り返る事もなかった。後ろの方で、呼び止める声が聞こえた様な気もしたが、振り返って大森を気遣う余裕が僕にはなかった。

大森の前ではなんでもない風を装いたかったけれど、隠しきれない程内心の内はかなり複雑だった。初めて聞いた彼女の過去に戸惑っていたが、それよりも、そんな人がいたなんて彼女から一切聞いたことがなかったからだ。何故、何も語ってくれなかったのだろうか。彼女なりの僕への気遣いからかそれとも…。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「ただいま」

バイト終わりに真っ暗な部屋に向かって独り言のように呟く。

「…薫??」

部屋の電気を点けると彼女がソファにもたれたまま眠っていた。

「…ん。ひろ??お帰りなさい」

目こすりながら、大きな欠伸をする薫。気を張っていない彼女の姿に何だか少しだけほっとした。

「ただいま。こんなところで寝てると風邪引くよ。」

「うん。最近仕事忙しくて…疲れが溜まってたみたい。」

身体を怠そうに起こしながら、もう一つ大きな欠伸をする。

「今日はもう職場行かないの?」

「うん」

「飯は?なんか作ろうか?」

「ありがとう。なんか食べようかな。そういえばなんも食べてないや」

シャワーを浴びに浴室へ向かう薫を見送ってから、軽めの物がいいかなとリゾットを作り始める。最近では食事の用意は僕の仕事になっていた。


「うわー。おいしそう。いい匂いだね。」

丁度、リゾットが出来上がった頃にシャワーから上がってきた彼女はとても嬉しそうに鼻をくんくんさせる。

「犬みたいだね。冷めない内に食べよう」

「ありがとう!頂きます」

言うが早いか、濡れた髪も乾かさぬまま席に着き手を合わせる。風邪の心配などよりも食い気が勝ったようだ。

「そういえば今日、大森さんに会ったよ」

「…大森さん?ああ、確かサークルの後輩ちゃん?」

「そう。相変わらず元気いっぱいって感じだったよ」

「そうなんだ。久しぶりにあたしも会ってみたいな」

「薫、大森さんとは仲良かったの?」

「んー。そこそこね。2人でお茶したりよくしてたよ。彼女、サークル休んだことなかったし、待ち合わせとかも早めに来てたりしてたから。サークル内ではよく話してた方かな。」

昔を思い出すように語る彼女は、当時に思いを馳せているようだった。スプーンを咥えながら視線を行ったり来たりさせている。

「そうだったんだ」

「ところで、何の話したの?」

「ん?ああ。茶店でちょっとね」

「ふーん。」

質問を投げた割にはあまり興味がなさそうだ。昔の思い出話よりも、今の空腹を満たすことが優先されているようだ。

「殆ど、彼女の愚痴だったけど…薫の話もしたよ。」

「あたし?どんな?」

リゾットから目線を上げ、きょとんとする。聞かれてまずいようなことがあるようには見えない。

「元彼の話」

「そんな昔の話してたの」

ふっと笑いながら嬉々として話を聞く彼女は、もう本当に気にしていない様子だった。本心は不明だが、僕から見た感じはいつもの薫そのものだ。

「…元彼さんは海外に行ったきりで音信不通とかって聞いたよ。」

「そういえば、ひろにも話したことなかったよね」

「そう。だから正直驚いたんだ」

「そっか。なんかごめんね。でも昔の事だから、気にしないでね」

「ああ。大丈夫」

その時の彼女の表情は、なんだか少し切なそうだったのは気のせいだろうか。結局彼女自身から元彼に関する話が繰り返されることは無かった。大学時代の思い出話やサークルで訪れた場所、当時の友人達の話題など、他愛もない事だけだった。


翌日目が覚めると彼女の姿はなく、かなり早く家を出たようだった。

目が覚めても、元彼の事が気になって仕方なかった。だが、それ以上は踏み込めない薫の過去。いくら今付き合って同棲までしているからと言って、ずけずけと踏み込んでいいというわけでもない。しかし何の根拠もないがなんとなく、薫は元彼の話を極端に避けているような気がした。気にしてない風を装っているだけのような…

…僕の勘違いだったらいいんだけどな。

彼女と付き合って4年が経つ。その間、そんなに希薄な付き合いはしていなかったつもりだが…。今後を考えるとつい不安になってしまう。


彼女が年上なことも相まってか、僕には多少の焦りもあった。彼女は立派に社会人として毎日を過ごしている中、一方の僕はといえばフリーターのままだ。このままでは愛想をつかされてしまうのではないかと不安に思っていた。

早く就職しなきゃな…。

自己の思いとは裏腹に、現実の流れるスピードは変わってはくれない。就活浪人となってから早くも半年が過ぎてしまった。これ以上、時間が経つとかなり不利になる。それなりに焦っていい時期だった。ここ1か月間はこれまでのペースよりも多く、職業斡旋所へと足を運んでいた。

実際、選ばなければそれなりに仕事はある。しかし、そうは言うものののやはり自分の目標を変えることが出来ず、今日まで来てしまった。そんな中、1社だけが最終まで進んでいた。もうそこにかけるしかないと、内心では腹を括っていた。今回がだめだったら、選ぶのをやめようと…。既に浪人生と化している現状で、おこがましい僕は、きっとまだ学生気分も抜けていなかった。

