閉める閉める詐欺
2.閉店セール
それはもう大体のことはどうでもよくなるような暖かな日よりと歩き回った足の疲れが、私から思考力を奪って時間の経過をもゆっくりにさせる。
もうじきに九月も終わるというのに、秋になることを世界が拒んでいるみたいだとぼんやり思う。
友香梨から買い物に付き合ってほしいと連絡がきて、私はデパートへ来ていた。
一通り見て回った後で休憩のためにカフェに入った途端、友香梨に電話があり一人で待つことになった。
「いつになったら閉店するんだろうね」
テラス席で友香梨を待っていると、横の席の女子大生二人組の会話が聞こえてくる。
なぜこの二人組が大学生だということを私が知っているかというと、彼女たちが話してくれたからである。
サークルのミレイちゃんが最近キャバクラで働き始めただとか、アツシとユキコが別れただとか、と思ったらユキコにはすでに次の男がいただとか、私は数分後には全部忘れるであろう知識を空っぽな脳に流し込んでいた。
ゴシップも尽きたらしい彼女たちが次に話題にあげたのはデパートのある大通りから一本入った所にある小さな靴屋の事だった。
「いつって?」
「だってもう半年は閉店セールやってない?」
「あー。まーね」
「閉める閉める詐欺だよね」
「たしかに」
全開の蛇口のように頭の中に浮かんだことを次々口にしてゆく女子大生も、きっとこの陽気にやられている。
私も心の奥で「たしかに」と頷いた。
何という名前の靴屋だったか、閉店セールを始めてからの粘りが尋常ではなかった。「閉店セール」と赤文字で書かれた張り紙が店先を飾りだしたばかりのときは「閉店するなら行ってみようか」と思ったものだが、今となっては閉店セールの文字さえ街の景色の一部になりつつある。
「ごめん、お待たせ」
電話を終えた友香梨が席に座り、私は意識を浮上させた。
ふわふわに巻かれた明るい茶髪から甘いバニラの香りがした。友香梨が彼女らしくいてくれる事に安心する。
「やっぱりさっきの無地のストールにしようかなあ」
友香梨が言って、アイスカフェラテのグラスを持ち上げる。最近はハーブティーばかりのんでいたのに珍しい。
「いいと思うよ」
私は買い物に付き合ってくれたお礼にと友香梨がご馳走してくれたモンブランにフォークを入れた。
友香梨の買い物は、義理の母へ渡す還暦祝いのプレゼントだった。本当は夫と買いに行く予定だったらしいが、現在「冷戦中」のために友香梨が用意する事になったのだと言う。
冷戦中にもかかわらずその母親へのプレゼントをきちんと考えるあたり、友香梨はすごい。すごいのに、なんでまたそんな状況になったんだろう。
「そういえば、なんで喧嘩したの?」
「方向性の違い」
「何の方向性」
「家庭を築く上での」
硬いタルトと格闘しながら友香梨は唇を尖らせた。
「それは重要な問題だね」
甲高い子どもの声が聞こえてきて、友香梨の手が止まる。
手を繋いで歩く家族連れが前を横切って行った。遠ざかっていく子どもの姿を見つめる友香梨につられ、私も小さな背中を目で追う。
「妊活が、プレッシャーだったんだって。私がやることが当てつけみたいに見えたんだって」
沈んだ声色で友香梨が続けた。
「でもさあ、それじゃあどう努力すればよかったの?」
カン、とフォークが皿に当たる音がした。
私もフォークを置いて、伸びてしまった指先のネイルに目をやる。この後サロンに行く予定だった。ワンカラ―のネイルで毎月五千円。私のこれは、身だしなみであり装備品の一つだ。
でも友香梨が以前やっていたネイルは、彼女の人生を彩るためのものだった。好きな色や季節や行事に合わせたデザインを、嬉しそうに話していた事を覚えている。
秋っぽいでしょ。バレンタインネイルなんだ。好きな花なんだ。綺麗な色だよね。彼女は指先に好きなものを詰め込んでいた。
