【第十夜】萌葱の朝②
螢と源のほのぼの時間。(つω`*)
呉服屋の旦那様と奥様は朝餉を終えると、それぞれ"勤めや用事があるから"と言い残して先に席を外された。
部屋には今、源様と私だけ。
畳に置かれた膳の料理に箸を伸ばす源様の、少し伏し目がちの横顔をちらりと見やる。
旦那様からは"朝から行儀が悪い"なんて言われていたけれど、しゃんと伸びたままの背筋も、朝餉を前にした時の一言も。箸を手にする時でさえ、きちんとしていた。
花街を一歩出れば、"生まれや育ち"、個々に身についた"常識"が物を言う。
ーー出来る時に、出来ることを。
今は昨夜の謝罪と、優しい気遣いへの御礼を伝えなければ。
朝餉を終えれば、若旦那としての仕事で日暮れまで忙しいだろうから。
意を決して、隣へ身体ごと向き直る。
「 ……源様。
昨夜はご迷惑お掛け致しました。寝付いてしまった私を褥まで運んで頂いて……髪飾りも、ゆっくり選ぶ事が出来ます。有難うございました。」
「 慣れないところで気を遣って疲れただろう?よく眠れたのなら、良いんだ。」
「 あの、腕や腰を痛めたり、とかは……」
「 ……腕や腰?
螢こそ、座卓に寄りかかって居たのだし、首を寝違えたりしていないか?」
「 私は、大丈夫です。
あの、もしまた同じようなことがあったら必ず、起こしてくださいね?」
「 声は、一応掛けたのだが……すまない。螢の許可なく抱えた事は謝るよ。」
決まり悪そうに少し俯いてそう言うと、源様は顔を逸らした。
ーー重たかったでしょう、と今更言えず。運んでもらっておきながら、謝られてしまった。早く誤解を解かなくては。
「 いえ、ただ、私は人を抱えた事も、抱えられた事も無いので………
源様が大変な思いを、されたのでは、ないかと……!」
「 "大変な思い"……か。していなくもない、かな。
次からは起こすよ。でも、"落ち着く"と言って、気を許してくれたのは嬉しかった。」
少しだけ照れたような、困った顔で笑う若旦那は、初めて見たかもしれない。
大変な思いをしたのか、していないのか曖昧に濁されてしまったけれど。
「 はい、休む時は自分で、客間に戻りますので。」
「 ……螢さえ良ければ、そのまま隣の部屋を使ってくれていい。」
「 それは旦那様の冗談、でしたでしょう?」
「 この家に居る間だけでも、螢に"お休み"や"お早よう"を、一番に言いたいだけなんだ。……近くに、感じるから」
ーーどうしよう。
"いずれは嫁に。想い人がいないなら、考えてくれ"と言われたあの時よりも、自分は嬉しいのかもしれない。
何故だか胸の辺りが急に温かく感じて、着物の襟元を抑えてしまった。
そして、ふと。朝の事を思い出す。
「 今朝は、源様だと思った旦那様と、最初に朝の挨拶を交わしました。私くらいでしょうね、お二人を間違えてしまうのは」
「 ……ああ見えて父は腹黒いから、螢を揶揄いに来たのだと思う。人間観察が趣味のような人だから。……でも、間違えられたくはないな。」
「 ………源様?」
「 今日一日、螢は何をしたい?」
「 あの、呉服屋の商いは…?」
「 螢が、声を聞き分けられるようになる事の方が、俺には大事だと思う。」
真剣な顔で、若旦那としての勤めよりも居候の身に付き合う事を優先されては、私が困る。
萌葱の商いに支障があるなら、志津音さんのところで、箏を弾かせてもらった方が良いのかもしれない。
「 螢が父の事を"旦那様"と呼ぶのも、何故か不快な気分になるのだが…」
「 ………それは、深く考えない方がいいと思います。」
「 そういうもの、なのか?」
妻が夫の事を"旦那様"と呼ぶのを、源様は連想しているのではないだろうか?