最終面接に行ったのが、約2週間前。そろそろ通知が来る頃だ。少しの緊張感と何とも言えない不安感とが入り混じった気持ちで毎日を過ごしていた。



「古枝先輩っ!」

「…大森さん。また会ったね。」

「はいっ!私今このあたりで仕事してるんでよく通るんですよ。今日もバイトですか?」

数日前に偶然出会った街で、またもや大森さんと居合わせた。こんなこともあるのかと内心では驚いていた。

「いや?今日は休みだよ」

「あたしももう仕事終わったんですけど、ご飯でも行きませんか?」

「んー。まあ、特に用事があるわけでもないから、いいよ」

「やったー!」

実際、最終面接の結果をまだかまだかと家でじっと待っているのも辛くなり、気分転換がてら出てきただけだったのだ。

「食べたいものありますか?私近くの美味しいパスタ屋さん知ってるんですけど」

尋ねるというよりは最早確認でしかないな。

「どこでもいいよ。大森さんの行きたいところで」

「じゃあ、そこ行きましょっ」

本当にくるくるとよく表情の動く活発な子だな。大学時代とあまり変わっていないようだ。あの頃よりは少し、大人びた雰囲気を持っているものの、本質そのものは何も変わっていないように見えた。大学時代は誰とでもすぐに打ち解けて仲が良く、サークル内でもムードメーカー的存在だった。

当時、僕はあまり興味を持っていなかったものの、彼女に好意を寄せている人間は決して少なくはなかったのを知っている。極稀にだが、僕のところにも友人や後輩から彼女に関する相談事を持ち掛けられる事もあったくらいだ。あまり、自分の事を客観的に見るのは得意でなかったが、当たり障りなく誰とでも話す性格上、話しかけやすかったのかもしれない。

サークル内ではいつの間にか、僕の薫に対する気持ちも、皆の知る所となっていて、別の女性に好意を寄せる同性からしてみれば、安心して相談も出来ていたのだろうと思う。そんな相談者に上手くアドバイスを返せていた自信などは毛頭無かったのだが。

「先輩は…薫さんと結婚とか考えてます?」

「…へ?」

あまりにも突然に聞かれたものだから、思わず変な声が出てしまった。

「どうしたの?突然。」

「なんか、長くお付き合いしてる人って身近にあんまいなくて…長いとそういう事って考えたりするのかなとか思ったんですよ」

にこにこ笑いながら聞いてくる大森さんが、何を考えているのか分からない。

「いや…そもそも就職もしてないらね。考えるようなこともないよ」

「そうなんですか?そのために頑張るって考え方もあるじゃないですか」

「まあね。ただ、僕には今のところないよ」

「へえー。でも、飯田先輩はどうなんでしょうね。年も古枝先輩よりは上だし…。考えてるかもしれないですよ?」

正直面食らった。今まで自分の事ばかりで、結婚なんて一度も脳裏を過ったことすらなかった。

「うーん…そういった話はしたことないからね。実際の所は残念ながら僕にも分らないよ」

「ふーん。あたしは結婚願望強いんで、彼氏とよくそういう話しますよ?将来子供出来たらいいねとか。何人欲しいとか。」

「そうなんだ。…って、彼氏いたんだね」

「いますよー。何言ってるんですか」

当たり前だと言わんばかりの返答に、多少動揺した。

付き合っている異性がいることは当たり前なのか、彼女の人気振りも健在のようだ。

「ちゃんと考えた方がいいですよ?やっぱ女の人って、最終的には結婚したい人の方が多いですし。会社の女の子たちとも、よくそういう話題になりますもん。彼氏いてもいなくても」

「そういうものなの?」

僕は薫が初めての彼女ということもあり、女性の思考というものに疎かった。というのも、薫と付き合いだしてから彼女に指摘されて初めて自覚したくらいだ。

「女性には出産がありますからね。それ考えてる人多いです。体力の面とか考えても、早過ぎるのもどうかなって感じですけど、やっぱ遅くなり過ぎるのもって」

「そっか。そうだよね。」

「しかも、飯田先輩って子供好きじゃないですか。だからあたしはてっきりそういう話も普通にしてると思ってました」

子供ね…。確かに薫は通り掛けの子供を見たりするといつもはしゃいでいた。結婚というものを全く意識した事が無い訳でもなかったが、自分にとってはずっと先の未来のように感じていたし、どこか他人事と思っていた。実際就職の問題で将来を考えている余裕がなかった。

薫とは本当にそういった話をしないから、彼女が何を考えているのか見当も付かないが、今はそういう話をする時期ではないと思っている。結婚話なんてものを持ち出せば就職してからにしろと怒られそうなものだ。

「ところで、その彼とは長いの?」

「今の彼氏ですか?そんなでもないですよ?」

「長いわけじゃなくても結婚とか考えるもの?」

「年齢もありますよ。最近は若いお母さん多いじゃないですか」

「なるほどね。やっぱり、出産が大きいんだね」

「そうじゃない人も勿論いますけどね」

「ふーん」

「古枝先輩は結婚したくないんですか?」

「うーん。考えたことないからな。正直よくわからないってのが正直なところなんだよね。女性は出産を考えるけど、男はそういったのには疎いからね」

「お友達さんとかではいないんですか?」

「まだ社会人1年目だからね。みんな普通に社会人やってるよ」

それから暫く結婚についての人生論を語り合って、僕たちは分かれた。ただ明るいだけではなく、社交的な彼女は様々な年代の人と良く話をしているようだった。そんな彼女との会話はとても新鮮で、代わり映えのしない日々を送っている僕にはなんだか刺激的に感じた。



