匂うラジオ
「ンン、ンン~ン♪ンン、ンン~ン♪ンン、ンン~ン♪ガンニョムン~…っと」
超名作アニメのオープニングの鼻歌を歌いながらモップを平田はバケツに突っ込む。
「ほぉ~ら、たっぷり吸え吸え!フヒッ、ンマイっすかぁ~?オイラもそろそろ水分補給したいでやんすぅ」
希釈したモップ用洗剤をたっぷりモップに含ませ、モップ絞り機に差し込み、
「ン~~~~~~、シャワッ!」
ペダルを踏んでぎゅっと絞る。
「平田太一、オフィス清掃用モップ1号機、いっきまーす!」
平田はご機嫌に叫びながらモップ用洗剤のついたモップを持ってオフィスの廊下を走る。
「平田選手、軽快に走ります。早い早い。周囲を引き離し独走状態だぁ~~~~!!!」
自分で実況しながらドタドタと廊下を駆けるその足ははっきり言って遅い。
自慢ではないが短距離、長距離どちらとも、小学校から高校までクラスで最下位を他者に譲ったことはない実力者だ。そしてコツコツと積み上げてきた長年の運動不足と不摂生によって、近年では少し走る度に息が上がる程、太ることに成功した。
スタミナの無さと足の遅さに定評のある平田にとっては、僅かな距離ですら心臓にかなりの負担がかかるらしく、息を切らしながら廊下の突き当りまでなんとかたどり着く。
そして、「えいやっ」と壁を蹴り、ターンする。
体重の乗った蹴りによって壁が小さく揺れ、足跡がくっきりと残ったが、後で拭けば問題ないだろう。
「さあ、早くも折り返し地点。誰も平田には追いつけない。そしてぇ~」
平田は魔女のようにモップにまたがると叫ぶ。
「いっけぇ、マグニャーン。マグニャントルネェェェェェドッ!!!」
大声で昔流行ったプラモデルのアニメの主人公の必殺技を叫び、そのままの姿勢で走った。
「ここで平田選手、必殺のマグニャントルネードだ!光の速さになって駆け抜けるぅぅぅぅ。そしてゴォォォォォル!!!!」
モップ絞り機の横まで走り抜けた平田は全身、汗だくになりながら膝をついて両手を突き上げた。
40を過ぎた肥満のおっさんのこの深夜のテンション。絵面は明らかに不審者だ。
こんな人間が小学校の目の前にいたら即☆アウト。即☆お縄。即☆豚箱に間違いない。
臭い飯がタダで食えるのはやぶさかではないが…。
しかし、彼のこの奇行は誰にも咎められることはなかった。
それが時給1500円、1日5時間、週4日の夜間清掃業の仕事の最大のメリットと言えよう。
午前0時から5時まではこのオフィス全体が彼の城となる。
正社員→即日バックレ→バイト→退職→バイト→退職→バイト→退職→バイト→退職…を大学卒業から気が遠くなるほど繰り返してきた熟練自宅警備員の平田。その状況を見かねた叔父が知り合いに頼んで紹介してくれたありがた~~~~い職場だ。
仕事内容は床掃除と窓拭き、トイレ清掃、水回りの清掃など。コミュ障な彼でもほとんど人と関わらず仕事をできる。
人目につきにくい細かい部分の清掃は数日に1回くらいでちょこちょこサボっているが、トイレや水回り、床など目立つ部分については綺麗にしておくのが平田流サボり術だ。
手抜きをすると実質3時間半程度で終わってしまうので、だらだらと働ける。これで月12万はなかなかに美味しい。
「ま、俺ほどのエリート自宅警備員ともなると月10万円の仕送りだけで生き延びることもできるのだがな!…家賃でほとんど持っていかれるけども」
一時期は実家の自宅警備で生きていた時代もあったが、10年以上親の脛にパラサイトし続けた結果、月々10万円の仕送りを条件に家から追い出された経緯がある。
実家の仕送りだけで生き抜くことを本気で考えたこともあったが、家賃、光熱費、水道代、食費、スマートフォン代、Wi-Fi代、アプリゲームの課金代、推しへの投資など諸々の費用を考えると10万円では到底賄えなかった。
削れるものは食費、水道代、光熱費のみ…とスーパーの試食コーナーをハシゴし、飲水とトイレと水浴びは公園、電気やガスなどを一切使わずに生きてみたものの、夏と冬は流石にエアコンなしでは厳しい。
かと言ってスマートフォンやパソコンなしでは生きていけないし、アプリゲームや推しへの課金は禁欲すればするほど反動が来る。
結局、一度は禁欲生活の暴走で課金が止まらず、300万円の借金を作って両親に大目玉を食らった。
そんなわけで今に至るわけだが…。
その時、平田のポケットでスマートフォンのアラームが鳴り響いた。
「おおっと、みるりたんが始まってしまう…」
平田は慌ててスマートフォンを取り出し、ワイヤレスイヤホンを耳に差し込む。
ラジオ番組を聞けるアプリを開いて、マイリストに登録しているチャンネルをタップする。
すぐにイヤホンからポップな音楽とともに
“夜のみゅみゅみゅ!…いくよ?3・2・1…せーのっ…”
“”こんばんは、萌豚ども♡「らぶ☆キッス デスゴリラ」の~“”
“みるりと…” “まほでぇ~す!!!”
