空っぽ
四月一日。
『あの子はもっと明るいところにいるべき人だ。私よりずっとお似合いの人が居て、たくさん幸せにならなきゃいけない。わかっているのに、怖くて仕方ない。いつかあの子の心が変わった後の世界に、私はきっと耐えられない』
『もしその時が来たら、笑って身を引くべきだと思う。でもそんな準備は出来そうもないから、その時が来る前に消えたい。そうすれば私はあの子の中で、綺麗なままでいられる』
三月二十二日。
『私はたくさんの人の、通過点の風景だ。通り過ぎていくだけ。あの子にとってもいつかそうなるなら、ほんの少しだけ爪痕を残したい』
三月九日。
『また一つ歳をとった。あの子は私のカサついた手も、好きだと言う。言うけれど、いつか気が付いてしまうんじゃないか。私の事が好きだなんて、勘違いだったと気づく時がくるんじゃないか』
『あの子はずっと綺麗なままで、私だけどんどん年老いていく気がする』
有休を終え、出社するとちんすこうがデスクに置かれていた。「お土産です」とメモが貼られており、遅い夏休みを取得していた部下の花岡くんが配ったようだった。台風襲来が危ぶまれていたが、無事に行けたようだ。
「お、吉川さんが来たってことは十五分前か」
ちんすこうを指先で摘まみ上げてしげしげと見つめていると、横から同僚に声を掛けられた。
「私の事時計だと思ってる?」
私はパソコンの電源を入れると買ってきたテイクアウトのアイスコーヒーを飲んだ。
いつも決まって同じカフェでコーヒーを買ってから出社する。そうしてぴったり八時四十五分にデスクへ座るのが、ここ数年のルーティンだ。
大学卒業後、住宅メーカーへ就職して設計を経験した後で営業に配属された。営業になってからもう七年が経つ。始めは営業なんて向いていないと思ったが、生真面目さが意外に役立った。あと、たぶんこの顔も。
「あー! 吉川さん!」
朝の気だるい脳が揺れた。降ってきた声の大きさに思わず顔を顰める。この声量は花岡くんだ。
入社四年目の彼は、私と正反対と言える破天荒な性質の持ち主だった。新入社員の頃は大小様々な問題を起こしたものだが、一方で営業成績は急成長を遂げていた。
持ち前の明るさと人懐こさで客に気に入られ、あっという間に仲良くなる。引き渡しが終わった後も趣味で一緒に出掛けたりするらしいから、立派な才能だ。知識量と本で学んだ接客術で乗り切ってきた私とはまるで違う。
「お休みありがとうございました! お土産、机に置いてしまってすみません。吉川さん朝一でアポだし、お会いできなさそうだなと思って」
ころころ変わる表情に目が回りそうだ。濃いまつ毛に縁どられた大きな瞳がこちらを見ていて、さりげなく視線を落とす。
「先方から連絡があって、明日に変更になったから。……沖縄、楽しかった?」
「はい! それはもう!」
「台風大丈夫だったんだね」
花岡くんは私の言葉にぽかんと口をあけた。小柄なのに存在感があるのは、こうして惜しむ事なく一つ一つのパーツを大きく動かすからだろうか。私は感情が読めないと言われがちだから、少しは参考にしないとな。
「あれ? 僕台風の話吉川さんに言いましたっけ?」
「いや、花岡くんからは聞いてないけどニュースで見て。そういえば沖縄行くって言ってたなと思って」
「そうなんです! 直前まで天気予報とにらめっこで!」
「お土産話は後で聞くね。久しぶりだしメール溜まってるでしょう。確認して相談があれば言ってね」
私が促すと、花岡くんは元気よく返事をして自席に戻っていった。よく見ると少し日に焼けたようだ。襟足を刈上げたうなじが赤い。日焼けなんて、私は小学生以来していないな。
仕事に取り掛かるとすぐ部長に呼ばれた。連れ立って会議室へ入る。
目の前に座る部長は貼り付けたような笑顔だった。この人は困っている時や言いにくいことがある時この顔をする。
思い当たる事があった。ちょうど人事異動が言い渡される時期だ。この時期になると周りがなんとなく浮足立って、噂話が飛び交う。私も係長に昇進して何度か、部下の異動を聞かされることがあった。
そうか、誰だろう。営業から異動したがる人は多く、今も二人技術部門への異動を希望している部下がいる。代わりに入ってくる人が問題児じゃなければいいんだけど。
「十月から人事部にいってもらうことになった」
「誰がですか?」
「吉川さんが」
部長は私を手で示して口元の皴を濃くした。私は目を見張り、口を開こうとしてやっぱり何も言えずに噤む。
人事部。なんで私が。昇進もしたのに。それなら設計に戻りたい。何のために建築学を専攻したのかわからない。
キャリアステップだとか、部長は私を励ますように話したけれど大して頭に入ってこなかった。
会議室を出てデスクに戻る。飲みかけだったコーヒーは氷が溶けて薄まっていた。
