ときめきと日常
二月十四日。
『手作りがいいと言われて、焼いたケーキは縮んでしまった。プロが作った方が間違いないのにね。縮んだ方は自分で食べようとしたのに、見つかって結局あの子は両方食べた』
『ときめきは日常に溶けてしまうものだと、結婚生活の先輩は言っていた。それは辛くて、悲しいことだと思う』
メッセージを送って一週間後、私は『あの子』と二人でレストランに来ていた。
私の仕事は基本的に平日が休みだから中々タイミングがあわないだろうと考えていたが、案外すんなりと決まった。ミヨが亡くなってから、陽介さんはほとんど仕事に行かず有休を消化しているらしかった。
お手軽なランチコースを頼んで、一杯ずつワインも貰う。
「すみません、呼び出したりして」
私が頭を下げると、陽介さんは首を横に振ってクマの濃くなった目元を細めた。眉の下がる困ったような笑い方が、ミヨに似ている。
「家に居るとミヨさんの事を思い出せるからいいんですけど、食事も忘れちゃって。人間らしいものを食べるきっかけになったので助かりました」
ここに来るまで、ずっと悩んでいた。ミヨのツイッターを教えるべきなのか。あんなラブレターは、ないだろうから。
ワインで唇を湿らせると、陽介さんも真似するようにグラスを傾けた。やつれてはいるけれど、絵になる綺麗な人だった。左手の薬指にはプラチナが嵌められて、窓から差し込む陽を受けて光っている。
「ときめきが日常に溶けるのが辛くて悲しいって、ミヨが言ってました」
きらきらとした指輪の輝きも、その内つけている事すら忘れてしまう。
誰かと日常を分け合うということは、『当たり前』にときめきが溶けていくことなんだと言ったのは友香梨だった。
私にはそんな経験がないから理解できず、ミヨもその時は曖昧に笑っていた。「辛くて悲しいこと」だと思っていたなんて知らなかった。
「溶けた日常を過ごせるのって、幸せじゃないですか」
日常そのものが、愛しくなっていくってことですよね。
陽介さんが言って、私は花に囲まれたミヨの事を思い浮かべた。そうか、この人はあの家で、溶けたときめきの中で居るんだ。
こんな風に言える人であれたら、私たちももっと強くいれたのかな。
「僕の事、ミヨさん何か言ってました?」
前菜をフォークで突いて、陽介さんが首を傾けた。
「……自分にはもったいないような若くて素敵な人と結婚した、とだけ。でも、すごく好きだったと思います。貴方の話をするとき、嬉しそうだったから」
悩んだ末に答えたのはミヨが本当に口にしていた事だった。
陽介さんはぱちぱちと目を瞬かせてから、愛おしそうに微笑んだ。
「ご存知だと思うんですけど、ミヨさんも僕も、親が熱心な宗教家なんです。初めて出会ったのも小さな頃に親に連れていかれた集会の時でした。嫌々だったけど、ミヨさんが居たから耐えられた」
私は何も言えなかった。ミヨがはっきりと口にすることはなかったけれど、ミヨの両親が宗教に入れ込んでいて、ミヨにも信仰を強要していたのは知っていた。「家の都合」で誘いを断られることは数えきれないほどあったし、高校生の頃は参加できない行事もあったから。
「家族を捨てて一緒に逃げようってずっと言ってたけど、ミヨさんは頷いてくれなかった。僕の事いつも子ども扱いして、本気にしてくれなかった。……だから、僕の親の方が上の立場だったのを利用して、大学卒業と同時にミヨさんと結婚したんです。ミヨさんの両親は嬉しそうにミヨさんを差し出しました。ミヨさんの目の前で、初めてこの子が役に立つって言ったんです」
静かな声色には、怒りが滲んでいた。沈黙の中で、カトラリーを置く音が響いた。
「どうしてミヨさんは、俺と一緒に逃げてくれなかったんだろう」
視線を落とした陽介さんの目には、涙が溜まっていた。たくさん泣いたんだろうと思った。
こんなに悲しんでくれる人がいるのに、どうしてミヨは死を選んだんだろう。
彼女の言葉を繰り返し読んでいる内にわかりかけてきているように感じるけれど、あと一歩届かない。
陽介さんの問いには結局答えられずに、私は努めて明るい声を出した。
「ミヨのどこが好き?」
涙をごまかすようにスープを何度も口に運んでいた陽介さんは、ぱっと面を上げて破顔した。
「あの人をあの人たらしめる所、全部です」
「……すっごい惚気、聞いちゃった」
顔を見合わせて笑い合う。
このミネストローネも、ライ麦パンも、彼の血肉になる。少しでも長く生きてほしいと思った。ミヨの事をこんなに愛した人が少しでも長く世界に居ればいい。
ミヨと陽介さんはきっと俗に云う依存関係にあったのだと思う。だけどどんなに不健全だとしても、この二人のことをそんな言葉で表したくなかった。
今なら唯がこぼした「結婚で埋めたかったもの」の話を真剣に聞ける。
埋めたかったもの、埋められなかったもの。大人になっても欠陥だらけだ。
「またランチ、誘ってもいいですか?」
訊ねてみると、「いいですよ」と返事があった。
若い女性グループが入店して、店内が賑やかになる。友達の夫とランチ。改めて考えると不思議な時間だった。
ごめんミヨ、旦那さん借りるね。心の中で呟いて私はもう一つ彼に問いかける。
「夜ふかし、する人ですか?」
「……まあ、どちらかというと」
陽介さんは怪訝そうに少し眉を顰めた。
鞄から『星の王子さま』を取り出してテーブルの上に置く。結局、ミヨの『つぶやき』にも彼女の感想は残っていなかった。
「読んだことありますか?」
「有名な作品ですけど、ないですね」
「昔、夜ふかししたいときにおすすめだって言われたんですけど、私にはわからなくて。でもミヨに高校生の頃貸したら、ミヨにはわかるみたいだったんです。これ、差し上げます」
よかったら気が向いたときにでも読んで、感想聞かせてください。そう言って差し出した本を、陽介さんは戸惑いながら受け取った。