……私にそんなつもりは無いけれど。
仮に"源様のお父様"と呼んだとしても。
"お義父様でいい"なんて本人に言われてしまうかもしれない。
昨日から家族のように接してもらえて、嬉しいような、少しだけ気まずいような。
源様の想いを、言葉の端々に感じる度に心温まるのに、なんだか苦しい。
「……皆さんの善意や好意を利用するような女よりも、呉服屋の若旦那としての勤めを、優先してください。」
優しくしてもらっても、私はそれに応えられない。
山間の村で生まれ、花街育ちの世間知らずなのだ。
由緒ある家に嫁ぐ覚悟も無いくせに、華苑の楼主が怖くて、萌葱に身を寄せているだけ。
ーーだから、嬉しいのに気まずくて。少し、苦しい。
「 螢は本当に……あれだね。
今まで他人に甘える、とか頼った事が無いだろう?嫌な事がある時や、困っている時くらいは良いじゃないか。
そもそも、志津音さんから楼主の話を聞いたのだし、螢が此処にいるのも、俺が持ちかけた話だ。
……"あわよくば"、俺が螢の特別になれる機会かもしれないから」
"螢の弱みに付け入っているのは、俺かもしれないよ?"と言って。
ふ、と口元に微笑みを浮かべた源様に、華姫として最後に会った時の"呉服屋の若旦那"が重なった。
こちらの悩みを一蹴してくれるのは、年上の余裕なのだろうか。
「 あの。それでも、私より商いを…」
「 父もまだ家督を譲る気は無いし、俺の評価は駄目息子で十分なんだが……螢に呆れられたくは無いからなぁ。」
不承不承という体で、若旦那はやっと座布団から腰を上げた。
「 今日は螢の為に、萌葱の勤めに励んでくるよ」
ーーこの爽やかな笑顔は、若旦那の接客用、ではないかしら?
わざと言ってるのか、本心からか。
"この状況を俺は楽しんでいるから、気にするな"との、意思表示なのかもしれない。……それなら。
「 行ってらっしゃい、ませ。」
迎える立場である華姫は"いらっしゃいませ"、"お待ちしておりました"が華苑での常套句だった。
これは、さすがに呉服屋の旦那様には言わない挨拶だ、と思いついたのだけれど。
この一言がツボだったらしく、源様は軽く目を見張った後、耳だけでなく頬まで赤く染めながら"萌葱には居るから…"と小さく呟くと、片手で口元を隠し目を逸らした。
軽く笑って応じてくれるかと思いきや、そんな反応をされては、なんだか悪いことをしてしまった様に思う。
とりあえず私は、若旦那と別れた後、大人しく客間で双子への髪飾り候補の吟味をする事にした。
*
萌葱に着く頃には、高く下駄を鳴らす歩き方を改め、志津音は普段通り、しなやかな猫を思わせる立ち居振る舞いに戻っていた。
「 ……萌葱の奥様はいらっしゃる?志津音が来た、と伝えてくださいな♪」
いつものように店頭に居た売り子を捕まえ、微笑みを浮かべて用件を口にする。相手も慣れたもので、二つ返事で引き受けると、すぐに奥へと姿を消した。
ーーさて。これから呉服屋に来るであろう楼主を、奥様に去なしてもらいましょうか。それとも、若旦那に?
その場を見守るのも良いかもしれないけれど、渦中にある愛弟子の心境の変化も大事なこと。
昨日よりも落ち着いたのならばそれで良いけれど、周りのお膳立てで、若旦那と身を固める気になったかもしれないもの。
呉服屋の若旦那に嫁いで新妻になるか。楼主の囲いの中に戻り、箏を爪弾くヒメホタルでいるか。
こればかりは螢が決めることだけれど、師範としては本人の方向性くらいは聞いておきたい。
「 二人きりでもないと、あの子は本音なんて言わないでしょうし…」
困ったわねぇ、とあれこれ思案していると、萌葱の奥から笑顔で呉服屋の奥様が現れた。
「 志津音さん、今日もいらしてくださって嬉しいわ。」
「 ええ、急ぎのご報告があって。
昨日の今日で、ウチに楼主が来てしまったのよ。そのうち此方にも来るでしょうから、何とか対応していただけます?」
「 そうねぇ……交渉の余地があるのなら、穏便に済ませたいわ。
楼主様は、螢さんの保護者の立場でしょう?予め身請け代でも包んでおいたら、大人しく引き下がってくださるかしら…」
「 何に対して苛ついていたのかまではわからないけれど、余裕が無いようだったから、交渉は難しいと思うわぁ。そんな"迎え"では、螢も帰らないでしょうけど…」
「 主人も私も、螢さんにお嫁に来てもらいたい所だけれど、一晩くらいでは何も進展しないのが、うちの源さんだから…」
「 好いた女性と同じ屋根の下で一晩明かしても、何も起きないとはねぇ…」
「 朝餉の時から新婚気分で、実の親は霞扱いするくせに、ねぇ…」
いずれ修羅場を迎えるのは避けられないとしても、楼主には冷却期間を、若旦那には燃焼期間が必要だろう、と奥様と意見が一致した。
その間に新しい足袋と豪華な織りの帯を見せてもらう事も忘れてはいない。
勿論、お代の請求先は華苑の楼主宛てだ。
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渦中→もめごとの中心。
去なす→相手の追及をはぐらかす。追い払う。




