5、深更の往訪
・深更の往訪→深夜、此方から人を訪ねること。
自ら布告した事ではあるが、陽のあるうちは悉く常連から批難を浴びる。
たった五日、何故待てない?
華苑を知る少数の常連だけならば、確かに夜も問題は無い。
ただ、華姫の采配無く酒宴が続けば、花娘達までもが床に伏せる事になる。
酒に呑まれた花娘など、赤子の手をひねるように、容易く手折られてしまうだろう。
きっかけはどうあれ、商家や医家、武家への身請け話はまだ良い。
花街で厄介なのは身持ちの悪い男や、見栄を張る貴族達の気まぐれ。
不実な男に関わり、下手に妾や身重になれば、花街の客は離れていくのが常。
ある妓楼では一人の男を巡り、遊女同士で争った挙句、死者まで出たらしい。
……愚の骨頂だ。
双方、仮初めの恋や偽りの愛だと承知の上で遊べば良い。
ここでは、実を結ばせる為に華を咲かせているつもりは無い。
見目好い娘が着飾り、春を売る見世なら他に幾らでもある。
歴代の華姫から花娘へと。
受け継がれてきた"虫除け"の仕来りは、今の所守られている。
ーー自らの価値を知る事。
本心を知りたくば、瞳を読む事。
所作には育ちが、口癖には本性が滲むもの。
足繁く華苑に通い。
都度、華の価値に等しい品々や黄金を納め。
華姫、花娘の目に適う者ーー。
この庭で育てた華は皆、容易に手放すつもりは毛頭無いが。
元は一介の妓楼であった華苑の秩序。
花街での見世の格だけでなく、訪れる客の質を上げて来たのだ。
結果として花娘同士の不和や、花柳病は無くなったが、それでも気の病や流行病は防ぎようがない。
静まり返った廊に、楼主の携えた洋燈の光が映る。
白い壁や下がり模様の襖に描かれた淡い藤に、一人分の影が揺れる。
主人の居ない華姫部屋のように、藍花の奥座敷にも明かりは灯っていなかった。
楼主は躊躇う事なく、桐箪笥や箏が並ぶ居間から寝所へ続く襖を開く。
高枕は避けられ、紫紺の髪が褥から畳まで流れるように広がっていた。
藍花は深く眠っているようで、洋燈の灯りにも起きた気配はない。
よく夜中に熱を出す花芽だった。一人隔離部屋で療養していた幼い姿が重なる。
枕元に腰を下ろし、目元に触れてはみたが熱はないようだ。
蛍の燐光のような、淡い翡翠色の瞳も今は閉じられている。
「……あの水痘に罹って生き残れたのだ。お前は、まだ枯れないだろう?」
化粧を落としているせいか、昔の面影そのままの螢。
虚弱な体質だが、繊細な琴を奏でる華姫として3年になる。
呉服屋の倅が、その藍花目当てに通い出して1年程になるが、まだ恋仲との噂は耳に入って来ない。
「…まだ、お前の"想い人"は胡蝶蘭なのか。」
普段より幾分白い頬に手を添えたまま、静かに問う。
些細な事を気に病んでいるから、身体に障るのだ。
「直に双子が花開く。夜宴にも咲かせよう。それまでは…」
華姫はお前だけだ、と独り言つ。
つと、それまで左頬に触れていた手が、螢の首筋を辿るように下た。
軽く肌蹴た襟元に覗いた、肩の印をスルリと指でなぞる。
十五になれば、肌に刻む花娘の印。華苑に咲く華である証。
十五を迎えた螢が自ら選び、刻んだ印は、源氏名でもある藍花だった。露草、月草、蛍草とも呼ばれる可憐な花。
付けた源氏名も、実名に因んだものにしたのだが。
夏の夜に舞い飛ぶ蛍にしろ、染料にも使われる藍花にしろ、その生涯も美しい刻も儚い。
「……まだだ。まだ、散るのは許さない。」
再び手にした洋燈の灯りで、影が伸びる。
僅かに衣擦れの音だけを残し、楼主は華姫の寝所を後にした。
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そっと頬に触れる指。
少しひんやりしていて、気持ちがいい。
緩々と目を覚ませば、熱に浮かされた瞳越しに千鶴姉さまが居た。
宴の席を抜けてまで来てくれたのか、昼間よりも艶やかな着物。
錦糸のように繊細な艶のある白金の髪も結い上げ、左右対象に配された透かし細工の簪で、いつもより重そうに見える。
真紅の紅をさした唇が、微笑みの形になっても。下げられた眉と潤んだ空色の瞳は変わらない。
「昼はダメだと言われてしまったから、宴の渡りに内緒で来たの。…そろそろ喉が乾く頃だと思って」
千鶴姉さまに支えてもらいながら身を起こすと、宝石のように輝く切子杯の水に、そろそろと口につけた。
子供心に昼がダメなら夜も来てはダメなのでは、と思った事は言わず。
見るからに高価な水差しと揃いのグラスは、"客用だ"と伝えてわざわざ用意してくれたに違いない。
ーーなんだか水を飲んだだけなのに、胸がいっぱいになる。
そのまま千鶴姉様の優しさに甘え、心細さを紛らわせるように短い会話をしたものの、いくらも経たないうちに襖越しに名を呼ばれてしまった。
勤めに戻る千鶴姉さまの後ろ姿の、袂や裾に咲いていた紅白の胡蝶蘭が目に留まる。
確か、教えてもらった花言葉は"幸せが飛んでくる"ーー。
夢か現か曖昧でも、内緒の見舞いは嬉しかった。
……これも夢だろうか?
熱は出ていないはずなのに、誰かが触れている。
私の肌より少しだけ温かく感じる。
頬に添えられた、手。
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身持ちの悪い、不実な男→浮気症。誠実ではない人のこと。
洋燈→ランプ
水痘→水疱瘡