“今夜もテンアゲで行くぜぃ!” “いぇ~い!”
とラブリーな声の2人の女性の声が耳に飛び込んでくる。
「フヒヒ…深夜に毎週ご褒美ありがとうございますぅ」
平田は恍惚とした顔で、ラジオの向こうにいる2人のアイドルに感謝する。
今聞いているのは、平田の推しのアイドルグループ「らぶ☆キッス デスゴリラ」の相良みるりと緑川まほがパーソナリティを務める午前2時に始まるラジオ番組「夜のみゅみゅみゅ」だ。
2人のアイドルの最近ハマっているアニメや漫画の話やリスナーのオススメを聞く人気コーナー「ようこそ☆沼の世界へ」や、私生活がダメダメな彼女たちがどうしたら真人間になれるかという逆悩み相談コーナー「デスゴリラVS真人間」、今週食べた中で特に美味しかったご飯の話をするコーナー「今週の飯デストロイヤー」など神コーナーだらけの神番組なのである。
リスナーのリクエストの「らぶ☆キッス デスゴリラ」の代表曲の一つ「社畜共は全員貢げ」を聞き、鼻歌を歌いながら給湯室のシンクのゴミを片付ける。
“YOYO!豚ども、財布出せ!身ぐるみ剥がされる用意はいいか?すっぽんぽーんの準備はいいか?”
「ボーナス全てをつぎ込め課金、ATMから引き出せ現金☆…ハイ、ヨロコンデ!」
曲のラップパートの続きをなめらかに引き継ぎ、口ずさむ。
数日前にライブで聞いたばかり…もっというと毎日数十回は再生している筈の曲だが、ラジオで聞くと不思議と懐かしさすら感じる。
リーダーの真幌みゆき、楓ゆみ、祭もえか、緑川まほ、相良みるりの5人で構成される「らぶ☆キッス デスゴリラ」はJ-popのアイドルグループだ。
ラップもキレキレ、ダンスもキレキレ。少し毒のある歌詞が彼女たちの容姿といい意味でギャップを作っている。
昨年は「私の頭はお花畑」という神曲がブレイクし、世間で一気に注目されるようになった。
今年はリーダーのみゆきや綺麗所のゆみがドラマのちょい役やバラエティ番組などにも露出するようになり、おしゃれ好きのもえかはファッション誌のモデルなどにも出始めた。まほとみるりもこうして4月から30分のラジオ番組でパーソナリティを務めるようになっており、グループ全体が大躍進の年だ。
地下アイドル時代から応援している平田からすれば、よくここまで成長したな、という親心で思わず涙ぐみそうになる。
「俺の手から離れていくこの感覚…。フッ…これが空の巣症候群ってヤツか」
「やれやれ、無償の愛ってヤツは辛いぜ…」と伸び切った前髪を払い格好をつけてから、鏡に映る自分を見て少しげんなりする。
「ん~…またちょっと太ったかなぁ…」
無精髭まみれの顎の下についた肉をつまみ、仕事終わりの朝飯は竹屋の牛丼は特盛つゆだくチーズトッピングではなく、つゆは普通にしよう、と心に決める。みるりに会った時に幻滅されるのは困る。
そこに…
“じゃあ次のコーナー、「今週の飯デストロイヤー」!”
とみるりの可愛らしい声が飛び込んでくる。
“今週のイチオシはなんだい、みるりん?”
“ん~、竹屋のチキチキチキン南蛮定食かなぁ。ほら、今週の月曜日から始まったやつ!皆は知ってる~?”
「なんですと!?」
平田はシンクを磨く手を止め、眉を上げる。丁度、今朝は仕事終わりに竹屋に行こうと思っていたところだ。
女神はそんな平田のことを思って竹屋のメニューを上げてくれたのだろうか?
みるりオススメの新メニュー「チキチキチキン南蛮定食」…一体どんな味なのだろう、と考えると口の中に唾液が広がっていくのがわかった。
「はぁぁぁ、尊い…。これはチキチキチキン南蛮定食以外の選択肢はないですな。みるりたん…しゅきっ」
みるりの食レポを聞きながら平田は鼻の下を伸ばす。
“あ、もうこんな時間!夜更かしはお肌の大敵!もう寝なくっちゃ☆”
“この番組は収録だから私ら今頃ベッドの中だけどね”
“も~、まほちゃ、それは言わないお約束でしょ!”