キーボードへ手が伸びずに、ちんすこうの袋を破って口に放り込む。咀嚼していると喉に詰まって咳き込んでしまった。甘い匂いで脳がいっぱいになる。
目を逸らしていた事実に直面した。
同年代の女性社員の多くが、産休育休で会社から姿を消している事。復帰している人も、事務の部署へ配置換えで営業にはもう私しかいない事。
いつだったか、ミヨと友香梨と三人で飲みに行った時、ずいぶんと酔っぱらった友香梨が赤い頬をしながらこう言った。
「私、何もないままこの歳になっちゃって、空っぽだなって思うの。周りはみんな進んでいくのに、私だけずっと同じところで足踏みしてるみたい」
友香梨は結婚指輪を指先で撫でて目を伏せた。
「空っぽのまま生きるのが怖くて、結婚したら埋められる気がしたけど、変わらなかった。それで今は、子どもが居たら埋められる気がしてる。これって、旦那や子どもを自己実現の道具にしてるみたいで、考えると心が重くなる」
私は友香梨の言葉に、「だからもったいないって言ったのに」と口にしかけて、ワインと一緒に飲み込んだ。
友香梨は結婚して、新卒で入った会社をあっさり退職してしまった。当然のように夫の職場の近くに引っ越し、通えないからと辞めてしまったのだ。家が遠くなったから、私達とも会いづらくなった。
どうしてそんなに簡単に、他人に自分の人生を預けてしまうんだろう。他人に自分を埋めてもらおうとするから、あとで困るんだ。そう思ったのに、
「じゃあ今、私には何があるんだろう」
漏れ出た声は喧騒に紛れて消えていった。生ビールの泡を見つめて私は小さく息を吐く。
カウンターがメインの小さな居酒屋は、一人でお酒を飲むようになってから決まっていくようになった店の一つだった。
ビールが飲みたい時はここ、ワインが飲みたい時はここ、気が付けば私はそんな事まで決まった毎日を暮らしている。
若い頃一緒に飲んでいた同期は、皆結婚して子どもがいるからめったに飲みになんていかない。友香梨も同じで子どもはいないけれど家が遠いから急に呼び出せない。ミヨはもういない。
こんな夜にさえ、一緒に飲む人もいないんだ。私の方がよほど何もないじゃないか。
スマートフォンの画面を点けて、ツイッターを開く。ミヨの言葉が聞きたかった。
二月二十四日。
『私はあの子に釣り合わない。あの子はなにか、勘違いしているんだ。気が付いたらおしまい。気が付かないで欲しい。でも、気が付くべきなんだ』
画面を消して、ビールを喉に流し込む。
私はずっと、誰にも何も言われたくなかった。がっかりされたくなかった。
真面目で良い子の自慢の娘で、勤勉で優秀な学生で、綺麗で万能な社員。ずっと完璧な人でいたかった。
求められる姿で、求められる言動でいたかったから、髪から爪の先まで綺麗に保ってきた。きっちり完璧な自分でいれるように気を張ってきた。
なのに、今私は空っぽだ。
結婚して子どもを作れば、埋まるんだろうか。そんなこと、ないでしょ。ああそうか、これが孤独ってやつ。
アルコールが回った頭で、考えた。
「そうだ、『あの子』に会いたいな」
意識が朦朧としている内に、約束を取り付けよう。私は自分に言い訳をするためにアルコールを利用することがあった。
メッセージの返事はすぐに届いた。いいですよ、とあっさりした文面が、『あの子』らしくて笑ってしまった。
ミヨの死が自殺であったことを友香梨に告げると、彼女は沈黙の後でこう言った。
「私がミヨの話をもっと聞いていたら、自殺なんてしなかったのかな」
あの日からずっと、私たちの頭の中は繰り返し同じ問答を繰り返している。
「それは思い上がりじゃない? 私達、わざと踏み込もうとしなかったじゃない」
一挙手一投足を後悔しているくせに、私はそんな事を口にした。
自分の放った言葉が突き刺さって、思い出すだけで苦しくなる。
私の言動が、ほんの少しでも違っていれば、ミヨは今も生きていたのだろうか。私に、止められたのだろうか。そんなことばかり何度も考える。
ミヨは自分の事は何もかも諦めたみたいな顔をするのに、人の痛みには大げさなくらい怒る人だった。
私が振った男の子に陰口を言われた時。友香梨が痴漢に遭った時。誰よりも苦い顔をして絞り出すみたいに「くたばれ」と言って泣いた。私はミヨが泣いてくれるから、それだけで救われる気がした。
なのに私は、ミヨの事情に踏み込む事をしなかった。ミヨにはいつか居なくなってしまうのではないかという危うさがあった。踏み込んだら、目の前から居なくなってしまうように感じた。
それでもこんなことになるなら、無理やりにでも縛り付けておけばよかった? 苦しくても生きてって言えばよかった? もうわからない。だってもう彼女は話してくれない。