3、梅雨に届く
作者が弱った時には蜂蜜×葛湯より、はちみつ×ミルク派です(о´∀`о) ほっこり。
花一匁を藍花が口ずさんだ夜から、約一年後の水無月。
気が落ちると、身体まで思うように動かなくなってしまう。半身を起こしていられるのすら、せいぜい半日だなんて自分が情けない。
「藍花姉様、起きておられますか?」
普段より幾分控えめに聞こえた声は、望美のもの。
まだ少し痛むこめかみを抑えながら、ゆっくりと身を起こした。
「ええ、大丈夫。起きているわ」
「…失礼します。藍花姉様宛に、文が届いたそうで預かって参りました。」
"恋人からの文なら、早くお届けしなければと思いまして"と、早口で続けた望美の頬がほんのり染まっている。
確かに"想い人"からの文は、華姫にとって心の癒し、なのだけれど。
「……残念ながら、恋煩いではないのよ?昔から雨が苦手で、梅雨の時期は余計に気が滅入ってしまって。
そろそろ箏に触れないと腕が落ちてしまうから、明日は稽古もしようと思うの。」
いくら梅雨が苦手でも、寝込むほど体調を崩したのは初めてだった。二日、暇をもらったおかげで、漸く持ち直してきている。
「藍花姉様の弾く箏が一番好き。次に美月が奏でる小夜曲。明日の稽古が終わったら、二人の調べ合わせが聴きたいです!」
そうハキハキと語る望美の瞳は、春を思わせる新緑。生き生きと輝く若葉色だ。
双子の父である千亀様は、望美よりも濃い深緑で、伸びやかな夏の緑の瞳をしていた。
……あれは、いつの事だったか。
「千亀様と瞳を交わすだけで和むの」と言って。
千鶴姉様は少女のような恥じらいを見せた。
華姫にとって唯一のひと。
仮初ではない"恋うるひと"を語っていると、幼い私でもすぐに気づいた。
"花街一の姫"とまで云われた、華苑の胡蝶蘭。
姫道中の特別な装いで、花街を端から端まで歩けば、その美しさに誰もが目を奪われていた千鶴姉様……。
「……藍花姉様?」
いけない、気づけばこの子の前でもぼんやりしてしまっていた。
「望美の瞳がいつもより輝いて見えて。つい、見惚れてしまったわ」
これは、本当。
何か嬉しい事でもあったのかしら?
「実は……昨夜の宴席で、初めて披露した一人舞を褒めて頂きました。それと、少しだけ母の話題になったので。まだ、浮き足だっているのかもしれません。」
ここでは十五を迎えると花娘と呼ばれる一人前。それでも、暫くは酌や聞き手として宴席の場数を踏む。
蕾の年頃で臆する事なく、客や姉達の前で舞えるのはこの子くらいだろう。
かつての華姫:胡蝶蘭を知る客となると、常連でも数少ない。宴の席といえど、本来は過去の華姫を語るのは御法度なのだ。
それでも胡蝶蘭と羅甲屋の若旦那の恋物語は、十年経った今も花娘達の間で、密かに語り継がれている。
どちらともなく互いに惹かれ、恋い慕い合い。程なく花街の外へ嫁入りした、幸せな華姫は花娘達の理想。
双子の両親の恋物語が、いつか二人の耳に入るとは、わかっていたけれど。
それよりも、常連から華姫であった胡蝶蘭の様子を一方的に語られる方が、望美の心中は複雑だったろうに。
「さすが、望美ね。"好きこそ物の上手なれ"と言うものだし、舞扇を肌身離さず持参しているくらいだもの。
ただ、貴女が舞うなら私が奏手を務めたかったわ。」
私なら、この子が得意とする舞と常連の好みを加味した選曲が出来たはず。
一通り習った舞は踊れても、舞う本人が楽しめるものが一番なのだ。
「はい。私は藍花姉様付きですから、次からは遠慮します。
昨夜はお酒に負けた舞手の急な代理を頼まれて…私で良ければと。つい、張り切ってしまいました。」
朗らかに言い切る望美は、今も上手く舞手の代理を勤め上げた達成感を、味わっているのだと思う。
花娘と言えど酒に弱い者、全く飲めない者も居るのは仕方ない。
酒席での客の押しに弱く、舞が得意な花娘なら、撫子か葵の何方かだろう。
伏せっている間、華姫の勤めから離れていた。まさか数人の常連をもてなす夜宴まで、花娘達だけで乗り切ってくれていたとは。
「……皆で助け合って、凌いでくれたのね。
あと二人、華姫が居てくれると助かるのだけれど。誰か、"花紋の品"を贈られた花娘はいる?」
「いいえ、そういう話は…ありません。
でも楼主様が水無月が明けるまで、夜は控えると仰ってました。」
「……そう、残念ね。」
馴染みの上客が多い花娘。
歌や舞踊、弾き物など芸事に秀でた花娘。
盤上遊戯など、駆け引き上手な花娘……
華苑に功を成した者が、華姫の証として楼主から花紋入りの品が贈られる。
私には藍花(露草)の花紋が飾り金具になっている、片開小箪笥だった。
発注から納品、支払に至る金額まで、どれ程かかるか知れない綺麗な朱の漆塗り。
考えている最中はた、と気付く。
楼主は望美と美月を次の華姫に、と決めているのかもしれない。
双子が十五を迎えるのは二年後。
高価な花紋入りの品も用意できるだろう。ただ、それまで華姫は私だけということになる。
水無月が明けるまで、あと五日。
昼の勤めや稽古だけなら、花娘達への負担もない。流石に私も、文月には日常の勤めも出来るはず。
「失礼します。ーー藍花姉様、あまりご無理なさらないでください。」
流れるような所作で入室した美月は、珍しく眉根を寄せていた。普段は、おっとりとした微笑みを絶やさない子なのに。
その蒼玉のように輝く瞳には、憂慮が滲んでいる。
「蜂蜜入りの葛湯は、滋養があって深く眠れるそうです。これを飲んで、休んでください。
……望美は、手紙を渡したのでしょう?」
「うん、昨夜の話をしてて……って、どうして美月は拗ねてるの?」
「藍花姉様には、ご自分の体を労ってもらいたいし。望美からは、昨晩の話をもっと詳しく聞きたいだけよ?」
笑顔で語りながらも、抑揚に感情を込める美月。
やぶ蛇だったと、後の小言を覚悟して天を仰ぐ望美。
相変わらずな双子の姉妹のやり取りに、思わず声を出して笑ってしまった。
天真爛漫で責任感の強い望美と、大人びていて気の利く美月。
まだ幼さの残る少女達の両親譲りの美貌と人を惹きつける魅力は、綻び始めたばかり。
「美月のご機嫌が変わらない内に頂いて、早めに休むわね。……ちなみに、手紙は読んでもいいのかしら?」
今日の2人は、それぞれ朱赤地に薄桃色と白の朝顔、青藍地に水色と白の朝顔が咲く、色違いの振袖。
黒地に金糸、白地に銀糸の違いがあるものの、帯まで揃いの桜楓文様。
帯留めは、唐草文様の蝶が二匹寄り添う、繊細な銀細工だった。
並んで座る二人は、さながら色違いの人形の様で、目に楽しい。
差し出された葛湯を口にすれば、優しい温かさと甘さが体に沁み入るようだった。
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・蒼玉→サファイア
・盤上遊戯→オセロや将棋等