“へいへい。じゃあ、良い子の豚ども!…せーのっ”
“”せいぜい夢精しないようにマスかいて寝ろよ~~~。おやすみ~♡“”
「おやすみ、マイエンジェルズ!!!はぁん…まだ天使たちの声の余韻に浸りたい…」
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。30分のラジオ番組が終了し、その間、ほとんど作業は進んでいない。
「だって彼女たちが魅力的すぎるから~」
平田は目をつぶって、可愛らしいパジャマ姿で布団にくるまっているみるりとまほを想像し、「ふひひひ…」と笑う。
今週も「夜のみゅみゅみゅ」は最高だった。家に帰ったら布団に入りながらあと3回はネットに配信されている今週分を聞き直そう。そうしよう、と心に決めた時…
軽快な音楽と共に次の放送が始まる。
“綿貫と…”
“國村の…”
“”匂いの放送局~!“”
“…ということで、テンション上げて放送していくぜ!この番組はお前らご存知、電波に乗せて匂いを発信する番組だ”
「…は???」
誤ってどこかスマホをタップしてしまったのだろうか。せっかく「夜のみゅみゅみゅ」の余韻に浸っていたのに突然別のラジオ番組が始まってしまった。
しかも明らかに年配のおっさんの2人の声だ。
はっきり言って冷める。
「ムリムリ。深夜に脂っこいおっさんの声とかごめんなさいだっつーの」
平田は顔をしかめてアプリを落とそうとした時、イヤホンから声が響く。
“さ、まずは最初のリクエストの紹介だ。ラジオネーム『ピポッと花澤』さん。ええと、なになに…『最近、気持ちがソワソワすることが置いのですが、なにか落ち着く匂いはないですか?』だってさー、國村君よ、どう?”
“もちろん用意してますよ。こちらです”
パチン、と指が鳴る音。
そして同時に…
「え???」
どこからともなくふわっと木の樹脂の香りが平田の鼻孔をくすぐる。
「????」
平田は驚いて周囲を見回す。
清掃道具にはトイレの芳香剤以外、香りのあるものは用意していない。だが、この匂いはトイレの芳香剤とは明らかに別物だった。
当たり前だが、スマホには匂いを出す機能など存在しない。
“初めてのリスナー諸君は驚くかもしれないな。びっくりして漏らしてねーか?”
“ちなみにこの香りはフランキンセンス。オマーンに生えているカンラン科の植物ですね。”心を落ち着かせる効果があり、アロマオイルでよく使われています。今回は特別にオマーンから樹脂を採取したものを直接焚いて香りを出しています“
“お陰でこっちは全身この匂いが染み付きそうだぜ”
「…一体どうゆこと?」
南国風のBGMと共に漂うフランキンセンスのほのかに柑橘感のあるスパイシーな香りが平田の嗅覚を刺激し続ける。
“この匂いがしんどい人は音量を絞ると匂いが減るぜ。逆に音量を上げれば強くなるからな”
パーソナリティの綿貫が乱暴な言葉と裏腹に匂いの加減ができることを教えてくれる。
ラジオから匂いが出るなど聞いたことがない。一体どういう仕組なのだろうか?
南国風のBGMが数分流れた後、ハンバーグの匂いが次のリクエストに上がる。
先程のフランキンセンスから一転、ジュウジュウとハンバーグの焼ける環境音と共に香ばしいデミグラスソースとナツメグの効いたハンバーグの匂いが漂い、平田の食欲を刺激する。
平田は戸惑いながらも体験したことのないこのラジオ番組に引き込まれていった。
その後も淹れたてのコーヒーの香り、鉄棒を握った後の手の香りとリクエストが続き…
“さあ、本日の最後の香りだ。ラジオネーム『鼻垂れパンピー』さんのリクエスト…なになに?『4年間付き合っていた彼女に振られて丁度1年経ちます。彼女を思い出せる匂いをお願いします』…なるほどな。それじゃ、本人の匂い、いっとくか!”