いつからだろう、友香梨がネイルを辞めたのは。カフェインやアルコールを控え始めたのは。お気に入りのブランドの服をほとんど買わなくなったのは。
ミヨが聞いたら、きっと煮詰めたコーヒーを飲んだみたいな顔をするはずだ。でも今は私しかいないから、代わりにぎゅっと顔を顰めた。
「……徹底的に戦おう。私、貯金だけはあるから。少しの間なら友香梨のこと養えるよ」
友香梨は私の真剣な声にけらけら笑った。
「ありがとう、いざという時は養ってね」
「友香梨の努力に向き合いもしないで勝手にプレッシャー感じて、そんなことになる前にちゃんと話せばいい。人には口も手も、目も耳もついてるんだから」
言いながら、私は胃の奥が重たくなるのを感じた。本当にそうだ。私だっていつもそうだ。
いつでも計算づくで相手の求める言動をして、完璧な自分であろうとして、勝手にプレッシャーを感じて最後の最後に拒否する。相手が努力してくれていることも、知っているくせに。最悪だ。
しばらくの間、私たちは黙ってケーキを胃袋に収めた。
お皿の上に残った欠片まで綺麗に平らげた後で、友香梨が明るい表情で口を開いた。
「そうだ、真紀もなんか相談があるって言ってなかった?」
言われてから、今日の約束の時にそんなことをラインしていたことを思い出した。
「旦那さんと冷戦中の時にお願いする事じゃないんだけど、彼氏欲しくて。紹介してほしいなと思ったんだけど」
私の交友関係の中で、友香梨が一番社交的で男友達も多い。出来れば彼女の負担になりたくなかったけれど、すがるような気持ちだった。空っぽの自分を他人に埋めてもらおうとしている自覚はある。
友香梨は私の申し出に驚いたようだが、顎に手を当てて考え出した。
「うーん……。真紀に紹介できる人って難しいなあ」
「誰でもいいよ。どんな人でもいい。独身で、彼女がいない人なら誰でもいい。とにかく誰にでも会ってみたいの。選べる立場じゃないからさ。数うちゃあたるっていったら友香梨の友達に失礼だけど」
記憶を辿るように難しい顔をしていた友香梨が、鋭い目つきで私を見た。彼女はどちらかというと私の恋愛経験のなさに苦言を呈していてたから、積極的になったことにこんな反応をされるとは想定外だった。
「やめてよ。そんな風に安売りしないで。」
友香梨がいない間に横から聞こえてきた「閉店セール」が脳裏に蘇る。
だって私、もうそろそろ閉店セールの歳じゃない。いつになったら閉めるのかって、周りに言われるんだよ。みじめなんだ。値段を下げるより、売れ残る方がみじめなんだ。結婚している友香梨にも、あんなに愛されているミヨにもこの気持ちはわからない。
なのに結局、友香梨は私に誰も紹介してくれなかった。
この世の中には美しい愛の歌が溢れていて、信じられない再生回数を誇っている。私にはそんなこと起きないのに。美しい恋の成就も、美しい失恋でさえ、起きないのに。
私は私を美しく思うために、いつの間にか愛やら恋を飾り付けていた。私にとっては薄汚いものなのに。
二月三日。
『節分なんて、はじめてやった。太巻きを食べるだけで願いが叶うなら世の中の願いなんて全部叶うだろうと思うけど、あの子が作ってくれた恵方巻は食べにくくて美味しくて、願い事の事なんて忘れて食べてしまった』
一月二十日。
『自分に酔っていると言われたら、そうだと思う。でも私だって、自分に酔ったっていいじゃないか。自分に酔った最期を迎えたいっていうわがままくらい、かなえさせてほしい』
『神様はきっといる。いろんな人に心に、いて、いろんな人の願いを叶えながら、いっぱい無視もしてきた。だから神頼みがずっと存在するんだ』
一月一日。
『一年に区切りをつける必要がなぜあったのか。考えたことがある。そもそも一年を一年とする必要が、一か月を一か月とする必要が、一週間を一週間とする必要が、なぜあったんだろう。そうすることで生きやすくなる人が、きっといたんだ』