「…ただいま」

「お帰りなさい。出掛けてたの?休みの日に珍しいね」

「薫、帰ってたんだね。連絡くれれば早く帰ったのに」

「今日は少し仕事が早く終わったの。たまには早く帰ろうかなって。ご飯は?」

「外で済ませてきたよ」

「そっか。何も用意してなかったから丁度良かった」

僕よりも彼女が先に帰宅してるなんて本当に珍しかった。いつも朝早く出て帰ってくるのも遅い。働き詰めで体調を崩さないか心配するほどだ。

「ねえ。旅行の話何も進めてなかったよね。」

「そうだね。折角だし、コーヒーでも飲みながら話そうか」

「たまにはあたしが淹れるよ」

薫とこんなに長く一緒にいられるのはかなり久しぶりだった。と言っても、2、3時間程度の時間ではあったが、なんだかとても満たされた気がした。話をしている間、終始彼女は楽しそうに笑っていた。付き合いだす前から、彼女の笑い声を聞いていると気分がとても落ち着いた。

忙しい仕事の合間を縫ってよくここまで調べたものだと言う位に、彼女はこれから行く京都の情報をたくさん持って帰って来ていた。本当に言ってくれれば早く帰ってきたのにと、出掛けていた自分に対して少し腹立たしく感じたくらいだ。

「あー、本当に楽しみだね。早く再来月にならないかなっ」

「そうだね」

「仕事忙しくて最近プライベートな時間も無かったから本当に楽しみっ。そういえば、ひろは行きたい所とかないの?あたしばっか行きたい所決めてるけど…」

「ああ。大丈夫だよ。正直僕は何も考えてなかったから、折角だし、薫が行きたい所に行こうよ」

「それでいいなら、いいけど…いいの?」

不安そうに見つめる彼女の表情に、心揺さぶられる。元彼の話をした時のそれを思い出してしまったからだ。

「本当にいいよ。実はさ、今最終面接まで行った会社からの連絡待ちでそっちが気になってそれどころじゃなくてさ。ごめんな」

「そういう事か。それなら、仕方ないね。通知待ちって一番辛いもんね。あたしも今の会社の結果待ちの時は、何にも出来なかったし」

「分かってくれてありがとうな」

実際のところ、それだけが理由ではなかったのだが、特段それを彼女に話す必要性は感じなかった。元彼の話や今後の結婚についての考え方など、今聞くべき事でも無い。もっと後でいい。今は何よりも、僕の就活問題がかたづいてからだ。

「あと1ヶ月半かあ。楽しみだね。ちゃんと旅費貯めといてよね」

繰り返すカウントダウンするかのように、念押しする彼女はとても楽しそうだった。

「わかってるよ。明日は仕事早いの?早いならもう寝ないと」

「そうだね。そろそろ寝ようか」

同じ家に住んでいるものの僕らは別々の部屋で寝起きしてる。お互いの仕事や就活の邪魔にならないようにと彼女が提案した。



目が覚めると、いつも通り彼女の姿は無く、部屋の中はとても暗かった。昨夜は珍しく彼女との時間を長く設けられたからか、なんだか感慨に耽ってしまった。彼女といる時間が満たされたものであるのは、どれだけの月日が流れても色褪せることは無かった。このままずっと続くと勝手に思っていた。

新卒採用が適用される期限が刻一刻と迫っている中、就職に対してかなり焦っているのも事実だった。好きだけではやっていけない世の中で実際に身を置いているのは彼女の方で、僕ではない。それが気になっているのも事実だ。だが普段はそれを出さなようにしている。それが彼女には関係ないことだから。


ポスト確認してから、繁華街へと出掛ける事がここ数日の日課となっていた。バイトは申し訳無いが、休みをとっている。先方の電話が掛かってきた時に出られない事が無いようにしている。…それくらい、今回の結果通知は僕の人生にとって大きかった。

まだ結果は返ってきていないようだった。結果は遅くともあと3日以内には届く。

電話連絡または郵送といった古風な通知システムを適用している会社はまだ少なくない。通知をいち早く受け取るためにとバイトを休んでいるものの、ずっと家にこもっているも苦痛だ。携帯とポストの往復をしていても、配達時間は決まっているから意味はない。


午前中の早い時間ともなると、繁華街といえども流石に人通りは少なかった。街を行き交っているのはスーツを着たビジネスマン風な人々ばかりだ。僕のような私服の人間はどうしても目立つ。自分もあんな風に働く日が来るのかと思うと、想像も出来なかった。少しばかりの羨望の眼差しを向けていた。

今回が決まらなかったらどうしようか、とか。この先の自分がどうなるか、とか。考えなくてはならない事と考えなくてもいい事が頭の中を掻き乱していて、纏まりのつかない状態が続いていた。

