【第九夜】萌葱の朝①
チュンチュン、と可愛らしい雀の囀りが耳に届いた。
ゆっくり二度、瞬きを繰り返してから身を起こしてみても、いつ自分がこの部屋に来て休んだのか……どうしても思い出せない。
順を追って、昨夜の事を思い起こすと。
ーー昨日着ていた枝垂れ桜の着物は、浴衣に着替えた時に、客間にきちんと畳んで置いてきた、でしょう?
湯上りの後、萌葱の奥様がいらして、源様の部屋まで案内してくださって…
それから、源様に"双子への贈り物にしたいから、髪飾りを見せてもらいたい"と頼んでーー
寝返りをした時に感じた体の違和感は、半纏を着たまま寝ていたからだ、と気付いた。
昨夜は一人で幾らも待たない内に、寝入ってしまったらしい。
「は、運んで、もらった、の…?」
あぁ、と布団越しに立てた膝に、思わず顔を埋める。
源様と顔を合わせたら開口一番に謝らなくては、と自分に言い聞かせると、一晩借りた布団を畳み、部屋の隅へと寄せた。
身支度の為に客間へ戻ろうかとも考えたけれど、畳の上にきっちりと揃えられていた着物一式に着替える事にした。
もしかしたら昨夜の内に、源様が用意しておいてくれたのかもしれないから。
そうしてようやく、畳に置かれていた盆の髪飾りや簪を一人静かに眺めていた時だった。
「螢……起きているなら、朝餉に行かないか?」
朝日で明るい障子戸越しに、廊に居る源様から控えめに声を掛けられ、すぐに其方へと向かった。
「昨夜は、ご迷惑をおかけして、すみませんでしたっ…!!」
さっと障子戸を開けるなり、深く頭を下げて謝罪を述べる。
ちりめん細工を見たい、と自分から頼んでおきながら、他人の部屋で寝入ってしまった挙句。
褥まで運んでもらっていたなんて、恥ずかしくて堪らなかった所為もある。
「 迷惑とは、何の事だろう?」
「 あ、あの、部屋で勝手に寝入ってしまった私を、この部屋まで運んでくださって………ぉ、重かったのでは、ないかな、と………」
自分で言うには恥ずかしいけれど、今まで大人一人を抱えた事もなければ、誰かに抱き上げられた事もないのだ。
年端のいかない童女であればまだしも、自分を運ぶのはきっと大変だったに違いない。
ーーでも心当たりが無いなんて、源様は、嫌な思いをしなかったのだろうか?
「 隣の部屋に、運んだだけだろう?
それは別に謝る程の事では無いし、源にとっても、迷惑ではなかった筈だよ」
はじめにとっても?
次いでくすくす、と聞こえた低めに抑えた笑い声に、思わず頭を上げ、目の前の人物が誰かを知った。
「……お早う御座います、螢さん?」
「おは、ょ、ぅ…ござ…ぃ…ま…す…」
ーー私は、声の主を間違えていたらしい。
たどたどしくも、何とか朝の挨拶を絞り出した。
先程"螢"と呼ばれた気がしたのは、寝惚けていたのかもしれない。
呉服屋の旦那様は、そのまま何事もなかったかのように笑顔で話を続けた。
「成る程、合点がいきました。源は昨晩寝付きが悪くて、今朝は寝坊しているのでしょうね。
妻が、息子はともかく、朝餉には貴女が居て欲しい、と言うものですから。」
わざわざ声を掛けに来てくださったのに、朝から客間に居なかった事で誤解を招いたかもしれない事も。
先程の、声の聞き間違いの失態も。
自分から話した、昨夜の事も。
いくら源様の父様とはいえ、昨日初めて会ったばかりの方に……此れはないだろう。
いっそ、この開いたばかりの障子戸を今すぐ閉めたい、と本気で思った。
それも出来るわけが無く、かっかと熱の集まってくる顔を、ぎこちない動きで伏せた。
「あぁ、そう俯かないでください。私が、源に成りすまして声を掛けたのですから。」
旦那様本人にしてみれば、軽い冗談のつもりだったに違いない。
それを私は本気で間違えて、そのまま話をしていたのだ。
恥ずかしさのあまり、今の自分が一体どんな表情をしているのかさえ、わからない。
「…重ね重ね、失礼致しました…」
「…嫌われてしまった、かな?起きて来ない息子は放っておいていいから、行こうか?」
「いえ、そんな……あの、はい。」
つい、自分でも何だかよくわからない返事をしてしまった。
これではきっと奥様にも気付かれてしまうだろうけれど、顔の熱を少しでも冷ましたくて、手の平と甲を代わる代わる頬に当てながら、旦那様の数歩後に続いて朝餉の間へと向かった。
*
お早う御座います、と奥様にはどうにかはにかむような笑顔で挨拶をし、用意されていた膳の前に座った。
本当にこのまま、源様抜きで朝餉を頂くらしい。
「今日は、斬新な椿柄なのね。……源さんらしいわ。」
「浴衣の柄のお話は、源様にお聞きしたのですが、椿柄の意味も…教えていただけますか?」
"あら、昨夜のうちに聞いちゃった?"と軽く肩をすくめてから、奥様は楽しそうに話してくださった。
「一般的には、椿柄は"長寿"や"美しさ"の意味合いが強いわ。他には"継続・発展"の意味があって……
螢さんに着ていただいた、子持ち縞柄の浴衣と花菱の半纏には、"こんなに良い娘さんとのご縁があるうちに、早く結婚して可愛らしい孫の顔を拝ませて頂戴。"という意味を込めて。
椿柄を選んだ源さんは、"恋愛的な関係の発展は望んでいる。でも、前から続けている事を、そのまま続けるつもりだ"……なんてとこかしら。」
「とても変わった意思疎通ですね?」
着物の柄に込められた意味の多彩さに驚き、奥様の想いに関しては、自分の推測が当たっていたので、つい可笑しくて自然と笑みが溢れる。
「 知らずに身につけた当人に、後から聞かせる話ではないだろう?
