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夜ふかしするひと  作者: 雨咲まどか
1.ミヨとあの子
1/14

ミヨ


 ミヨが死んだ連絡を受けたのは、私の家で男がシャワーを浴びていた時だった。

 不快な水音が遠くなる。酔っていた頭とスマートフォンを持つ指先が冷たくなって、私は唇を噛んだ。

 小さな画面に表示されたのは、ミヨの夫と名乗る人物からのメッセージだった。

高三の頃、友人三人で作ったグループライン。十年以上もやりとりが続いている唯一のグループだった。何でもない雑談の後に、ミヨのアカウントから彼女の死を告げる文章が追加された。

 ミヨはこんな冗談をしない。何かの間違いか、現実じゃないのか。

 いつの間にか静かになっていた事に気が付くのと同時に、ソファが深く沈んだ。

真紀(まき)ちゃん。何見てるの?」

 貰いもののボディーソープの強い香りが鼻につく。腕が私の腰に回されて、耳朶にかかった吐息に鳥肌が立った。いつの間に名前で呼ばれるようになったんだっけ。

 思わず彼の身体を押すと、服を着ていない肌が温かくて顔を顰めた。

「佐藤さん、服着て下さい」

「……どうしたの?」

 私が拒絶した事にわざとらしく驚いてみせて、佐藤さんはへらっと笑った。目尻の皴が深くなる。

部屋の明かりに照らされた彼の頬はカサついていて、現実が浮かび上がっていくような感覚がした。

「友達が、亡くなったと連絡があったんです」

 言葉にしたら、声が震えた。佐藤さんは私からスマートフォンを取り上げて画面を見るとテーブルに置いた。

「いたずらじゃない? 乗っ取りかもしれないし、明日確認しなよ。今日はもう遅いんだからさ」

「今すぐ確認します。服着て、帰ってください」

 また近づいてくる顔を避けて、私は立ち上がった。脱衣所から彼の服を拾い集める。

 目の前に服を突きつけられても動こうとしない佐藤さんを睨みつけると、おっかないなあ、とため息を吐かれた。

「萎えたから帰るよ。吉川さんもいい歳なんだからさ、もう少し上手くやりなよ」

 のろのろと服を着た佐藤さんをようやっと追い出して玄関のカギを閉める。

 冷たい手を擦り合わせて温めてからスマートフォンを手に取った。ミヨのアカウントを開いて通話をタップする。

 五コール目で応答があった。こちらから電話したものの言葉が出ずにいると掠れた男性の声が聞こえてくる。

「真紀さん、ですよね。遅い時間に急に連絡してすみません。ミヨさんの夫の陽介(ようすけ)です」

 男の人のこんな声、初めて聞いた。迷子の子どもが泣いているような痛々しい声色だった。

「本当なんですね」

「はい」

「もう一人の、友香梨(ゆかり)と話してすぐに伺います」

 また連絡すると告げて通話を切ると、エアコンの音がやけに大きく聞こえた。上手く呼吸が出来ずに首に手を当てる。

 ミヨが死んだ。

 ミヨと友香梨とは高校三年のクラス替えで初めて同じクラスになって、卒業までの一年間をほとんど三人で過ごした。

 受験勉強が最優先だったあの頃、お弁当を食べる相手くらいの感覚で友達になったのに、三十歳を過ぎた今も途切れず連絡を取っている高校時代の友達はこの二人だけだ。

 特別な思い出はない。なんとなく集まってお茶したりお酒を飲んだり。日常の一部に当たり前に組み込まれていた、そんな友達だった。

 部屋に残ったボディーソープの薔薇の匂いに、なんだか吐き気がした。





『佐藤の妻です。先日は夫がお世話になりました。貴方がどういったおつもりか存じませんが、もう連絡しないでください』

 届いたメッセージに目を通して、私は眉根を寄せた。佐藤さんが捨て台詞の様に言った言葉が脳裏に浮かぶ。

 お前こそいい歳なんだからもっと上手くやれよ。言われなくたって仕事以外でもう関わらないし、私から連絡したことなんて一度もない。

 お腹の底から沸きあがる不快感を吐き出すように大きく息をすると、車内アナウンスが目的の駅への到着を告げた。

 友香梨と連れ立って電車を降りる。夏の終わりかけの生ぬるい空気が頬に触れた。

「歩いて五分くらいだね」

 スマートフォンにマップを表示させて友香梨が口を開いた。

 彼女の長いスカートの黒が、ネイルのない指先が、ただ低い位置で纏めただけの髪が、胸を苦しくする。いつも眩しいくらいカラフルな友香梨のこんな姿は初めて見た。

 黙って頷く私を一瞥して友香梨が歩き出したので付いていく。

 私達三人が仲良くなったのも、友香梨がきっかけだったな。彼女は、私とミヨの手を引いてあちこち連れ出してくれた。

 ミヨの夫である陽介さんから来た訃報には、すでに葬儀は終えていてミヨのお骨は家に帰ってきている事が書いてあった。友香梨と相談してすぐ有休を取得し、ミヨの家に行くことになった。

