心臓の動力
ずっと美人だと言われてきた。
綺麗だね。高嶺の花だよね。モテるでしょう。彼氏いるでしょう。何度も何度も言われてきた。何人かとは付き合った。読み漁った恋愛小説みたいに誰かと愛し合う幸せを手に入れたかった。
なのに実際に目の前にすると、欲を含んだ視線に肌が粟立った。触れてくる指が気持ち悪くて、熱い息がかかるとぞっとした。
拒絶すると彼らは揃って私に怒りを向けた。綺麗だと謳ったのと同じ口で私を侮蔑して、うっとりしていた筈の目を吊り上げた。調子に乗るなよ。馬鹿にするなよ。最低だな。勘違いさせるな。もっと上手くやれよ。彼らの言葉の一つ一つが、私を蝕んでいった。
そうしてまともに恋愛を出来ないままこの歳になって、それでもまだ諦めきれないのは一度だけ確かに心が揺れたことがあったからだ。心臓がたった一度のその記憶を動力にし続けるから、私は希望を捨てきれない。
その時私は小学生で、あの人は中学生だった。家が近所で母親同士の仲が良く、私の夏休みの宿題を手伝ってくれる事になったのだ。
母親たちがあの人を「りょうちゃん」と呼んでいて、私もそれを真似した。
りょうちゃんは陸上部で、焼けた肌をしていた。腕の皮が日焼けでめくれて、痒いと言って寄せられた眉に唾を飲んだ。
コーラが入ったグラスがすっかり汗をかいている。りょうちゃんの長細い指がグラスについた水滴を掬い上げると、あんなに煩かった母親たちの笑い声が聞こえなくなった。
「真紀ちゃん賢いから、あんまり教えることないなあ」
完璧だよ。私の解いた計算式を見てアーモンド型の目が細められると、誇らしい気持ちになった。
こんなお兄ちゃんがいるのいいななんて、飽きて外に遊びに行ったりょうちゃんの弟の事を羨んだりした。
それからふと気が付く。私が優秀なばかりに、この時間がすぐ終わってしまうのではないか。
りょうちゃんは時計を見やって、コーラに口を付ける。上下する喉を見ながら私は逡巡した。
何と言えばまだここにいてくれるだろう。ただ無邪気に彼を引き留められるほど私は子どもじゃなかった。
「――読書感想文、何読めばいいですか?」
すでに『銀河鉄道の夜』を読み終えていたくせに尋ねると、りょうちゃんは何度か瞬きして口元に手をやった。うーんと唸って、それから茶色っぽい瞳が私に向けられる。
「……夜ふかし、するひと?」
「よふかし?」
聞き返すと彼は唇に笑みをのせた。
「夜ふかししたい時に読むのがおすすめなんだ。ほら、貸してあげる」
鞄から本を取り出してりょうちゃんが手渡してくれる。擦れた表紙や褪せた紙の色から古い本だとわかった。
「夜ふかししたい時……」
あるだろうか。この人にはあるのだろうか。
コーラの甘さで口の中がべたついた。
りょうちゃんを見やると、頬杖をついてキョトンとしていた。反対の手が伸びてくる。小さなテーブルなんて軽々超えて、簡単に私の頬に届く。
「そんな難しい顔しないで。気が向いたときにでも読んだらいいよ」
私の口元を緩めるように、彼の指先が頬を撫でた。
頬の熱さが、鳴り響く心臓の音が、伝わってしまうんじゃないかと私は目を伏せた。
結局あの本はいつの間にか母親経由で返却されてしまい、これまたいつの間にか彼は遠くの高校に進学していた。あれから一度も会っていない。
家に帰った私は一つに纏めていた髪をほどいて本棚の前に立った。
自分で買いなおした『星の王子さま』を手に取る。
りょうちゃんに借りた時は内容があまり理解できなかった。がっかりされたくなくてあれこれ悩んでいるうちに感想を伝えそびれてしまった事を、私はずっと後悔し続けている。
そういえば、ミヨにもこの本貸したことあったな。
同じクラスになったばかりの頃、読んだことがないと言うので貸してあげた。ミヨは家には持ち帰らず、休憩時間の度に机から取り出しては少しずつ読み進めていた。
運動部じゃないのに男子みたいに短いショートカットの髪。サイズの合っていないぶかぶかのセーラー服。よく見ると顔立ちは整っているのに、ミヨは目立たたない子だった。
ミヨは『星の王子さま』を持ち帰らない理由を、親が厳しいからだと言った。
ファンタジー作品は禁止だから、万が一見つかったら捨てられてしまうかもしれない。だから図書館の本も、借りずにその場で読む。そしてカモフラージュに、親が気に入りそうな小難しい本を適当に借りてあえて持って帰るのだと、笑った。
「でもこの本は、本当は夜中に読みたかったなあ」
『星の王子さま』を読み終えたミヨがこぼした言葉に、思わず目を見張ったのを覚えている。ミヨにはわかるんだ。あの人の気持ちが。なんだか悔しかった。残念ながら私は「夜ふかしするひと」じゃないから。
ルーティンは私を安心させてくれる。それは小さな頃からずっとそうだ。同じ時間に起きて同じ時間に眠りにつく。自分は「ちゃんとしている」と思えるお手軽な方法だった。だから仕事や付き合いで夜遅くになることはあっても、自分から夜ふかしすることはない。
私は本を手にしたままベッドへ倒れこんだ。ページを捲っても文字は頭を通り過ぎるばかりで、ミヨの飾り気のない横顔ばかりが脳裏に浮かぶ。
不意に、思い出して私はスマートフォンを手に取った。
そうだあの頃、友香梨がツイッターを始めたと言い出して、半ば強引に私とミヨもアカウントを作らせられた。何を書けばいいのか聞くミヨに、友香梨は「本の感想でも書いたら?」と薦めた。
私はほとんど使わなかったから二人が何を書いていたのか知らないけど、もしかしたらミヨの『星の王子さま』を読んだ感想が残っているかもしれない。
アプリをダウンロードし、遠い記憶を呼び起こしながらログインする。二度パスワードを間違えた後で、どうにかログインに成功した。古いアカウントが消えずに残っていたことにも安堵する。
タイムラインは広告やおすすめの投稿で埋まっていた。そういえば結局、友香梨もすぐ飽きちゃったんだったな。自分で言い出したくせにあっという間に話題に出さなくなった。
ミヨのアカウントをタップして、表示された最新の投稿日時に私は目を見張った。
「……一週間前」
彼女が亡くなる、直前だ。変わらず私と友香梨しかフォロワーがいないミヨのアカウントは、たまに『つぶやき』を投稿していた。