やなやつ
陽介さんとのランチから三日後、私は花岡くんを連れて異動の挨拶に出ていた。花岡くんへ引き継ぐものはいずれもイレギュラーな案件だった。体育会系の営業で熱意と元気で乗り切っているところが多い彼に、経験を積ませたいというのが上の考えだ。期待されているんだなあと、どこか他人事のように感じてしまう自分が卑屈で嫌になる。
「ご結婚でもされるんですか?」
佐藤さんに人事部へ異動になる旨を伝えた時だった。突然の言葉に私は首を傾げてしまい、横にいる花岡くんも目をぱちぱちさせた。
私たちの反応を見て佐藤さんは乾いた笑い笑い声をあげる。
「ああ失礼。女性は結婚すると事務の部署に移ったりするでしょう。ちょうど先日駅前で吉川さんが男性と歩いているところを見かけたものだから」
「えっ?」
驚いたのは花岡くんだった。何をそんなに驚くのか。
私と一緒にいたというのはきっと陽介さんの事だろう。そうかこの人、今私に嫌味を言っているんだな。気が付いて幼稚さに呆れてしまう。
ため息を飲み込んで口角を持ち上げる。
「結婚の予定はありませんよ。営業の部署も長くなってきたので未経験の分野に挑戦させてもらうことになりまして」
「お相手の男性、若い方でしたね。流石吉川さん。若い男性からもモテるんだなあ。結婚したら遊べなくなりますしね」
「……今日は花岡の紹介ですよ」
「え、気分を悪くされました? すみません」
佐藤さんはまた笑った。部下の前でわざわざ、やめてほしい。上手くかわせない自分も恥ずかしい。あの日の事をすべて消せればいいのに。
愛想笑いに紛れて下を向くと、目の前に影が出来た。
花岡くんが私の前を遮るように立っている。
「吉川の言う通りですよー。もっと僕にも興味持ってくださいよ。これからよろしくお願いしますね。本日はご挨拶だけで失礼しますが、また改めてお時間いただきます!」
有無を言わせない勢いでもって、花岡くんは深々頭を下げた。私も乗っかってお辞儀をする。
佐藤さんに何か言われる前に私たちはその場を後にした。
ビルを出てしばらく歩く。おしゃべりな花岡くんが何も言わずにいて、私は心やましいものがあった。
ヒールが地面を叩く音が響く。横を歩く花岡くんの髪が揺れているのを横目で見てから嘆息した。
佐藤さんは奥さんが私に連絡したことを知っているのか知らないのか、わからない。ただ、私が想像していたよりも距離を置いたことを面白くないと感じていたようだ。結果的に部下に情けない所を見せることになってしまった。
先送りにして、対応を怠ってしまったツケだ。
思えばあの日も、私は私をセール品みたいに扱ったんだな。
「気を遣わせてごめん」
ぽつりと溢すと、花岡くんは前を向いたまま「え、俺気を遣えてました?」なんて軽口を言う。
「昔のお客様の紹介で法人と契約になったから吉川さんが担当なんでしたよね」
「そうだよ。法人営業のほうに引き継ごうかとも思ったけど、今の件に関しては同じ営業グループ内でそのままって事になって」
「何があったかは知りませんけど、吉川さんが強気に出れないってわかってて、やなやつ」
やなやつ。良い表現だと思った。
思わず笑い声を漏らすと、花岡くんはむくれてみせた。
「なに笑ってるんですか」
「いや、べつに」
「嫌いなんですよ、傷ついている人を『怒ってる』とかって言うやつ。勝手に『怒り』に変換されると辛さや悲しさが浮かばれない」
「……辛さや悲しさを思いやれる人は、なかなかいないよ」
変わった感性の持ち主だとは思っていたけれど、知らない一面がまだまだあった。異動する直前に気が付くなんて、至らない上司だったな。
私の辛さや悲しさは、ずっと報われてこなかっただろうと思い立つと、申し訳ない気持ちになった。
たまには向き合ってもよかったのかもしれない。温かいお茶でも入れて、好きな曲でも聞いて、ゆっくり優しい本でも読みながら。
ああ、そうか。今ならわかる。今夜は夜ふかししよう。そうして少し、寝坊しよう。