ここ数日はずっとこの調子だった。こういう時は決まって、このカフェのテラス席で街を行き交う人々を眺める。

「あら。いらっしゃい。ここ最近毎日来てない?」

優しげな眼差しで微笑みを向けてくれたのは、吉宮さんだ。高校時代からこのカフェにはよく来ているが、未だに下の名前を知らない。

「…ええ。最近考え事が多いんですよ」

「そうなの?就活生は大変なのね」

不思議と厭らしさを感じさせない。

「まあ、その生活から解放されるか否かの瀬戸際なもので」

軽く自虐が混ざっているのを自覚しながら、苦笑を浮かべる。

「凄いじゃない。じゃあゆっくり残りの時間を楽しんで」

「冗談きついですよ。楽しめるような状況ではないです。」

「そうかしら?勤めるようなったら、そんな時間も無いのよ?」

「…今は素直に受け止めておきます」

年上とは言っても、そこまで離れてもいないであろう彼女は何故か同世代には無い落ち着きを持っている。

「先人の言葉は聞いておくものよ?いつものでいいかしら」

「先人て…肝に銘じます。はい。お願いします」

最近の僕にとっては珍しく、冗談を交し合う位によく話をする人だった。この生活が始まってからというもの、同級生や先輩達と時間の合わなくなったのが大きな要因だ。

既に社会人として働いている同級生を尻目にこの生活を送っていること自体は、悲観すべきものだが、今の生活を楽しんでいるのも確かだ。一人の時間を有意義に活用出来ているかはさて置き、こんな風に私服の一時を送りながら、街を行き交う人々を眺められるのはとても心が落ち着いた。

「ところで、例の彼女さんとの同棲生活は上手くいっているのかしら?」

珍しく、吉宮さんからプライベートな話を持ち掛けられたことに驚くあまり、半テンポ反応が遅れてしまった。

「え?…ああ。まあ、順調だと思いますよ?あまり変わり映えはしていないですけど」

「そうなの。よかったわね。」

ゆっくりと微笑む吉宮さんはいつも通り、とても綺麗だ。落ち着いた雰囲気に付け加え、黒く長い髪を無造作に束ねているだけでどこか艶やかさを感じる。時折シャツの隙間から覗かせるうなじを見てはどきっとさせられていた。化粧気は薄くも、整った顔立ちできっとどんな服装でも似合うであろう。

「どうして突然?」

「いえ、なんとなくね。なんだか、就活だけで悩んでいるわけではなさそうだったから。でも、私の勘違いのようね」

自分でも気付かないような変化に気付いて貰える程、ここに通っていたのかと検討違いな考えが浮かぶ。

「そうですか?」

「気にしないで。ごめんなさい」

少し気まずそうに笑む姿も綺麗だな。…ここに通っている理由は、他意もあるのかもしれない事は秘密にしておこう。

「…今は就活の事しか頭に無くて、自分の状況を気に掛ける余裕が無いのかもしれませんね」

やはり出てくる言葉は少し自虐的だ。

「そんな卑屈になってるようじゃ、この先やっていけないわよ?」

「そうですかね」

「そうよ。笑う門には福来たるって言うでしょ?その通りよ。辛い時こそ笑うものよ」

胸をポンっと叩いて見せる仕草に昭和感を覚える。どうして時折、彼女の言動が古めかしいのかいつも不思議に思っていた。

「…吉宮さんは、どうしていつも素敵な笑顔のままでいられるんですか?」

ほとんど、考えずに口をついて出た言葉だった。

「私?」

「あ、いえ。すみません…」

「いいのよ。そうね。博彰君の前では、仕事中だからっていうのもあるけど、人と接する時には楽しい事を考えたり相手の良いところを見つけるように心掛けているからかしら」

「相手のいいところ…」

「そう。」

そう話している間も吉宮さんは笑顔を絶やさない

「…凄いですね。自分には真似出来る気がしない。」

「真似する必要は無いんじゃない?自分に合った方法を自身で見つけて、それを実行に移せばいいと思う」

「自分自身で見つける…」

「他の人がやっていることはその人に合ったやり方で、博彰君には博彰君に合ったやり方があるわ」

面白いと思った。

正直吉宮さんと話をしていると今まで自分に無かった考えが次々と聞けて、俗物的な言い方をすると年上の女性の魅力と言うものを感じる。…薫とはどうだろうか。最近2人で話をしていてこんな風に感じる事はあっただろうか。

「…吉宮さんと話をしている時が、僕には一番居心地がいいです」

「それはどうもありがとう。私も楽しいわ。博彰君は擦れたところが無くて、とても素直に話を聞いてくれるから、私としても話がし易いの」

「なんか照れますね」

「普通本人を目の前にしては言わないからかも」

ふわふわとした柔らかい印象が絶えない女性だ。

「なんかすみません。お仕事中に…」

「いいのよ。今朝は珍しくお客さん少ないし、私も楽しいから」

「ありがとうございます」

「でも、彼女さんに怒られちゃいそうだな。こんな風に博彰君と長話してしまって」

本当に申し訳なさそうに眉を八の字にする。笑顔意外あまり見たことのない人が見せる困り顔というのは新鮮なものだ。

「大丈夫ですよ。きっと気にしません」

ふっと苦笑する。何故か自虐的になる。薫とのことでこんな風に感じたのは、これが初めてだった。

「あまり会えていないんでしょ?」

「…そうでもないですけど、長い時間はあまり過ごせていないですね。」

「同じ家に住んでいても会えないなんて、とても寂しいわね」

「そうですね。でも少しでも時間を見つけては会いに帰って来てくれますよ?そういうところはずっと変わらないですね」

「あら。とてもいい彼女さんで安心したわ。でも、博彰君から会いに行くことはないの?」

「え?」

頭の中で何かが割れる音がした。

「…行かないの?」

「行ったこと無いですね。向こうは仕事中なので、行き辛いですし」

「そうなの。きっと彼女さん喜ぶと思うわよ?たまには行ってあげたら?」

「そうですね。今度機会あれば」

曖昧に答えてしまった。丁度、そのタイミングで続々と店内に客が増えてきてしまった。

吉岡さんが小さな声でジェスチャーと共に、「ごめんね」と言ってくれた。変なタイミングで話が途切れてしまった感は否めなかったが、普段ここまで長話をしないのでなんだかとても楽しく感じた。薫とももっと、こんな風にゆっくりと会話をしたいと思った。昨日ももう少し話したいところを切り上げた。仕事でいつも忙しい彼女の時間を奪うことにためらいがあったからだ。フリーターで残業も無く、シフトの休みはと自由にとれる環境の僕が、彼女の時間を奪ってしまうのはいけないことだと。



