誰かの人生と自分の仕事
異動が決まった私の引継ぎは、別の営業グループからくる後任者だけでなく今の部下達にも割り振ることになった。
花岡くんに引き継ぐことになった営業担当の中に、佐藤さんの名前があって私は苦虫を噛む。
佐藤さんの妻からだというメッセージが届いてから、彼とは仕事上でも一切連絡を取っていなかった。プライベートのラインに通知が来ていたが既読もつけていない。
佐藤さんは取引先である法人の担当者だが、一通り営業としての役割は終えている。工事ももうじき終わって、あとは引き渡しをするだけだ。会わずにいれることに安堵していたけれど、担当者変更の挨拶はしなければならない。
「吉川さん、大丈夫ですか?」
書類から視線を上げて、花岡くんは私の顔を覗き込んだ。慌てて笑顔を作る。
「大丈夫。ちょっとコーヒー入れてくるね」
席を外し給湯室に向かった。カフェインでもとって、集中しないと。
コーヒーメーカーにカプセルをセットし、使い捨てのカップを置いてスイッチをいれる。
佐藤さんの事は、たぶん好きではなかった。ただ、打ち合わせがひと段落した頃に食事に誘われるようになり、二度お酒を一緒に飲んだ。彼が私に好意を持っていることはわかっていたし、もしかしたら今度こそ恋愛に発展するかもしれないと淡い期待をしていた。今となっては、あれは純粋な好意ではなかったのだろうけど。
「でも結局、駄目だったなあ」
指輪をしていなかったとか、そんなのこの歳になったら言い訳にならない。相手もいい歳なんだ。きちんと確認して段階を踏むことだって出来た。
求められている自分を、期待されている自分を演じるのがたぶん癖になっている。適応力と言えば聞こえはいいけど、ただ流されているだけじゃないか。
勝手に求められて流されてきた「あるべき自分」が歳を重ねるごとに私を苦しめるようになった。確かに流された私も悪いけど、だってそうしなきゃ上手く生きれなかった。
男の子が近寄ってくるのが怖かった。こそこそと目配せをし合う女の子も怖かった。ナンパもキャッチも痴漢もセクハラも、寄せられる好意でさえ、上手くあしらわないと簡単に周りが敵だらけになることを知っていた。せめて人並みに誰かと恋愛が出来れば、それは私を守る盾になると思いたかった。
コーヒーメーカーから苦い香りが立ち昇る。
カップを手に花岡くんの元に戻ると、彼は何やら熱心に資料へ書き込みをしていた。可愛い犬の顔がてっぺんに付いているボールペン。実家で飼っている犬に似ているとかで、社内でだけこれを使うのだと言っていた。花岡くんは自分の機嫌を取るのが上手い。
「花岡くんはこの仕事好き?」
ペンを持つ手が止まったタイミングで訊ねてみる。
花岡くんは僅かに悩んだのちに目を細めた。
「初めはやりがいがありそうとか、お給料が良さそうとか、そういう気持ちで入社したんですけど。今はお客様の人生を垣間見れるのが好きです。友達とか、たくさん話して一緒にいても、それは僕に見せているほんの一部だと思うんです。でも家を建てる時ってその人の深いところが見える気がします。僕にとって意外な設備が喜ばれたりとか。そういうのって別の人生を歩んでいるからじゃないですか」
舌の上のコーヒーがやけに苦い。
私は一言、「わかるよ」と呟くみたいに口にした。
「吉川さんは好きですか? この仕事」
花岡くんが聞いて私は薄くため息を吐く。
「設計から営業になったのもあって、初めは結構色々言われたの。やりすぎとか口出ししすぎとか。ほかの営業の迷惑にもなるし、設計からしてもいい気はしないって」
「僕とは真逆の悩みですね」
デスクに散らばる図面を拾いあげる。たくさんの書き込みが、誰かの過ごす家になる。見ず知らずの人の人生の背景になれる仕事だと思う。
「自分が思ってたより好きだったみたい」