つぶやき
八月二十五日。
『幽霊って夢がある。未練があれば幽霊になれるなら、重たい未練をそのままにしておかないと。好きな姿が選べたらいいな。嘘かほんとか、あの子が綺麗って言ったあの日の私がいい』
八月十六日。
『ずっと前から好きだったとあの子は言う。私はたぶん、いちばん初めからだったよ。だけどこんな風にどろどろになってしまったのは、愛が返ってくる幸せを知ってしまったからだ』
七月十三日。
『あの子が淹れるコーヒーは美味しい。いっぱい入れた冷たい牛乳でぬるくなったコーヒーが舌の上に広がるのが好き』
七月七日。
『結婚記念日を大げさにやりたくないのは、私もあの子も一緒だった。二人で料理をして、小さなケーキを買って二人でつついた』
六月二十日。
『嫌いなものがハッキリしてるのが、羨ましいようで怖くもある。ほんの少し何かがずれただけで、私も嫌いなものになるのかな』
五月五日。
『お母さんは私の事をなんでも決めるけど、死ぬなとはいまだに言われたことがない。私が好きなときに選べる。ただ、子はたくさんなさなきゃね、とは言う。馬鹿みたいだなと思う』
五月二日。
『あの子の、私が死んでも後を追ったりしないだろう所が好きだ。私の残したものを大切にして、生き続けてくれるだろうから』
美しい世界と書いて、美世。そう説明したミヨの困ったような笑い顔を、今でも思い出せる。
「好きじゃないから、名前はいつもカタカナで書いてるんだ」
リップクリームさえ学校の机にしまい込むミヨの、薄い唇が紡ぐ言葉はよく耳に残った。小さな声なのに教室の喧騒が気にならないくらいに。
「いい名前なのに、なんで嫌なの?」
私が聞くと、ミヨは笑みを深くした。
「おばあちゃんと同じ名前なんだ。美世って」
その時は、ミヨが嫌がる意味がよくわからなかった。
今なら彼女の気持ちに想像ができる。この時代に娘を親と同じ名前にする、歪さが。
ミヨの『つぶやき』を私は夢中で読んだ。
このお菓子が美味しいとか、今日はいい天気だとか、そんな他愛もない言葉の中に、聞いたことのない彼女の惚気や愚痴が混ざっていた。
何十分もかけて全部を読んで分かったのは、更新を再開したのがここ一年くらいだということだ。高校時代のつぶやきの次が一年くらい前の日付になっている。ミヨが結婚したのも、一年ほど前の事だった。
ミヨは結婚式を挙げず、世間話の一つみたいに入籍したことだけ私たちに教えてくれた。
友香梨が散々旦那に会わせろ、とごねたけれど、結局陽介さんを私達に紹介することはなかった。まさか、初対面があんな形になるとは思いもよらなかった。
たしか馴れ初めは「お見合いみたいなもの」と言っていたっけ。ミヨはあまり自分の話をしたがらなかったし、私も友香梨も深入りすることはなかった。あえて踏み込まなかったのだと、思う。
友香梨がどれほど聞いても「私にはもったいないような人だよ」と曖昧に笑うばかりで、ミヨの家の事だから結婚を強制されたのではないかと心配していた。
ミヨはほとんどの事を親に決められていた。髪型も服装も進学先も、全部。男女交際も親の許可が貰える相手じゃないと認められず、誰とも付き合ったことのないまま結婚した。
だから、彼女のつぶやきに出てくる『あの子』がきらきらと輝いていることに驚いてしまったのだ。
なんとなくミヨは、私と同じ側だと思い込んで安心していた。彼氏が途切れることなく順当に結婚した友香梨とは違って、恋愛に興味がないんだろうと勝手に想像していた。
でも違った。彼女は人を想い、想われる人だったのだ。
誰かに聞いてほしくてたまらないくらい。こんなところにこっそりと残すくらいに。