雨
昔書いた小説を手直ししたものです。
帰ってから、ずっと空ばかりみている僕を不思議に思ったのか、母が話しかけてきた。
「あら? また窓の外みてるの」
「うん、だっておもしろいし」
「ずっとそんなことしてて、よく飽きないわねぇ」
母は洗濯物を取り込み終わったのか、いそいそと家の奥に引っ込んでいった。
もう一度窓の外に目を向ける。そっと視線を上に向けると、どんよりとした雲が気だるそうに漂っていた。そんな雲と対照的に、僕はわくわくしていた。
ぼんやりと外を眺めていると、地面に黒い水玉模様がぽつぽつと浮かび上がった。
――――――雨が降ってきた。
外では、傘を忘れて走る人や、傘を楽しそうに振り回して歩く人、かっぱを着て無表情で歩く人がいた。カラフルな傘、いろんな顔の色。ぽつんぽつんという雨の音。雨に濡れた葉や地面。一見無機質に思える雨の日でも、目を澄ましてみればいろんな色がある。
そんな風景を見るのが、僕の雨の日の楽しみだ。それに――――
しばらく外を見ていると、雨が降っているにもかかわらず、ゆっくりと歩いている女の人がいた。彼女は白いワンピースをきいて、腰まで長い髪をゆらしている。僕は窓の鍵を開け、そのひとに呼びかけた。
「麗子さん、こんにちはっ」
彼女はこちらに気づいたのか、手を振り返してくれた。
※※※※※
麗子さんと出合ったのは、今から半年前のこと。
その頃の僕は、雨が嫌いだった。お気に入りのくつはぐしょぐしょになるし、外に遊びに行こうにも、どろんこで帰ってきたときには母にこってり怒られる。雨なんてなくなればいいのに、と窓の外を恨めしく見ていると、いつの間にかそこに麗子さんが立っていた。僕は心底驚いた。そんな僕を見て、麗子さんはくすくす笑っていた。
僕がにらむと、彼女は慌ててこう返した。
「せっかくの雨なのに、何でそんな顔なのか気になってね」
「だって雨の日は外で遊べないし……。最近みんな忙しいし」
「かっぱを着れば良いじゃない」
「だってださいし」
それに――遊ぶ友達もいないから。
昔はみんなで雨の日でも遊んでいた。だけど、小学五年生になった途端に塾に通い始めたりする子が増え、みんな忙しくなった。また塾に通ってない友達も、濡れるのを気にしてか晴れの日しか遊んでくれないようになった。
そんな僕の心を読み取ったように、麗子さんはこういった。
「雨の日は確かに気分が沈むけど、そんなの楽しみ次第で変わるよ」
僕が反論しようと顔を上げた一瞬、世界か止まったようにみえた。水たまりに映る赤やパステルの色。空から落ちる水。葉っぱの先からこぼれ落ちる水滴。そして何より、その中ですっくと立っている彼女が美しくみえた。
「ほら、すこし視点を変えてみたら、雨の日だって素敵じゃない?」
彼女はそう僕に笑いかけた。
これが僕と麗子さんの出会いだった。
※※※※※
「今日の学校はどうだった?」
「先生が昨日宿題を出し忘れて、今日やれって。それで今日は宿題の量が2倍になったんだ」
「災難だったねー。でも昨日は宿題がなくてラッキーと思ってたでしょ」
「それは……そうだけど」
「そんなんじゃいつかついていけなくなるぞー。特に大学とかね」
麗子さんが真面目な顔をして言った。僕は怖くなって、彼女をじっと見た。
「どうすればいいかな……?」
「んー、小学生のうちは授業を真面目に受けていれば大丈夫だと思うよー」
麗子さんとしばらく話しているうちに、だんだんと雨が弱くなっていく。雨、止んできましたねと言おうとしたとき、母の声がした。
「ちょっとあきらー、手伝ってくれる?」
「はーい、いまいくー。麗子さん、すみません、少し待ってて下さい」
「大丈夫大丈夫。それにね、ごめん、私もそろそろいかないと」
「麗子さ……」
見送ろうとして窓の外を見たが、そこにはもう彼女はいなかった。
※※※※※
麗子さんは不思議な人で、いつも消えるようにいなくなってしまう。麗子さんは雨の日しか会えない。どうしてか本人に聞いたら、探しものをしていると言っていた。
ふとテレビをみれば、天気予報が明日からしばらく快晴が続くと伝えていた。麗子さんと当分の間会えないと思うと、すこし寂しかった。
次の日学校にいくと、あるうわさでもちきりだった。どんなものか、隣の席のみっちゃんが教えてくれた。
「最近、川の近くにでるらしいよ」
「でるって何が」
「幽霊だよ!」
その噂によると、昔このあたり恋人に殺された女の霊がさまよっている、というものだった。過去にも実際、殺人事件が起きていたらしく、本当の話ではないかと盛り上がっている。みっちゃんはこう続けて言った。