“M県Y市の高梨みどりさんの体臭です。思い出の曲、アルコホリック・マミィの『夜も眠れない』と共にお楽しみください”
「ほえ!?」
数年前に流行ったJポップと共にシャンプーとリンス、そして化粧、そして服の柔軟剤の香りなどが混ざった「良い香り」としか形容し難い女性の香りが漂い始める。
女性とすれ違ったりすると香る、なんというかドキドキする類の匂いだ。
匂いにはホルモンが含まれていて、異性同士、その匂いで互いの相性を無意識に探っているという話を昔聞いたことがあるが、この匂いには間違いなくホルモンが含まれている。
高梨みどりという人物がわからないので本物かどうかはわからないが、これは間違いなく人の香りだろう。
あっという間に曲が終わり、匂いが消える。
“そろそろ時間だな。匂いの放送局はいつでもお前らの匂いのリクエストを待ってるぜ。リクエストはsmell-radio@xyz.comに送ってくれ”“
“放送日の3日前までならどんな匂いでも受け付けますので、ドシドシご応募ください。それでは…”
“”また来週~!!!“”
「…………」
軽快なBGMが消えるまで平田はぼーっと廊下を見つめ、しばらくしてから黙ってワイヤレスイヤホンを外す。
時計を見ると3時5分になっていた。
アルバイトを終え、平田は予定通り、竹屋でみるりがオススメした「チキチキチキン南蛮定食」を食べる。
確かに絶品だった。これをみるりも食べたと思うと「それだけで妊娠しそう」と頬が緩む。
しかし、彼の頭の中の大半を占めていたのは深夜に聞いたあの「匂いの放送局」だ。
3日前までどんなリクエストでも受け付ける、とパーソナリティの國村は言った。
アロマオイルでも食べ物でも…人間の匂いでも、だ。
頭の中に思い起こされるのは高梨みどりという女性の体臭。
あれは紛れもなく人間のものだ。
アロマオイルはわからないが、コーヒーや鉄棒を握った後の手の匂いは間違いなく本物…。
だが、果たして本当にリクエスト通りの香りが届くのだろうか?
「…」
平田は竹屋のカウンター席で頬杖をつきながら、smell-radio@xyz.comと打ち込んであるスマートフォンのメール送信画面を見つめる。
メールの件名に「リクエスト」と打ち込み、内容に「らぶ☆キッス デスゴリラの相良みるりの匂い」と打ち込んで…
「いや、止め止め」
と消し去る。
あれからSNSやネットを調べたが、ラジオ番組「匂いの放送局」に関する情報は一切なかった。当然、再放送を聞くこともできない。…きっと夢を見ていたのだろう。
それにもしあの体験が現実のものだったとして、「匂いの放送局」にみるりの匂いをリクエストしたところでそれが本物かどうか、確証が得られない。
「いや…、確証を得る方法はなくはない…のか?」
「あの~、お客様?」
「?!」
突然、カウンター内にいる竹屋の店員に声をかけられ、平田はびくり、と肩を震わせる。
若い女性の店員だ。恐らく学生だろう。
「ああああああああ、はい、なななな、なんでしょう?」
緊張して声が上ずってしまう。顔や背中から汗が噴き出し、目が左右に泳ぐ。明らかに挙動不審だ。
店員は申し訳無さそうな顔をしながら口を開く。
「申し訳ございませんが、席が混み合ってきておりますので、お食事がお済みでしたら…その、お席をお譲りいただけますか?」
「はひっ!?」
見ると入り口付近にサラリーマンらしきスーツ姿の男性が数名、待機していた。
周りを見ると満席で、時計を見ると来店からすでに2時間近く経過していた。
平田の顔がみるみるうちに赤くなる。
「すすすすす…すみませっ。あのっ、はい。すぐに出ます!!!」
平田はそういうと立ち上がって店から飛び出していった。
平田は人と話すのが苦手だ。特に女子は苦手だ。
普通に話しているつもりでも顔が気持ち悪い、喋り方が気持ち悪い、空気が読めない、一緒にいて楽しくない、気が利かない、存在が不快…散々なことを言われてきた。
女子からは平田が使った机を使いたくないとか、菌が移るとか言われて、なにか賭け事などをした時、平田と話すことが罰ゲームというのがよくあった。
平田は自分の容姿が人並み以下であることは自覚していた。
話も下手で、なんの取り柄もないことも自覚していた。
容姿が悪く、話も下手だと道化に成り下がることすら難しい。はっきり言って小学校中学年から高校卒業まではいじめられる毎日だった。
だからせめて勉学では、と一生懸命勉強して、そこそこ名の通った大学に受かり、他の学生たちが恋愛やらサークルにうつつを抜かしている間も必死に頑張って…