暫くぼーっとコーヒーを飲みながら外を眺めている内に、時間は経ちいつの間にか正午が近づいていた。ランチタイムになると、客足が一段と増え、店内はかなりの賑わいを見せる。その前にお暇しようと、僕は席を立った。

「あ、待って博彰君」

「…はい?」

突然、吉宮さんに呼び止められた。

「今日はたくさんお話出来て楽しかったわ。これ、よかったら受け取ってくれる?大した物では無いのだけど、お手製クッキー」

「え?いいんですか?」

「勿論。少し焼き過ぎてしまって、お友達とかにも配っているの。お口に合えば良いんだけれど」

「ありがとうございます。頂きます。…じゃあまた」

成り行きに任せて頂いてしまった…。お手製クッキーだなんて、高校の頃母さんが焼いたもの以来だな。薫はそういう事はしないしな。何かお返しをしないと…。



自宅へ戻ってからも食べてしまうのがなんだか勿体ない気がして、口を付けられずにいた。ただひたすら、お返しを考える事に神経を注いでいた。そうこうしている内に、外は段々と夕焼けに染まろうとしていた。


カチャン。


と、郵便受けに何かが入った音がした。その時に漸く夕方の配達の時間となっていた事に気が付いた。


頭の中が真っ白になる。


ゆっくりとドアに備え付けれられた郵便受けへと近づく。家の中には自分一人だけ。足に重石を付けたように上手く前へと近づけない。

ここ数日、ずっと待ち侘びていた音を聞いたのだ。無理もない。


郵便受けの中に封筒が入っていることを確認して、それを取り出す。


きっと、郵便物にこんなにも緊張する人なんていないだろうな。


中身を取り出し、文面を見た僕は飛び上るほど喜んだ。

第一志望の会社からの内定通知だった。

感極まるとはきっとこの事をいうのだろうと、僕は思った。なんとも表現し難いこの喜びを誰かに伝えたかった。

「そうだ。薫の所…」

吉宮さんにも言われたからか、自分の気持ちからか彼女に逸早く会いたくなって家を飛び出した。

きっと彼女も喜んでくれる。会社まで行ってしまったら迷惑かもしれないけれど、きっと笑って許してくれる。彼女も応援してくれていたことなんだから。ずっと支えてくれたのだから。きっと彼女も同じように喜んでくれる。ああ。これでやっと僕も社会人の仲間入りだ。


どんなに仕事が忙しくても、すぐに帰れるようにと彼女の会社から15分ほどの所にアパートを借りた。そのことをこんなにもよかったと思う瞬間が、今以上に僕自身あるだろうか。近いとはいえ、歩いている時間さえももどかしく感じる。高鳴る鼓動を抑えられないと同時に、ほとんど駆け足のように進む。


漸く彼女の会社の前まで着き、深呼吸をする。全速力で走った後のように鼓動が早い。軽く汗ばんだ額を拭いつつ、薫がタイミングよく現れないかと待っていた。だが、そんな偶然が起こるわけもないと思い直し、ビル内に入る。

「こんにちは。本日はどちらにご用でしょうか?」

受付の女性の機械的な笑顔に気圧されつつ、要件を伝える。

「編集部の飯田薫に取り次いで頂けますか?」

「飯田ですね。お約束はありますか?」

しまったと思った。何の約束も無く、普段着の僕が立派な会社の受付でなんと思われるか考えていなかった。

「約束はしていないのですが、古枝と伝えていただければ伝わるかと思います。」

「…。畏まりました。少々お待ちいただけますか?」

困惑しながらも、なんとか取り次いでもらえそうだ。受付嬢の笑顔を見ながら、ぼんやりと吉宮さんの笑顔を思い出した。

「5分ほどで参りますので、ロビーのソファでどうぞお待ちください」

案内されるまま、ソファに腰かける。その間ロビーを行きかう人々はすごく洗練された雰囲気で、しっかりとビジネススタイルで足早に通り過ぎていく。自分があまりにも場違いな事に後悔した。