螢さん。妻も息子もこの調子ですが、どうか気を悪く為さらずに。
………それとも、今後は"螢"と呼ばせて貰おうかな?」
「 あの、それは……」
源様に呼ばれた、とまた勘違いしてしまいそうで、その申し出は困ります、と言いたかったのだけれど。
「 あなたったら。今から義娘のように呼んでしまっては、それこそ螢さんが困ってしまうわ。」
「 やはり駄目だろうか?色々と楽しい毎日になると思うのだがなぁ…」
「 私達が楽しくても、きっと螢さんより、源さんが拒否しますよ。」
「 ……それは残念。」
ーー良かった。
奥様がやんわり止めてくださったおかげで、旦那様と源様を間違えるような事は、今後は無さそうだ。
パリパリと最後の黄色い沢庵を咀嚼していると、なにやら慌しい足音が聞こえてきた。
萌葱の方が、火急の用でも有るのかと思いきや、障子戸を開け放ったのは源様だった。
「 ……この子、地獄耳だったのかしら?」
「 いいや?先程、螢さんを迎えに行った時には起きなかったからね。
螢さんが居ない事に気付いたからにしろ、朝から行儀が悪いな。」
目の前の両親は、息子の様子に気付きながらも何処吹く風、と素知らぬ顔で振舞っている。
とりあえず私は、昨夜の事を後で謝る事にし、若旦那へ朝の挨拶をした。
「 …お早う御座います、源様。」
「お早う、螢。気付いてくれて良かった、椿柄を着てくれたんだね。」
栗色の瞳が柔らかさを増す、あの優しげな笑顔が眩しい。
寝坊したというのが信じられない程、若旦那は朝から爽やかだった。
「はい。紅白の水玉柄の様な、洒落た椿柄は珍しくて、可愛らしいですね。」
「写実的なものばかりだと、どれも似たり寄ったりになってしまうから。遊び心のある柄もどうかと…」
「…源さん。
此処には螢さんだけでなく、私達も居るのを忘れないで?まずは腰を下ろして、朝餉を頂いてからになさいな。」
「仕方がないよ、結衣。
源の瞳には、螢さんしか映っていないのだから。
いっその事、螢さんには客間ではなく、源の隣の部屋で過ごしてもらおうか?」
何食わぬ顔で所定の位置に腰を落ち着けた若旦那と、そのご両親へ、思わず交互に視線を送ってしまった。
ーー源様の部屋の隣というと、今朝目覚めた部屋になる、のだろうか?
「……いただきます。
其れは、流石に…いや、でも螢さえ良ければ、構わない…のか?」
箸とご飯茶碗を手にしたものの、源様は旦那様の提案を本気にして、悩んでいるようだった。
少し離れた場所で、湯呑みに人数分の緑茶を注ぎ淹れながら、ちら、とご両親をうかがうと。
二人は呆れたような、半ば愉しんでいるような、生暖かい視線で息子を眺めていた。
ーーやはり、軽い冗談の提案だったらしい。
黙々と箸を進め始めた源様は、そんな自分の両親の様子には気付いていない。
他人事のように眺めるぶんには微笑ましいけれど、好意を寄せてくれている若旦那の家に、自分は御厄介になっているのだ、とふと実感する。
"隣の部屋"というか"続きの部屋"は、夫婦であれば当然であるし、呉服屋:萌葱に嫁げば、きっとこんな毎日を過ごすのだろう。
華苑での日常とは違い過ぎるけれど、こんな風に平和で、穏やかな家庭は居心地が良い、と思う。
一人一人に白磁に赤い梅の咲く湯呑みを配り終えたところで、ほわほわと湯気の立つ自分の緑茶に口をつけながら、"花街の外の生活"と"私の幸せ"を、この時、少しだけ冷静に考えた。