「その女の人の霊は髪が長くて、白い服を着ているらしいよ」
「へー」
まるで麗子さんみたいだな。みっちゃんは続けて言う。
「でね、傘をさしてないらしくて」
「えっ……」
長いさらさらの髪に白いワンピース、おまけに傘をさしていないなんて――――――――まさに麗子さんじゃないか。
僕の動揺もお構いなしに、みっちゃんはさらに熱を込めて言う。
「それでね、気に入った人間を油断させて、川に引きずり込むんだって! 怖いよねーー!」
みっちゃんが語りきったところで、授業の時間を知らせるチャイムが鳴った。先日麗子授業に集中しようと
僕は気になって他の人にも聞いてみた。けれど、恋人を探しているとか、あったら最後川の底に連れていかれる、誰かを道連れにしようとしているなど、噂はてんでバラバラで、結局何が本当なのか分からなかった。
学校が終わり、家に帰る。歩きながら今までのことを考えていた。確かに、いつも麗子さんは消えるようにいなくなってしまう。
考えているうちに、いつの間にかあの噂の川にいた。川底は暗く、底が見えなかった。水流も強く、うっかり川のなかにで入ろうものなら、確実に濁流に拐われるだろう。
もしかしたら麗子さんは、僕を道連れにしようとしているのではないだろうか?いや、そんなはずはない。麗子さんは、とて
もそんな人には見えない。
そんな恐ろしい川を見ているうちに、妙なことを考えてしまった。悩んでいても肝心の本人に会えなければ意味がない。と考えつつも、僕は考えるのをやめられなかった。
※※※※※
あの後、聞いた事件について調べるため、市立図書館によった。
雨風が激しい夜。ある男女の恋人同士がけんかをした。一瞬強い風にあおられて、傘が川に落ちた。そのときに傘を取ろうとした女の人が川に落ちた。男の人は女の人を一生懸命助けようとしたけれど、彼女はすでに息絶えていた。
十年前の新聞。その地域の欄のすみに、こんな事件が書かれていた。亡くなった女の人の名前は、原川麗子。
※※※※※
一週間後。ずっと続いていた快晴は、やっと終わりを告げた。空はどんよりとした天気で、重たそうな灰色の雲が浮かんでいた。
あれから、友達と遊んだり、ゲームをしてたりして気を紛らわせようとした。けれど、全く意味がなかった。麗子さんは本当に幽霊なのだろうか。
今日の学校が終わった。家に帰ろうと歩いていると、急に雨が降ってきた。急いで屋根のある場所へ走った。
古びたバス停で雨が止むのを待っていると、白いワンピースの裾が見えた。麗子さんだ。
「やっほー、あきらくん。天気予報みてなかったの?」
ごうごうと風が吹く。そろそろ夏も近いはずなのに、いつもより空気が冷たかった。何故か身震いがする。僕は麗子さんに気づかれないよう、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「うん……」
「元気ないね、どうしたの。もしかしてこわいことでもあったの」
麗子さんは微笑んで僕をみた。よく見ると彼女は、うっすらと透けていた。
心臓の鼓動が早くなる。
「気分転換に、川にでもいく?増水する前に見せたいものがあるんだ」
雨音が大きくなった。
気に入った人間を油断させて、川に引きずり込むんだって――。
みっちゃんの言葉が蘇る。
「麗子さんって、突然いなくなりますよね。それに、どんなに強い雨の時も、傘をさしていないし。もしかして、ゆう――」
幽霊ですか?と言いかけた、その時。
「君には知られたくなかったな」
麗子さんはとても悲しそうな顔をして、僕の言葉を遮った。胸の奥がズキッと痛んだ。
「そうだよ。今まで黙っててごめんね。さようなら」
彼女は、そういって、後ろを向いた。
「麗子さん、待っ―――― 」
僕は声を張り上げたが、そこには誰もいなかった。
彼女はもうすでに消えてしまっていた。
※※※※※
部屋で乾かす服は、なかなか乾かない。あの後びしょ濡れで帰ると、母にこっぴどく叱られた。
でも、そんなことはどうでもよかった。
身もふたもない噂話を信じて、麗子さんを傷つけてしまった。あんなに良くしてもらったのに、ひどいことを言ってしまった。
自分のふがいなさに腹が立って、窓際にもたれかかった。そんな僕を心配してか、母は背中をなでてくれた。
「さっきは怒鳴りすぎちゃったね、ごめんなさ――」
「違うんだ」
僕の言葉に母は首を傾げた。
「どうしたの?何か酷いことでもあった?」
