【第四夜】百戦錬磨の紅色師範
「……音さんっ、志津音さんっっ!!」
ーーー走って、走って、走って。
足袋が映るほど磨かれた階段や廊に何度か足を滑らせ、転びそうになりながらも華苑を出。
追いかけてくるような足音はしなかったように思うけれど、振り返って背後を確かめるのも怖かった。気付けば着の身着のまま、箏の師範である志津音さんの元を訪ねていた。
こんなにも走って逃げた覚えがあるのは、夢の中だけでの事。
現実はこんなにも肩で息をし、目的地に着いて止まりはしても、真っ直ぐに立って居られないけれど。
膝に手をついて下を向きながら、跳ねる心臓や乱れる呼吸を宥めていると、目の前の戸が開いた。
「どう、したの。そんなに息を切らせて。……あらあら、下駄も履かずに駆けて来たのねぇ。」
"面倒ごとなら、大好きよ。"と。
急な来訪にも関わらず、にっこり微笑みながら、志津音さんは家の中へと招き入れてくれた。
箏の稽古は休みだというのに、その唇には艶やかな色の紅が引かれている。その紅が目に留まり、否応無しについ先程の事を思い出してしまった。
華姫であれば昼間も化粧はしていたけれど、今は何もつけていなくてよかったと心から安堵する。紅を差していたら、口付けを交わしたと一目でわかってしまっていただろうから。
カラカラと戸を閉めると、そのまま玄関口で少し休ませてもらった。ある程度息が整ったところで、状況を確認する。
「ーーあ、あの。これから外出されるところ、でしたでしょうか。」
「ん〜用事、というほどの事でもないの。今日は朝からお日和が良いから、目の保養に行こうかしらと思っていただけ。それよりも、螢がこんな風に訪ねて来た事の方が私には大事よぅ?此処で話すのも何だから、その足袋をぬいで早く上がりなさいな。」
「はい、有難うございます。お言葉に甘えて…」
白い足袋は、此処に来るまでの間にすっかり土埃で汚れてしまっていた。夢中になって足元を気にする余裕も無かったけれど、幸いな事に足に怪我は負っていないようだった。
裸足で通い慣れた箏の稽古をする部屋に通してもらい、足を崩した姿勢で休んでいると、替えの足袋まで出してもらってしまった。
「使っていないものだから、そのままあげるわ。」
「そんな、頂けません…」
「洗ってもきっと、足袋に付いた土の色が落ちないわよ?お箏の師範代を勤めるなら、普段の身なりもきちんとしなくては。」
ね?と言いながらも志津音さんは、きゅっと眦が上がった瞳を更に細め、先程からニコニコしている。
"面倒ごとが好き"と言っていたのは、本当なのかもしれない。そういった相談は今までした事が無いけれど。
華苑の元:遊女であった志津音さんならば、手練手管はお手の物。恋愛に関しても百戦錬磨だろう。
そう思い、なるべく直接的な表現は避けてこれまでの事や、何故今逃げるように華苑から駆けて来たかを静かに語った。
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「……大変ねぇ。華姫の勤めで客が相手なら、螢もそこまで悩まないで手の打ちようがあるでしょうに。」
こてん、と器用に首を真横に傾げたまま、頬に人差し指を当てて何やら志津音さんは考えているようだった。
この女性は、本当にハッと目を惹く華やかな紅色が似合う。
頬に添えられた指先にも、しっかり爪紅が施されている。足袋を履いているから確かめようが無いけれど、もしかしたら足先まで同様に紅を塗っているのかもしれない。
箏の師範を勤めだしてから十年以上にはなるらしいけれど、今も尚、仕草から醸し出す色気は、遊女であった頃のままなのだと思う。
赤みを帯びた茶褐色の髪に、上品な紅茶色の瞳。そんな志津音さんをより引き立てている、洗練された紅。
美月に語った時とは違う、歳上の女性への相談のようなものだったからかもしれない。
少しだけ胸のつかえが取れたようで、ぼんやりとしながら志津音さんの爪先や唇の紅色を眺めていると。