一流企業とはいかないまでも、就職氷河期世代にしてはそこそこの企業に入社した。
しかし、そこで待っていたのは高校時代のいじめの続きでしかなかった。
今ならばパワハラと声を大にして言えるようなことも、平田が20代前半の頃は当たり前にあった。
女性社員からは「キモいキモい」と陰口を叩かれ、男性の先輩社員たちからは雑用を押し付けられ、上司からは「コミュニケーション能力が不足している」と入社してから毎日責め立てられ続けた。
結果、3ヶ月後には精神的にボロボロになり、仕事を辞めた。
今、振り返ればきっとメンタルをおかしくしていたのだろう。それから2年くらいは全く働かず、家に引きこもって過ごしていた。
アニメを見たり、パソコンでオンラインゲームをして過ごす日々。
楽しいかと言われれば、つまらなくはないが、時間を潰すだけの作業のような毎日だった。
仕事を辞めて2年経つと、流石に親も仕事をするようにと口うるさく言うようになった。
親との喧嘩の頻度が次第に増えていき、ある時、つい母親に手を出してしまった。
それ以降、どことなく両親の態度がよそよそしいものに変わり、家にいるのが気まずくなった。
家族から距離を置きたい一心で就職活動を始めてみたが、そこで待っていたのは在学中の就職活動以上の地獄…。
履歴書には3ヶ月の職歴と空白の2年間。
買い手市場の世の中で、特技もなく、資格もなく、曰く付きの履歴書しか持たない平田に再就職先があるわけもなく、「今後のご活躍をお祈りいたします」の返事だけが積み上がっていった。
そして彼は就職活動を辞めた。
親もまたしばらくはなにも言わなくなった。
しかし、それでも1年経つとまた夏のセミのように「働け」「働け」とうるさくまくし立て始める。
短期のバイトを始めた。イベントのビラを折ったり、誘導をする仕事だ。
しかし、女性客たちが「あの人、臭くね?」と小声で囁いているのを聞いて辞めた。
それ以来接客業は無理だと悟った。
スーパーの品出しのアルバイトをしてみた。
社員の若い女性がとにかく口うるさく、「平田さん、もう少し早く動けませんか?」「平田さん、それはそこじゃないです」「平田さん、私よりも年上なんだからもっとしっかりしてくださいよ」と毎日毎日毎日毎日まくし立てられ、「う、ううううううるせえ!」とキレて辞めた。
それ以来そのスーパーは気まずくて使っていない。もう当時の社員はいないかもしれないが、万が一会ったら最悪なので一生使う気はない。
学習塾のテストの採点のアルバイトをやってみたこともあるが、手汗で紙がヨレヨレになったとクレームが入り、3回目でクビになった。
平田は自分がなにをやってもダメなのだと気づくのにそう時間はかからなかった。
勉強は多少できる。人並みに毛が生えた程度だが…少なくとも大学はそこそこだ。
しかし、勉強ができたところでその知識を活かす能力がなければ意味がない。
そして平田にとっての唯一の武器である勉強すらも、引きこもっていた日々によって錆つき、今ではなにも残っていない。
だが、親はほとぼりが冷めるとまた思い出したように「働け働け」と繰り返す。
そうすればこれまでのように平田が働くのだと勘違いしているのだ。
いい加減に気づいて欲しい。
お前たちの息子は欠陥品なんだ、と。そしてその不良品を生んで育てたお前たちもまた欠陥品なんだ、と。
期待をするだけ無駄なのだ。
やればやるほどできないことが明らかになり、自信を失って生きるのが辛くなる。
しかし、死ぬことすらできない。死ぬ勇気すら平田には持てないからだ。
だが、そんな時、街中で出会った。
―――ライブのビラ配りをしている「らぶ☆キッス デスゴリラ」に。
はっきり言ってダンスは下手くそ。歌も下手くそ。
顔も可愛いかと言われればもちろん可愛いが、残念ながらクラスで上から数えると真ん中近いルックスだ。宝石になれない屑石だらけ。
なぜそれでアイドルなんてやろうと思った、と最初は彼女たちを見下した。
はっきり言って地下アイドルは全く儲からない。
皆、アルバイトを掛け持ちしながら、活動している。
CDも売れない。取り巻きの連中はキモオタばかり。
夢を追ってばかりいて、現実が見えていない馬鹿だ。
だが…、気まぐれで覗いた彼女たちのライブは輝いて見えた。
屑石が宝石に見えた。
「どうでしたっ?私達のライブ」
初めてライブを見に行った日、ライブを終えた後、額に汗を掻きながら声を弾ませて声をかけてくれたのが相良みるりだった。
