第一章.過去
「――母さんッ! 母さんッ!」
小さな子どもの、声が聞こえた。
まだ幼い娘。蒼い髪を振り乱し、美しい薔薇色の唇から悲痛な叫びを漏らし続けた。
「イヤっ、イヤァアアア――ッ!!」
紫の瞳から雫が零れる。
開かれたその口からは、止まることなく母を想う娘の心が流れ出していた。
「早く逃げなさい! 早くッ! 貴女だけは生き延びてッ!」
娘の前には、大きな鉄製の柵。
そしてそのまた向こうには、大きな木の十字架に縛り付けられた、女。
女の耳は、ヒトのものとは異なり横に大きく飛び出ていた。
縛り付けられた足首の下、無数の薪が置かれていた。
やって来た青年が、躊躇することなく外側だけ錆びた大きな缶の蓋を開け、中の液体をぶちまける。
女は終焉を感じ、愛する娘を呼び続けた。
「アイラ! 行って! 母さんのお願いよ!」
その元は美しかったであろう顔は、傷跡だらけで痛々しい。
右頬からは赤い液体が首まで伝っていた。
「――ッ! 母さんっ……」
娘は何も言わず、腕を振って駆け出した。
ざわめく民衆たちの間をすり抜け、ただひたすら走った。
「炎を上げろーっ!」
大きな、低い男の声が聞こえた。
娘の紫の瞳が、大きく見開かれた。もう、その瞳に生は宿っていない。
「――母さん」
小さく呟き、娘は後ろを見ずに歩き出した。
背中が、熱かった。
それは娘の哀しみと憤りだけの影響では……なかった。
娘の背後では紅蓮の炎が赤々と燃えていたのだから。
一人の美しい女を包み込んで――――
***
「――ッ!!」
朝日の光が差し込むベッドの枕元。一つの雫を頬に伝わせる女が居た。
彼女の紫の瞳が見つめていたのは、普段と何ら変わらない木製の天井、その木目。
濃い茶色の線を目で追い、女は全てのことを察したように布団から上半身だけをゆっくりと起こした。
(また、あの夢――)
一体これまで何度、あの夢によって睡眠を脅かされたことか。
いつまで経ったとしても忘れることのできない、忘れようのない二十年前の出来事。
赤々と燃える紅蓮の炎に身を焼かれた母親は、魔女と称されて十字架に掲げられた。
世界が魔女を毛嫌いし、魔女狩りを実行している時代である。
誰かを摘発しなければ自分がされる。そんな人間の疑いと憎悪の瞳で睨まれた魔女は、小さな娘を独り残してこの世を去った。いくら魔女だとしても、炎で身を焼かれて生き残れるはずはないというのに……。
「愚かな人間族」
誰に言うでもなく、女は小さく呟きベッドから足を出し床に着けた。
着ていた服をサラリと脱ぎ捨て、近くの箪笥に仕舞ってある黒の服を手に取る。それは漆黒のワンピースで、茶色のベルトには無数のナイフがあった。
肩の上には同色の紫の縁取りが付いたケープを羽織り青緑色の飾りで留める。
茶色の皮製ブーツを履いて紐をキッチリと結び、最後に矢筒と弓を方に掛けた。
「……行って来ます」
誰もいない部屋の中、凛とした声が響いていた。
ケープについている頭巾を頭に被り、女は扉を開き家を出た。
朝日が昇った、まだ小鳥が鳴き出したばかりの時間――。