何か思いついたのか、箏の師範は急に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ねぇ、螢。とっておきのお呪いを教えるわ。」
「……お呪い?」
「絶対に効果を発揮する代わりに、多分一度しか効かないわぁ。……それでも、あの楼主が一時でも隙を見せれば、逃げられる事間違い無しよ♪」
「それは…是非とも教えていただきたいです。自分で身を守る為に。」
「そうねぇ。"ここぞ"という時に、使うのよ?」
二人きりの部屋だというのに、志津音さんは片手を添えて、そっと耳打ちしてきた。
"お呪い"にしては短くて覚えやすいし、気が動転するような事態でもこれなら言えると思う。
でも、この一度だけ効果があるらしい"お呪い"に、楼主が隙をみせる程の関連性があるとは、どうしても思えなかった。
「……対策も一つは思いついた事だし、このまま部屋に篭っているくらいなら、気晴らしに出掛けましょ?螢には桐の下駄を貸してあげるわねぇ♪」
確かに安全な処に居るからといって、悶々と今朝の出来事を考えてしまうよりも、志津音さんと出掛けた方が思い悩まずに済むのかもしれない。
走って乱れた髪を整え、裾の乱れた着物を着付け直し、顔を洗う。
"お出掛けだから"と志津音さんに桃色の紅まで引いてもらった。久々に細い紅筆が唇を辿ったおかげで、あの柔らかい感触の記憶に振り回されずに済みそうだと、自然と顔が柔らかく綻ぶ。
「顔色が明るくなるのだから、たまには自分で化粧をするのよ?それで少しは気分も変わるわ」
「そうですね。でも、今日は志津音さんのおかげです。」
「それなら良かった。それにしても螢は随分な人に目を付けられたものねぇ。何かあっても無くても、此処を避難所にしてくれて構わないわ。気苦労が多そうだもの。……そうそう、折角これから出掛けるのだし。此れは、貴女から渡した方が良いと思うわ。」
志津音さんから借り受けた赤紫の鼻緒の下駄を履き終えたところで、"はい"と白い文を手渡された。
「……あの?」
「貴女に以前頼まれていた文よ。私も中々花街で会う機会が無くて、近頃呉服屋からも足が遠のいていたから……若旦那には渡せずにいたの。御免なさいね。」
少しだけ時を遡ると。
淡い色合いの枝垂れ桜の付け下げと、麻の葉文様の苺色の帯に添えて、源様から文をもらっていたのだ。
"約束していた色打掛が仕上がるまで、時間が掛かってしまうから"と。
春先に間に合うよう、あの絵師の図案を元に枝垂れ桜の付け下げを仕立て。
病魔を祓い、健やかに過ごせるようにと麻の葉文様の帯を合わせてくれたらしい。
その返事として、華姫の勤めには戻らない事。着る機会の無くなった高価で煌びやかな色打掛よりも、普段着れる付け下げを贈って貰えて嬉しい、大事にします、と自らの近況を綴った文。
直ぐに返事を書いたはいいものの、一向に華苑で源様に会う事がなくて困り果て、呉服屋を贔屓にしている志津音さんを頼みにしたのだった。
今更自分で届けるとなると、とても気恥ずかしい内容なのだけれど。
ちょうど今日は、源様から贈られた着物を着ている事だし、初めて呉服屋を訪ねるにしても、志津音さんが一緒だから心強い。
源様ならきっと、便りが遅れた事を苦笑する程度で許してくれるだろう。こんな機会は滅多に無いのだから、双子に可愛らしい布小物をお土産に見繕っても良いかもしれない。
「……志津音さん。
何だか少し、緊張してきました。でも、誘っていただいて嬉しいです。また、一緒に出掛けてくださいますか?」
「貴女さえよければ、勿論よ。娘のように可愛い愛弟子ですもの。ただ、そうねぇ。玄関には暫く塩でも撒いておこうかしら?」
「塩、ですか?」
「そのうち、螢を狙う楼主が、言い掛かりを付けにウチまで来るかもしれないでしょう?その時はぶぶ漬けで、もてなしてあげるけど。」
"楽しいわねぇ、若いっていいわぁ"と言いながら、嬉々とした様子で志津音さんは前を行く。
私も、経験を積めばこのくらい逞しい女性になれるのだろうか。
"起こった出来事に思い悩むくらいなら、気晴らしと行動"するのが良いと、一先ず覚えておこうと思う。