「ミヨの家に行くのって初めてだね」

 友香梨がぽつりと話しかけてくる。小さな声だったのによく聞こえたのは、静かな道だからだろうか。

 小さな花屋、古い店構えの喫茶店。人の気配はあるのに騒がしくない、ミヨが好きそうな街だと思った。

「そうだね」

「結婚したとき、新居に遊びに行きたい! って言ったけど恥ずかしいからって断られちゃったんだよね」

「なんとなく気持ちはわかる」

「なんで? 私はすぐ誰でも家にあげちゃう」

「家を見られるのって、日記読まれるみたいな感じしない?」

 私の一人暮らしの家は全部をクローゼットにしまっているから見られても構わないけど、ミヨは私みたいな見栄っ張りじゃないから。

「……真紀なら入れてもらえたかもねえ」

 友香梨はほんの少し唇を尖らせた。そうかな。そんなことないと思うけど。反論は飲み込む。

 ミヨの家は三階建てのアパートだった。最上階の端っこの部屋。

 手すりに錆がついた階段を上ると、遠くに学校が見える。周りの建物がみんな背が低いから三階でも見晴らしがいいんだと気が付いて、自分の部屋の隣のビルしか見えないベランダを思い出す。

 私たちを迎え入れた陽介さんはずいぶんと若い男性だった。

つい五か月ほど前に会社に入ってきた新卒の子たちと変わらない年齢に見える。見上げるくらいに背が高くて、彫の深い顔立ちをしている。垂れた目尻が赤いのが見て取れた。

「どうぞ、上がってください」

 電話口で聞いたのと同じ声は痛々しく掠れていた。

 案内されたリビングは陽介さんにはおよそ似合わない家具と小物で溢れていた。家具は白とベージュで統一されていて、毛足の長いふわふわのラグは薄いピンク。ソファの隅には大きなクマのぬいぐるみ。

 ミヨの欠片が散らばる部屋に小さな祭壇があった。大量の花に囲まれた遺影のミヨは控えめに笑っている。ミヨの前に座らせて貰うと、爽やかな生花の香りに包まれた。

 陽介さんに許可をもらって、持ってきたお菓子を並べる。宝石みたいだとミヨが言ったジャムクッキー。いい香りだと口元を緩めたアールグレイのパウンドケーキ。コンビニでよく買っていたチョコ菓子。

 横にいる友香梨が、手で顔を覆って肩を震わせる。私は祈るみたいに両手の指を絡めて握りしめた。

 どのくらいそうしていただろう。時間の感覚がおかしくなった頃に、ふいに陽介さんが口を開いた。

「ミヨさんにずっと言われていて、僕だけで直葬したんです。葬儀にお呼びできなくてすみません」

「そうなんですね」

 相槌をうって、顔を伏せたままの友香梨の背中をさする。ハンカチを床に置いて、友香梨を支えるようにして立ち上がった。

「また、連絡してもいいですか?」

 陽介さんが訊くと、友香梨はしきりに頷いた。私も首肯して、アパートを後にする。

 一歩足を進めるごとに脳が暑さを思い出していく。

 少し歩いてから私は「あ」と声を上げた。

「ごめん、忘れ物しちゃったみたい。取りに行ってくるから、そこの喫茶店でも入ってて」

 友香梨が何か言うよりも早く踵を返した。足早にアパートに戻り、また階段を上る。

 チャイムを鳴らすとしばらくして陽介さんが顔を出した。

「今連絡しようと思っていたんです。ハンカチですよね」

「すみません。置き忘れてしまって」

 上手く嘘がつけているだろうか。

玄関先でハンカチを受け取って、私は陽介さんの目を見据えた。

「ミヨ、どうして死んだんですか?」

 陽介さんは湿ったまつげを震わせた。

「自殺です」

 喉の奥がひゅうと鳴った。メッセージを見た時から、わかっていた気がした。

「……私も、最後にミヨに会いたかったです」

 ハンカチに視線を落として言うと、陽介さんが僅かに笑う気配がした。

「ごめんなさい。独り占めしたかったんです。全部。全部触れて、全部見て、覚えておきたかったんです。俺だけが」

 視界の端で見た揺れる瞳が、綺麗だと思った。

 私は知らない。こんなに誰かを求める感情を。


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