人生の風景
実家を出て電車に乗っている間に雨が降り出していた。
母から貰ったカードに書いてあった開店時間とほとんど同時刻に、私は店の前に着いてしまった。
心もとない小さな折り畳み傘が大粒の雨に悲鳴を上げている。ガラス窓から漏れる光の向こうに人影があって、思わず息を殺す。
お店のカードを貰って、たまたま近くを通って思い出したから。よし、これにしよう。さりげなく、さりげなく。
一つ深呼吸をして木製のドアを開くと、まだ他に客はいないようだった。傘を畳んで傘立てに置かせてもらう。
カウンターの中に黒いエプロンをした人が一人。目が合った。
「お好きな席にどうぞ」
声は低かった。私は実家で見た写真の面影を探しながらカウンター席の端っこに腰を下ろす。
髪は首の後ろで一つに纏められていて、たぶん軽い化粧をしている。細い腰に対しては広い肩幅。女性にも男性にも見えた。でもアーモンド形の目が、下唇だけぶ厚い口元が、やっぱりあの人だった。
「あの、涼さん、ですよね」
恐る恐る訊くと、僅かに見開かれた目が私を映した。
「急にすみません。覚えてないと思うんですけど、昔近所に住んでた吉川です。母親同士が仲良くて、たまに遊んでもらってた」
「――ああ、真紀ちゃん! 半年くらい前にお母さんに会ったとき話聞いたよ。元気でやってるんだね」
少し記憶を探ってから涼さんは頬を緩めた。そうです真紀ちゃんです。顔が熱くなるのを必死で抑える。
「お久しぶりです……」
用意した言い訳を口にすることもできなかった。こんなことって本当にあるんだ。自分自身に困惑してしまう。
「もしかしてうちの母親に宣伝された? 強引な人でごめんね。あ、何飲む?」
カフェだけど、お酒もあるよ。涼さんが示したメニューをみやると、確かにアルコールの種類も充実していた。コーヒーと紅茶はデカフェもあるようだ。
「じゃあ白ワイン、おすすめので」
飲まずにやってられるか。頼むつもりのなかったアルコールを注文すると、涼さんは奥に引っ込んだ。冷蔵庫を開ける音が聞こえてくる。
昼間は洋食レストランだという店内はアンティーク調の温かい雰囲気だった。
「はい、どーぞ。これはサービス。お昼のレストランで出しているものを分けてもらったから美味しいよ。よかったらゆっくりしていって」
戻ってきた涼さんがカウンター越しにワインと小皿を置いた。ほっそりした指先に、思い出が蘇って心臓が煩くなる。日焼けしていない肌は白かった。
小皿の上にはパテとクラッカーが乗っていた。そういえば夕方というのもあって夕食がまだだ。ありがたくいただくことにした。
「今日はお休み?」
「はい。少し実家に行ってて、その帰りです」
傾けた白ワインからは花のような香りがした。
「もう二十年ぶりとか? びっくりだなあ」
正確には二十二年前です。ここに向かう電車の中で五回くらい計算した結果の事は黙っておく。
「本当ですね。自分がもうアラサーなんて未だに信じられません」
子どもだったあの頃、三十台の自分がこの人と再会できる未来なんて想像もできなかった。よく考えたら、その気になれば会えたかもしれないのに。
「今は住宅メーカーの営業やってるんだっけ? 真紀ちゃんのお母さんが嬉しそうに言ってたよ」
涼さんの声音は心地よくて、聞いていると緊張が解けてゆく。
「ああ、でも異動になったんです。一週間後からは営業じゃなくて人事部です」
「大抜擢だ」
言われて、始めてこの異動を誰かに褒められた気がした。大抜擢。そうだろうか。そうだったらいい。
ドアが開いて、新しい客が入ってきた。涼さんがカウンターを離れてテーブル席に案内する。酷い雨だね、なんて会話が聞こえてくる。二人組の客は、どうやら涼さんの知り合いらしかった。
私の知らないこの人の二十年間は、どんなものだったのか全くわからない。それは涼さんも同じだ。そのことが不思議と私を高揚させた。知らないんだ。この人は私の過去を知らない。今からの事しか知らない。
一杯のワインで酔うことなんてないのに、気分がふわふわとしていた。
カウンターに戻ってきてコーヒーを淹れ始めた涼さんに話しかける。
「うちの母、再婚するんです」
「あら、そうなんだ。おめでたいね」
「私はまだ一度も結婚出来ていないのに」
パテを乗せたクラッカーを口に放り込んで言うと、涼さんは面白そうに私を見た。茶色い瞳に私が映っている。
コーヒーの香りがここまで届いた。美味しそうだな、コーヒーも。
「結婚願望があるの?」
「ある、んですかね。ある程度の年齢になると周りが結婚ケッコン言い出すじゃないですか。もうずっと、頭の中に結婚とかって言葉があって、もしかして私、結婚したいのかなって思うことがたまに」
涼さんはコーヒーに視線をやったまま、うーんと唸った。伏せられた目元に、薄くブラウンのシャドウが引かれている。
「僕、少し前に≪焼きそば≫って言葉が頭に浮かぶ時期があって」
「焼きそば、ですか?」
「きっと潜在的に焼きそばが食べたいんだと思って、家で作って食べてみたんだけど食べても特に感動はなくて、まあ焼きそばだなーって感じで」
「焼きそば……」
「食べた後も頭に浮かぶのは変わらなかったんだよね。たぶん、脳が語感とかそういうのを気に入って、勝手に反芻していただけなんだろうなって。脳が勝手に思い浮かべていただけなのに必要だと思い込んでたのかなあ」
私は思わず目を瞬かせた。
難しい顔をしてみせて、涼さんは言葉を続ける。
「周りが言ってることって、なんかやけに正しく聞こえるけど、相手にとって自分は長い人生のうちのほんの少しでしかないんだから、気にする必要ないよ」
「……それ、友達も似たようなこと言ってました。自分はほかの人の人生の風景だって。友達が言ってたのは違うニュアンスだと思いますけど」
「良いこと言う友人だね」
木製のトレーにコーヒーを二つ乗せると涼さんはまたカウンターを離れた。
テーブル席の二人組としばらく話し込んで、私の視線に気が付いたのかこちらを振り返る。空っぽのグラスに気が付いて近づいてきた。
「もう少し飲む?」
「次はコーヒーにします」
「羨ましくなっちゃった?」
「はい」
くすくす笑いながらまたコーヒーの準備をする涼さんを目で追う。
涼さんは注文を終えてもなお離れない私の視線に、首を僅かに傾けた。
「どうかした?」
「……やっぱり綺麗な人だなあと思って」
「……それ、口説いてる?」
細い眉が微かに顰められて、私は声に出して笑った。
「人生で初めて人を口説きました」
また来ますね。今度は夜ふかししたいときに。
自分の口からこんな言葉が出てくることがあるなんて知らなかった。
この人の人生にとっても、私はきっと風景の一つだ。爪痕を残すくらいなら、許されるものだろうか。