やはり迷惑だっただろうか…。

興奮冷めやらぬまま、勢いでここまで来てしまった。しかし、どれだけ公開をしても、受付を済ませた以上ここで帰るわけにもいかない。

5分が5時間にも感じた。とにかく早く伝えたくて、待ちきれなかった。

「ひろ??」

ロビーに現れた薫はとても驚いていた。

「ごめんね。急に会社まで来ちゃって…」

「え、ううん。ちょっと外出よっか」

喜ぶというよりも、ただただ焦っている様子だった。

薫に急かされるようにしてロビーを抜ける。やはり場違いだったからか。

会社の正面フロアから少し離れた場所まで歩くと薫が振り返る。

「本当にどうしたの?突然。会社に来るなんて」

「ごめん。どうしても伝えたいことがあってさ。迷惑だったかな?」

「…えっと、少しなら大丈夫。あまり長くはいられないの」

答えになっているような…なっていないような。

「実はさ、今日通知がきたんだよ」

「通知って…あ。ひろが行きたがっていた会社の??」

きょとんとした表情で薫が首をかしげる。

「そう。それで内定を貰えたんだ」

先程までの後悔やら羞恥心やらが吹き飛ぶ。そうだ。内定を伝えに来たんだ。

かつてないほどの興奮状態で、内定通知の事を報告する。

「あ、そうなんだ。よかったね。やっとひろも社会人だね。おめでとう。」

思っていた反応とはかけ離れていた。困惑した表情のままの薫に、興奮した気持ちもどこかへさーっと引いていくのを感じた。

「あ、ありがとう」

「…話はそれだけ?」

「え?あ、うん。」

「そっか。わざわざ報告しに来てくれてありがとう。あたし、そろそろ戻らなきゃ。またね、ひろ」

「う、うん。」

じゃあ、と手を振って去って行く彼女の後姿を見ながら、複雑な感情が溢れ出していた。

もっと、喜んでくれるかと思ったのに…。

薫にとってはあまり嬉しい事ではなかったのだろうか。やはり、いきなり職場に押し掛けたのが良くなかったのだろうか。それとも、ただ仕事が忙しかっただけだろうか。

考えれば考えるほどわからなくなっていった。


気が付くと、いつものカフェテラスに足が向いていた。

「あら…いらっしゃい。珍しいわね。こんな時間に」

いつもの吉宮さんの笑顔だ。

朝は出勤前の会社員、昼はランチメニュー目当てのOLで賑わうこのテラスも、夕方を過ぎ間もなく辺りも暗がりに包まれるであろう時間ともなると多少は空いていた。

「こんばんは。閉店間際にすみません」

「全然気にしなくて大丈夫よ。いつものでいいかしら?」

「はい。お願いします」

吉宮さんがコーヒーを淹れてくれている間、会話は無かった。今朝とは大違いだ。

「…どうぞ。熱いから気を付けてね」

「はい。ありがとうございます」

「何かあったの?」

吉宮さんにはなんでもお見通しなのか。それとも自分は今、誰が見ても分かるほど動揺しているのだろうか。はっきりと自身の状況を掴めないまま、言葉が口をついて出る。

「なんだか気を遣わせてしまってすみません。実は…最終通知が届きまして…」

「博彰君の大勝負の会社ね?それで?」

うきうきした様子で話を聞いてくれる吉宮さんが少しだけ、幼く見えた。

「内定通知頂けました。」

つい数分前に、薫に内定を告げた時とはまるで打って変わって、憔悴しきった口調だった。とても内定をもらって喜んでいる就活浪人生には見えないだろう。

「ほんとに??おめでとう!!よかったわね」

両手を大きく叩いて喜んでくれた。

まるで自分の事のように喜んでくれる吉宮さんの前で、少し泣きそうな気分になった。

「ありがとうございます」

泣きそうになるを必死に堪えるあまり、思わず俯いてしまった。

「…なんだかあまり嬉しくなさそう??」

心配そうに覗き込んでくれる吉宮さんに、堰を切ったかのように感情が溢れた。

「いえ、そうではなくて…内定はとても嬉しいんです」

そういった僕の目からは涙が自然と零れ落ちていた。これは何の涙なのか。薫に対してなのか、自分に対してなのか、最早それをわかる術はなかった。

「内定は??」

「ええ…」

ゆっくりと事のあらましを話始める。薫とのことを…。

「…そうだったの。きっと、とても仕事が忙しかっただけなのよ。彼女さんもきっと喜んでくれているわ。それを上手く伝えられなかっただけで、気にすることないわ」

「…そうですかね」

この感情の原因は果たしてそれだけだろうかと疑問に思う。受付嬢の困惑した表情。ロビーを行きかうビジネスマン達の訝し気な視線。それらをまざまざと思い返す。

「きっとそう。ほら、元気出して?」

「ありがとうございます。なんだか吉宮さんに話を聞いてもらったら、元気が出てきました。」

「ふふ。よかった」

空元気だった。精一杯の強がりで何とか誤魔化す。そんな僕に気づいてか否か、吉宮さんのいつも通りの笑顔に少しだけ癒される。

突然すみませんでした、と断りを入れて店を後にした。なんだか気まずい雰囲気を作ってしまったことを後悔していた。今後どんな顔してここまでくればいいのか…



――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「ただいま…」

肩を落としたまま、結局帰って来てしまった。本来なら今頃飛び上るほどの気持ちを持て余いているはずであっただろうに…。

薫はまだ仕事から戻っておらず、暗い部屋に一人でぽつんとしていると、溜息ばかりが部屋の中に溜まっていく。実は…内定通知は自分の妄想で実際は予想通り落ちていた…という事を何度も想像したのだが、何度通知を見返してみてもそれは内定通知に変わりなかった。短い人生の中で最高の時を最悪な気分で過ごす。

なんだか本当に、どちらが現実が分からなくなる。頭の中がぐるぐるする。そもそも、こんなことになったのは何故なのか…。深く考えもせず、職場へ行ってしまった自分のせいなのは分かっていたが、やるせない気持ちはどうしても拭い去れなかった。