まだ人気が出る前で、ファンも全然おらず、初めて来た平田をつなぎ止めるために声をかけただけだったのかもしれない。
しかし、彼女は「気持ち悪い平田」に対し、初めて一人の人間として話かけてくれた女性だった。
コンビニやスーパーのような機械的な接客ではない。血の通った温かい人間としての言葉。
彼女のその言葉は平田の凍てついた心を一瞬で溶かした。…以来、彼はアイドルオタク、通称ドルオタと呼ばれる人種になるレベルで、彼女の敬虔なる信者となった。
定職につかない彼は少ない小遣いをやりくりして彼女のところに通い詰めた。時々小遣いの前借りや、それでも足りない時は借金もした。
だがそれでも、他のファンと比べると、大してみるりの売上には貢献できなかった。
だが、そんな情けない平田でも、彼女は覚えてくれていた。会う度に「あ、平田さんだ~!」と手を振って微笑んでくれた。
ファンが増え、徐々に売れ始めても同じだった。
メジャーデビューしても握手会に参加する度に名前を呼んでくれた。有名になってもなお、彼女はこんなちっぽけでどうしようもない平田を人間として認めてくれていた。
だから平田にとって彼女は大切なのだ。
アパートに戻って玄関のドアを開けるとムワッとした汗と生ゴミが腐ったような悪臭が出迎える。
近隣からは過去何度か苦情を受けているが、夏のこの時期は特に酷い。
異臭だなんだとまた騒がれても困るので、玄関に置いてある消臭スプレーを部屋中に吹き付けて匂いをごまかす。
「冷房つけっぱにしてるんだけどなぁ~。やっぱ掃除しないとダメな感じかし…」
平田はふう、と息をつくと扉をさっさと閉めて部屋の中に入る。
ゴミの入った袋をかき分けて1K7畳の狭い部屋を進み、「らぶ☆キッス デスゴリラ」のグッズが積み上がった山の中から手袋を探し出す。
平田は手袋をはめ、「よし」と頷くと机の上にあるダイヤル式の金庫を開ける。
金庫の中にはファスナー付きのプラスチックバッグが入っていた。
プラスチックバッグを取り出すと平田はごくり、と息を飲む。
ファスナーをゆっくりと開け、慎重にそれを取り出す。
平田の手の上には相良みるりのメンバーカラーである薄ピンクのシュシュがあった。
数日前に偶然ライブ会場で彼女が落としたものを拾ったのだ。
心臓がバクバクと音を立てる。
100均で買った布手袋のため、手袋から手汗が染み出さないか不安になるが、長く触れるつもりはないので大丈夫だろう。
震える手でシュシュを鼻に近づけ、
「っふはぁ~!!!」
思い切り嗅ぐ。
甘く、とても良い香りがする。
先程の「匂いのラジオ」で嗅いだ「高梨みどり」とやらの匂いとは全くの別物。
例えるならば薬局で買った香水と香水専門店で買う香水くらい違う。
―――もっとも、平田は香水専門店で香水を買ったことなどないからわからないが…。
「キマるぅぅぅぅ。キマりすぎる…。ウリィィィィィイイ!!!俺は人間を止めるぞぉぉぉ、城状ーッ!」
平田はあまりの嬉しさに涙を流しそうになるが、このシュシュに平田の匂いがついてしまえば恐らくもう二度とみるりの匂いを嗅ぐことは叶うまい。
名残り惜しいが仕方ない。
シュシュを大事にビニールバッグに入れてファスナーを閉める。
多少の延命にはなるだろうが、これもあと何回嗅げば匂いが消えてしまうのだろうか。
そう考えると寂しくなる。
「…けど、もうそんな心配をする必要はないのでござる」
平田はニヤリと笑う。
そして、スマートフォンを操作して先程作成しかけた文面を復元させ、『「らぶ☆キッス デスゴリラ」のメンバー、相良みるりの匂い』と打ち込む。
「送・信☆…っと」
平田が「匂いの放送局」宛てにリクエストを送って1週間が経った。
今日は清掃する気になれず、体調不良だと誤魔化してズル休みし、自宅のベッドで待機する。
「夜のみゅみゅみゅ」は番組の都合で延期になっていた。みるりの声が聞けなかったのは残念だったが、申し訳ないが今日のメインはそこではなかった。
“綿貫と…”
“國村の…”
“”匂いの放送局~!“”
“…ということで、テンション上げて放送していくぜ!この番組はお前らご存知、電波に乗せて匂いを発信する番組だ”
先週と同じく、綿貫が深夜2時半にしては高すぎるテンションで喋る。
“まずは最初のリクエスト。ラジオネーム『プープーモンスター』さんからだ。えーと…なにこれ………やべぇな。『綿貫さんのオナラの臭いが嗅ぎたいです』…おい、正気か?!”