「お母さんには関係ない」
僕がそんな風にいうと、母は背中をぴしゃりと叩かれた。
「関係なくない。あなたは私の息子なんだから。そんなに落ち込んでたら心配するに決まってるでしょう? どうか話してみなさい」
たちまちむっとしていた口が緩まり、ぽとりぽとりと言葉が漏れでた。
「大切な人にね、ひどいことを言っちゃたんだ、僕。追いかけようにも、出来なくて。もうどうすればいいかわからないや」
「……だから、そのまま雨に濡れて帰ってきたと」
「だって……傷付けちゃったし、会いたくないと思って」
「私に言い訳しても意味がないでしょう」
母のその言葉にはっとした。
僕は麗子さんを傷つけてしまった。でも……
「その人に言わなきゃいけないことがあるでしょう。何もせずに、傷付けたままでいいの?」
母が続けていった。
もう、麗子さんは僕に会いたくないかもしれない。
だけれども。
「あきらは、それでいいの?」
母の問い掛けに、首を横に降った。
「ううん。――――僕は麗子さんに直接会って、謝りたい」
「わかったわ」
僕の言葉をきいた母は、乾いた洋服と傘、そしてかっぱを手渡してくれた。
「誤りに行くんでしょう。なるべく暗くなる前に帰ってきなさいね」
僕は頷いて、外へ出た。
雨はさっきよりも強くなっていたけれど、気にせずあの川に向かった。
※※※※※
川に着いた。誰もいなかったけれど、何となく、麗子さんはそこにいるような気がした。
「麗子さん!本当にごめんなさい」
何度も川に向かって頭を下げた。すると、いきなりうしろから声が聞こえた。
「謝るべきなのは、わたしのほうだよ。いきなり消えてりして、ごめんね」
振り向くと。そこには麗子さんがいた。雨なのに相変わらず、傘を差さないまま、そこに立っていた。
「麗子さん! いえ、僕が問い詰めるようなことをしたから」
僕は慌てて再び謝った。
「いきなり大声が聞こえたから、びっくりしちゃった。でも、ありがとうね。追いかけてきてくれて、うれしかった」
麗子さんに会えた嬉しさで、跳び跳ねる。何度も飛び続けてるうちに、思わずずるっと転んでしまった。尻餅をついていると、上から彼女のくすくすという声が聞こえた。僕は恥ずかしくなって彼女を見上げた。
「ごめんごめん、大丈夫? いつも澄ましてて、こんなあきらくん初めてだったから」
彼女をじっと睨む。こんな至近距離でじっくり見たのは初めてかもしれない。確かに、よく見ると濡れた服も四肢も何となく透けていて、彼女が本当に幽霊なのだなと思った。
「ん?」
何となく彼女の服に違和感を覚えた。雨粒は透けて、地面に落ちているのに、何故か服が濡れているのだ。僕が目をぱちくりさせていると、彼女はふっと笑った。
「何で濡れてるかって?この川で溺れたからだよー」
結構重い事実なのに、彼女は何でもないような調子である。
「寒くないんですか」
「あはは、私は幽霊だから、平気」
そんな彼女の様子に僕は起き上がり、持っていた傘を麗子さんの方に傾けた。
「どうぞ」
麗子さんは心底驚いた顔をした。
「私、幽霊だから大丈夫だよ」
「でも、濡れた服のまま、雨に降られて、それじゃ風邪ひいちゃうでしょ? だから――この傘を使って」
「いいの?本当に。君がぬれちゃうよ」
「いいよ、かっぱ持ってきたから」
僕が笑顔でうなずくと、つられたように麗子さんも笑顔になった。今までの中で、一番素敵な笑みだった。
「探しものが見つかるといいね」
「うん。じゃあ、この傘少し借りるね。君に出会えてよかった。またね」
麗子さんともう二度と会えないように思えて、涙が出た。すると麗子さんは、雨が弱くなるまで、僕の頬にずっと手を添えてくれた。その手は何だか春の麗らかな日差しのように、暖かい気がした。
雨がやみ、雲の隙間から光が差した。目の前には青空が広がるばかり。そこにはもう、麗子さんはいなかった。
ありがとう、と聞こえた気がした。
※※※※※
目覚ましがけたたましく鳴る。朝ごはんをお腹につめ、テレビのリモコンをいじる。今日の天気は雨だった。
あの日――麗子さんに傘を渡して、図書館へいったあと、僕は風邪をひいてしまった。三日も寝込んでしまい、麗子さんがあのあとどうなったか分からない。
彼女は無事、探しものを見つけられたのだろうか。
学校に行こうと外に出たら、玄関先に僕の傘がおいてあった。
「――あっ」
傘を見て胸が一杯になる。その時、優しく頬を撫でられたような気がした。それは、春の日差しのように温かかった。
平成中に投稿したかった…(無念)