薫は、迷惑だったのだろうか…。

あの表情は…。

困ったように微笑むあの表情は、前にも見た…。

確かに誰でもアポも無く押し掛ければ迷惑に思うのは、間違いない。だが薫のあの表情が一番僕を困惑させていた。あの表情は、少し前に確実に見たことがあった。しかし、それをこのタイミングでまた目にする事になるとは思ってもみなかった。どうして…。


結局、一人で闇雲に考えを走らせていても答えが浮かぶわけも無く、僕は薫の食事だけ作り、床に就いた。

眠りにつくのも一苦労だったが、気が付くといつも通りの朝を迎えていた。なんだか寝た気もしなかったが無理やり体を起こす。

「…おはよう」

薫の存在に、その一声まで全く気付かなかった。

「おはよう。珍しいね。まだ家にいるなんて」

「今日はお休みなの。何日振りかな」

ぺろっと舌を出して笑う薫は疲れ切っていた。だから、素直に昨日の事を謝る事が出来た。薫の反応は普通と言えば普通だった。仕事が忙しくて一緒に喜べなかったという言い訳と謝罪。…言い訳なんて言ったら叱られるか

またあの表情を見せた薫から、無意識に顔を背けた。今日はどうやらいつも通りの朝というわけではなかったらしい。

久々の休みという事で、薫と二人で出掛けることになった。最近ずっと買い物に行きたがっていた薫を連れて、新しくオープンしたショッピングモールを回る事にした。空は晴れ渡っていて、快晴そのものだ。

こんな青空のように心も晴れてはくれないだろうか。そんなことを繰り返し考えては、気が付くと溜息が零れた。分かってはいるのだ。一人で考えていても埒が明かない事位は。しかし、こんな事を本人に聞いたところで望む答えが返ってくるとも限らない。どんよりと重たい気分とはまさにこの事だ。

「ねえ。聞いてる?」

いつの間にか顔を覗き込んでいた薫にぎょっとさせられる。かなり長い事考え込んでいたらしい。歩き疲れて入った喫茶店で、黙りこくっていた僕に、薫は少し頬を膨らませて見せた。

「悪かったよ。内定貰えて少し上の空なんだ」

痛い嘘。すぐにばれてしまいそうだった。

「ふーん。まあいいけど。でも本当によかったね!」

今度は満面の笑みだ。…なんだか違和感を感じる。今日の薫は変に上機嫌だ。いつもより、数段口数も多い。ひっきりなしに話しかけてくる。滅多に無いようなマシンガントークに、少しだけ疲れてぼうっとしていたのも事実だ。

「この前はごめんね」

「え?」

「ほら、会社に来てくれた時の事。一緒に喜んであげられなくて」

「あ、ああ。いいんだ。いきなり行った僕が悪いよ」

今度はどんより曇り空に雷が落ちてきたようだ。…喜んであげられなかった、か。今朝と同じ言い訳だ。二度も謝罪を加える彼女に他意は無いのかと変に勘ぐってしまう。そのあとの薫の話はほとんどが耳をすり抜けていった。

聞いている僕の受け取り方なのか、薫の言い方なのか、最早どうでもよかった。兎に角、今日はこんな気持ちのまま過ごすのは至極勿体ないと考えを改め、気分を変え楽しむことにした。

喫茶店を出た後、薫と二人滅多に行かないようなショップ巡りをしたり、普段歩かない公園の中をわざと通ってみたりして休日を過ごした。

休日で人通りはかなり多かったが、案外気持ちを切り替えてからは楽しめた。…人間、思い込みも肝心だ。



「そろそろ帰ろうか」

2人そろっての外食なんてどれ位振りだろうか。思い出そうとしたがすぐには浮かばなかった。腹も膨れたところで、レストランを後にした。辺りはもうすっかり暗くなっていた

「今日、会社に少し寄ってから帰るから、先に帰ってて?」

そう言い残し、家まであと数十分のところで薫は去って行った。なんだかもう2人で出掛ける事は来ないような気がした。何の根拠もない、只の勘だった。だが、妙に納得がいった。だからだろうか。普段だったら素直に帰る所をそうしなかった

ふと、足が勝手に進んでいるのに気が付いた。ああ。薫の会社に向かっているのか、とまるで他人事のように思った。何か訳があったわけではない。只、本当になんとなくそちらに足が向いたのだ。

折角の揃った休日の帰り道。いつもよりも口数の多い薫。度重なる謝罪。晴れ渡った昼間とは打って変わって、空は深い群青色に包まれていた。


とても星が輝いていたのを覚えている。こんなにも星空を綺麗に思ったことは無かった。星を眺める心の余裕が、ずっとなかったように思えた。それだけ僕の世界はとても狭くなっていた。薫との会話が減ったのを実感するのがもう少し早ければ、何か変わっていたのだろうか。あんな表情を薫にさせることも…




―――――――――――――――――――――――――――――――――――


あれから、数か月が経った。今僕は働きたかったこの会社で、新入社員として毎日を過ごしている。今でも日課にしているのは、出勤前にあの素敵な笑顔の吉宮さんが待つカフェテラスに通う事だった。