綿貫が奇妙なリクエストに思わず叫ぶ。
“フー………正気とは思えませんが…やるしかないでしょう。では、思いっきり頼みます”
國村がそれに対し、ため息をつくが、結局GOサインを出した。
“…仕方ねぇな。リクエストは絶対だ。3…2…1…”
「…え?え?え!?」
ブボォッ!ブリュリュリュリュ…
窒素、水素、酸素、二酸化炭素、メタンなど様々なガスの混合物質が腸を通じて排出された音が耳に響き渡った。
同時にスカトール、インドール、アンモニア、硫化水素、腸内細菌、そして便などが混ざった強烈な刺激臭が平田の鼻を駆け抜ける。
「ガフッ?!」
咄嗟に音量を最小レベルまで下げ、匂いの量を減らしたが、すでに鼻の中を通り抜けた刺激臭は匂いを受容する細胞に到達し、電気信号に変換して大脳を駆け巡っていた。
脳がこの刺激臭を毒物と判断したのか、即座に排出しようと嘔吐反射中枢が働き…
「ゲェエエエエエエ!!!!」
―――端的に言えば、綿貫のオナラの激臭によって、気分を悪くした平田はその場で吐いた。
「…最ッッッッッ悪なり」
床に飛び散った吐瀉物の上にティッシュを大量に乗せ、口の周りについたゲロを拭いながら平田は呟く。
今日、リクエストをしていなければ、この番組の続きを聞くことは2度となかっただろう。
“…よう『プープーモンスター』さん、ご満足いただけただろうか?”
なぜか綿貫は放屁した後にも関わらず、格好つけた口調でリクエストした相手に問いかける。
“あーあー、今のできっとリスナー減りましたよ。臭すぎです。綿貫さん、なに食べました?”
國村がうんざりしたような口調で尋ねる。
“焼肉。あと最近、便秘気味なのよな”
“…二度とオナラのリクエストがないことを祈ります。…さて続いてのリクエストは?”
“次も別の意味でやべぇ案件だが、リスナー諸君心の準備はいいか?ラジオネーム『みるりたん親衛隊隊長』さんのリクエストだ”
「シッ!キタァ、コレ!」
平田は自分のラジオネームを呼ばれて深夜にも関わらず大声で叫ぶ。
“リクエストは…『「らぶ☆キッス デスゴリラ」のメンバー、相良みるりの匂い』か。なるほどなるほど…”
綿貫は笑いを含んだ声で平田のメールを読み上げる。
“こりゃ、恐らくとんでもない匂いフェチのガチオタだな。―――で、どうなんだ國村君、相手は今をときめくアイドルちゃんなわけだが、用意できてるのか?”
綿貫がわざとらしく國村に声をかけると
“もちろん。3日あればどんな匂いでも用意する。それがこの「匂いの放送局」のモットーですから”
國村はそう言って準備ができていることを綿貫に伝える。
「おおおおおお…マジか、マジでか!」
平田は國村の言葉に期待を膨らませ、目を輝かせる。
一般人の女性の匂いとはわけが違う。
アイドルの匂いだ。彼らは一体どうやって匂いを入手するのだろうか?
“んじゃま、いってみますか。現役アイドルちゃんの匂い。準備はいいか、スケベ共。3…2…1…”
パチン、と綿貫が指を鳴らした途端、鼻孔をくすぐったのは…
「オェェェェェェエエエエエエエエエエ!!!!!!!!!」
喩えるならばそれはチーズや生ゴミが腐ったような匂い…
だが、その表現では生ぬるい。
ひと嗅ぎしただけで目から落涙し、口から涎を垂らし、鼻が二度と使えなくなるかと錯覚するような酷い悪臭が平田の鼻を襲った。
決して匂いに慣れることができないような刺激臭を受けて、平田は今しがたティッシュを乗せたばかりの汚れた床に再び嘔吐を撒き散らした。
「これが…」
涙を流しながら血走った目でスマホの画面を睨みつける。
「これがみるりたんの匂い、だと!?ふっっっざけんな。こんな匂い、するわけねぇだろッ!!!みるりたんはアイドルだっつーの!!!」
ワイヤレスイヤホンを吐瀉物の上に投げつけ、顔を真っ赤にしてスマホに向かって叫ぶ。
「マジで!これは冒涜だ!みるりたんへの冒涜!これを全国放送してる?マジでふざけんなよ。アイドルからこんな生ゴミみたいな匂いがしてたまるかっつーの!」
スマホでメールアプリを起動し、番組宛に長文クレームを書き連ねる。
「…ドルオタな・め・ん・な・よ。土下座して詫びろ。○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね!!!!…っと。よし、送信」
最後に呪いの言葉を大量に打ち込んで送信ボタンを押した。
そしてその翌週…
“綿貫と…”
“國村の…”
“”匂いの放送局~!“”
「……………」
平田は腕を組み、番組を聞いていた。
“…ということで、テンション上げて放送していくぜ!この番組はお前らご存知、電波に乗せて匂いを発信する番組だ”
“前回の放送はかなりクレームが入りました。…綿貫さん、流石にやりすぎましたね”
“そうかぁ?屁のリクエストに応えただけだろうが”
“屁もそうですが、前回のアイドルの匂いのリクエストもですよ”
反省の色が見えない綿貫に國村がみるりの匂いの件についても言及する。
“あー…まあリクエストしたドルオタ君はさておき、他のリスナーには確かに可愛そうなことをしたなぁ。”
「はぁ!?どういうことだよ?!」
平田は綿貫の言い草に腹が立ち、相手に聞こえないのはわかっていても大声を張り上げる。
“まさか死んだアイドルの匂いをリクエストするんだからな”
「!?」
平田はその言葉に思わず目を見開く。
慌ててパソコンでニュースサイトなどを確認するとすぐに相良みるりの記事が出てきた。
「どういうこと…?」
どこの社の記事にも相良みるりはライブ後に失踪したことは書かれているものの、彼女が死んだなどという記事はどこにも見当たらない。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ…」
“死後10日経過した腐乱死体の匂いは流石に強烈でしたね”
“いやぁ、流石の俺もこのリクエストは本当に応えるべきか迷ったわ”
綿貫と國村の声がとても遠くに聞こえた気がした。
みるりが殺された?死後10日も経っている?