「いらっしゃい。今日も仕事?」

「おはようございます。照美さん。新入社員は休日出勤が多いんです」

「大変なのね。でもここに来るのね」

「あなたの笑顔を見ないと、一日が始まりませんから」

「言うようになったのね」

毎日くだらない会話を二言三言交わしては、出勤する。とても平凡で、とても充実した毎日を送っていた。

「次のお休み映画でも行かない?とっても面白そうなのがあるのよ」

「それは是非。都合が良い日選びましょう」

休日に良く照美さんと出掛けた。彼女の年を初めて聞いた時は驚いた。こんな事彼女に言ったら怒られてしまうかもしれないが、彼女の事をずっと5歳位上だと思っていたら、なんと1つしか変わらなかったのだ。決して老けて見えていたわけではない。


なんというか、大人の魅力というものがあったからだ。どんな人生を送ったら、こんなにも落ち着いていられるのかと一度聞いてしまった。その時照美さんは、「内心と見た目の分け方を覚えただけよ」と意味深に微笑んでいた。僕にはまだまだ為せない技のように感じた。当分敵いそうもない。

これからの人生を、この人と一緒にいられたら僕はどんなにか幸せだろうかと考える。その為にも必死で毎日ここに通っている。お陰様で、朝寝坊だけはしたことがない。動機が不純かもしれないが…。それでも、僕はとても幸せだった。今がこんなにも幸せに感じられているなら、きっとこの先も幸せだろう

そんな風に思えるほどに。




あの日。薫に別れを告げた日。こんな風に思える日が来るとは考えもしていなかったが。思えば、薫があの表情をしていた原因は僕にあったと今更ながら痛感している。薫の事をもっと考えてあげていれば良かったと後悔しない日は無い。独りよがりな未熟な僕の恋…。


「どうして、ずっと連絡くれなかったの?待ってたのに…」

「ごめんよ。どうしても連絡を取る暇が作れなかったんだ」

「携帯もあるのに?国際電話がそんなに大変?」

「…何を言っても、言い訳にしかならないね。本当にごめん」

「どうして、今更迎えになんて来るの…」

「今しかなかったんだ」

誰もいないと思っていたのか、割と大きな声で会話をしていたから、すぐに分かってしまった。海外に留学した切り、連絡の取れなくなった元彼と一緒にいるんだと…。薫の聞いた事も無い、甘えた声…。きっとこれが本当の彼女だったんだ。勝ち気で何事にも毅然と立ち向かっていく彼女ではなく…

声が聞こえた所から僕の足は一歩も進まなくなってしまっていた。怖気づいてしまったようだ。無理もない…何年一緒にいても、きっと僕では薫の本当の姿は見いだせなかっただろうから。

「一緒に来てくれないか?向こうで一緒に暮らそう。すぐにとは言わないから。一か月後にまた来る。その時までに…」


そこまでしか聞こえなかった。後は無我夢中で僕は声のする方とは逆の方向に走っていた。ああ、僕は負けていたんだ。ずっと。最初から、勝ち目なんてどこにもなかったんだ。きっと薫は彼についていく。そう確信していた。薫が行きたいと言った京都への旅行、あの話をしたのはいつだったか…

いつか2人で住む大きな家の話。子供の話。ペットを飼うなら、猫か犬かで喧嘩もしたっけ。そんなことがぐるぐる頭の中を回って吐きそうになっていた。…僕はなんて、子供だったんだろうか。辛いのはきっと薫の方だったんだ。僕が辛かったのは、僕自身の未熟さが原因だったんだ…


唐突に全てが分かってしまった。薫のあの表情は、僕に対する謝罪の気持ちだったんだ。2人の気持ちが釣り合っていないことに対する…僕の独りよがりな気持ちに対する…薫があんな風に泣くところ、僕は初めて見た。薫と付き合っている期間一度だって見たことのなかった、薫の涙。僕はそれ程、彼女を…


彼女を見てすらいなかった。僕が見ていたのは彼女の表面だけ。彼女に僕が勝手に押し付けいた、僕の幻想だったんだ。


「ひろあきくん…?」

気が付くとまた、カフェテラスに来ていた。そろそろ来過ぎだと怒られてしまうかもしれない。

「…よし、みやさ…」

涙でぐちゃぐちゃな僕の顔。声も。

「…コーヒー飲む?」

温かいいつもの笑顔がそこにあった。


それから後の事は正直あまり覚えていない。縋り付いて泣く僕の背中をそっと撫で続けてくれていた、吉宮さんの掌の温もり以外は…。


翌朝、薫に自分から別れを告げた。昨晩目撃してしまった事実と、薫への気持ちに対する謝罪と共に。



今日の空は、春の雪が降ったが如く、満開の桜から、その花弁がぱらぱらと舞い落ちていた。澄み切った青い空に舞う薄桃色の花弁たち。まるで、街を行き交う人々に、これから悪戯を仕掛けに行くように、楽しそうに舞い踊る。未来の事は誰にも分らない事かもしれないが、過去から学ぶ事は誰にだって出来る。

これから先、たくさんの失敗と成功を繰り返して、皆成長していくんだと、当たり前の事を実感する日々。そんな今の自分はあの頃よりも少しは成長できたのかな。

ねえ、薫。君は今、遠くの空の下、君らしい笑顔で笑っているだろうか。無理をしていないだろうか。苦しい時は大切な人の肩を借りているかな。


今でも時々そんな風に君を想う僕を、悪く思わないで欲しい。人生で初めて好きになった女性は君だったんだから、これくらいは許してほしい。

見上げた空がそっと、微笑んだ気がした。温かい日差しがゆっくりと昇っていく。あちこちにできた陽だまりに、僕の足が踏み込んでいく。とても気持ちのいい日だ


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