そんな馬鹿な…
そして、衝撃の事実が國村の口から漏れる。
“一体なにを考えてドルオタ君はリクエストしたんでしょうね。相良みるりなら自宅にいるのに…”
「!?」
國村の言葉にギクリとして平田は震えながら恐る恐る後ろを振り返る。
平田のすぐ後ろには部屋のゴミに埋もれて座っているなにかがいた。
それは黒ずんだ肉の塊―――。
腐敗が進んでいった結果、体内で発生したガスが皮膚を破裂させ、醜く変貌したアイドル―――相良みるりの変わり果てた姿だった。
彼女だった肉の塊の下には、皮膚を突き破って染み出した体液が広がっており、すでに乾いて床を真っ黒に染め上げていた。
無数のハエたちが好物の匂いを嗅ぎつけ、黒ずんだ肉の塊にたかって、卵を産み付けている。
なぜ彼らは平田がみるりの死体を自宅に隠していることを知っていたのだろう。
まだ誰にも見つかっていない筈なのに。
…いや、そうじゃない。
「そんな…そんなつもりは…」
そんなつもりはなかったのだ、と平田は一人で弁解の言葉を呟く。
本当に殺すつもりはなかったのだ。
ただ、久しぶりにライブが終わった時に彼女に声をかけただけだった。
「メジャーデビュー、おおおおめでとう」
「り、立派になったね」
「おおおおお俺が、いい一生懸命応援した…おかげだねぇ、フヒッ」
「フ…フフフフ…み、みるりたんが売れて、う、嬉しいけど…お、俺は、さ、最近どこか遠くに、かかかか感じるよ」
「あ!ああ、ああ、そ、そうだ。ね、フヒュッ、こ、今度ご飯に行こうよ。前みたいにファンには内緒でこっそり、さ、さぁ」
「お、お寿司がいい?みる…みるりたんは回転寿司の、おおお大トロが好きだったよね。フヒッ、フ…すすすす好きなだけ食べていいよ」
「き、君は、か、可愛いから、い、いろんな男が近づいてくるとととと、お、思うけど、俺が守ってあげる、から」
「だ、だだだだ、だからさ、り、RINE、アカウント変えたでしょ?でしょ?うっかりさん。あ、おおおおお俺、別に怒ってないよ?」
「でっっっ、でも、ここっこここ、こんな機会め、滅多に、滅多にないから、さ。連絡先教えて」
そう言ってRINEの連絡先を交換しようとしただけだったのに。
少し強引にスマートフォンを借りようとした平田がいけなかったのかもしれない。
彼女は平田を拒絶した。
平田を両手で強く突き飛ばして、
「キモいんだよ。このストーカー野郎!!」
…と。
「女の子の日」で気が立っていたのかもしれない。
でも平田もショックで…
ショックで冷静さを欠いていた。
助けを叫ぼうと大声をあげようとした彼女の口を塞いで、壁に押し付けて、押し付けて押し付けて、静かになるまで夢中で押し付け続けていたら…
気づいたら動かない彼女がいた。
もみ合ったせいで落ちた彼女のシュシュが目に入って、とりあえず大事に拾って…
後は肉の塊になった彼女を…
被害妄想かもしれないが、遠くから複数のサイレンの音が聞こえてきた気がした。
ワイヤレスイヤホンから國村に対し、綿貫の“ま、別にいいじゃねぇか”と応える声が聴こえた。
“「匂いの放送局」はリスナーのリクエストに応えるだけだ。―――さて、次のリクエストだが、ラジオネーム『魔神ウロス』さんで、絶望した時の人間の汗の匂い、だ”
平田は床に広がった黒い染みを見つめながらラジオから流れてくる匂いを黙って嗅いでいた。
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また、現在、『女神のサイコロ』『異世界転移してもカウンセラーをしています』を連載中です。本作を読んで気に入ってくださった方は是非、この2つをお読みいただけたら大変うれしいです。
あなたに別の作品でもお会いできることを楽しみにしております。それでは…。