【第二夜】その後、大変でした。
楼主の手入れに慄いて、こっそり髪を切ろうと詩乃さんから鋏を借りようとした螢。楼主にバレた夜。
「鋏を、所望したそうだな」
半月に一度であれば、と。渋々了承した楼主の髪の手入れの時間。既に背を向け、髪を預けている今この時に、何故その話を持ち出したのだろう?
ーーまだ。まだ大丈夫。
確かに詩乃さんから鋏を借りようとしたけれど、結局は"研ぎに出している"とすまなさそうに断られてしまったし、何に使うのかも誰にも伝えていないのだから。
まさか、楼主がそれを知っていたとは思いもよらなかったけれど。
「……はい。」
無難に、短い返事だけで応じた。向こうも手を止める気配がなく、たわいのない会話の様だ。もしかしたら明日、楼主が貸してくれるのかもしれない。
カタリと少し重みのある硬い音につられて鏡からつい、と視線を外せば、座卓の上に鋏が置かれていた。
座布団の上に正座をし、体は畳の上の鏡掛けに向かいつつも、少し右手を伸ばせば手の届く距離。
「貸そう。ただし、今使え」
「………」
「必要、なのだろう?」
切りたいのは貴方が手にしていた私の髪です、などと言えるわけが無い。何か楼主を誤魔化すために、薄い手拭いの切れ端でも裁断してみようか?
「今今、必要なのでは無くて…昼間、ふと思い立って、詩乃さんが持っていたら貸して頂きたかっただけなのです。」
「そうか。手入れを始めたばかりの此れを、また切り落とすつもりかと思ったのだが」
サラリ、サラリと楼主が梳き終えたばかりの背で揃えていた毛先を、肩より前へと緩慢な動きで流される。
これは、カマをかけられているのかもしれない。背を向けていても、鋏が手の届く距離にあっても、楼主の前で使うつもりは無かった。そんな事をすれば最後、何をされるかなんて想像するのも怖い。
「……御冗談を。"伸ばせ"と言っていたではありませんか。それより楼主様、今夜は髪梳きだけで終わり、でしょうか?」
私はそれでも一向に構わない。
香油の香りに包まれて横になると確かに心休まるけれど、楼主に香油を毛先に刷り込まれる事は、どうしても慣れない。ゆっくりとした手付きで、一房ずつ緩く髪を引かれる感覚が苦手。
"自分でする"という選択肢は、今後も無理なのだろうか?
「華姫を辞して二月になる。発疹がどうなったのか、この目で確認しておこうかと思ってな」
「………」
自分のふとした思いつきのみで、またあの時のように寝衣を下げるつもりだったのか、楼主は。
正面に座していても、背を向けていても、ろくな事がない。
それでもすぐ帯に手を掛けるでもなく、間が与えられている事くらい私にも察せられる。
少しでも此方の心情が伝わればいい、と思い、一つ大きな溜息を吐いた。
さっさと終わらせてしまおう、と半ば自棄になり、少しだけ帯と襟を緩める。肩は出てしまうけれど、発疹の跡がある辺りまで背を見せつつ、胸や二の腕を寝衣で隠すには自分でこうするしかない。
勿論、これ以上の着崩れを防ぐ為、帯を固く結び直す事も忘れない。
「瘡蓋も取れましたし、指で触れても違和感もありません。時折、湯上りの時は痒みも覚えましたが、今では痛みも無くなりました。」
だから私の肌にはもう触れてくれるな、と。もう確認は済んだだろう、と襟を正そうとしたのだけれど。
「この辺り、か」
ハラリと微かに、自分の毛先が素肌に触れたような感触と。正そうとした襟は、衣紋をしっかと楼主に抑えられていた。
次いで指よりもなにか、柔らかいモノが当たったような気がして、ビクッと背が反り返る。
反射的に動いてしまっただけなのに、"逃さない"とばかりに左腕を楼主に掴まれてしまった。
前には鏡立てがあり、右には肘のすぐ側に鋏が置かれた座卓。背後の楼主に左腕を掴まれての正座の状態では、逃れようが無い。
「…い、痛っ」
背を、軽く喰まれ、ている…?
火傷のような発疹の痛みは内側からジワリと広がっていくものだったけれど、此れはズキリと肌の表面から徐々に痛みが身体の深部へ、向かっていくような。
体が自然と前へ倒れていく。
背の痛みから逃れるように、楼主の唇から離れたいと。それすら許されないのか、左腕だけはしっかりと上体を支えるように保持され続けた。
「…っやめてくださいっ」
どうにかして声を振り絞る。発疹の出来ていた箇所よりも、少し下の辺りがジンジンする。逃れられないのなら、もう言葉で訴えるしかない。
「治ったかどうか、の確認、なんて、嘘…」
「…発疹が治っていたから、別の跡を付けたまでだ」
少しだけ脱力する。やっと楼主の唇が背から離れたのだもの。言葉の力は偉大だ。
まだ息のかかる距離ではあるけれど。ついでに今、背に触れているのはあの直線的な鼻梁のような気がする。私への断りなく、背に何を付けたというのか。
「…別の、跡…?」
「七日程、保つ。幼少時に背丈が伸びた証に、木や柱に印を付けた事は無いか?」
隠れて再び髪を切ろうと鋏を借りようとした事も、私が嫌がる事も承知の上での仕置きだ、と感付いた。
一目で伸びた長さが分かるよう、背に印を付けられたのだと。それだけでなく、今後を思うと背にヒヤリとしたものを感じる。
「…な、なのか、もつ…?」
「一度切り落としても、常の長さに戻るまではそれなりに伸びるのは早いらしい。それよりも先に、印が消えては元も子もないがな」
ーーああ、私の髪が。
楼主の気まぐれな手入れ対象になっているだけではなく、観察対象にまでなってしまったらしい。それでも、何とか言葉を尽くしてして印をまた付けられるのだけは拒まなければ。
「も、物差しや巻尺を使われた方が確実、ではありませんか?」
「帳面に付けるでもあるまいし、印で一目でわかる。」
「…背が痛むのは、嫌です。口付けも、やめてください。」
「…仕方ない。ならば前に付け直すしかあるまいな」
「!!」
"前に付け直す"と言われて慌てて襟を両手でかき合わせ、握りしめた。"口付けもやめて欲しい"という主張は、残念ながら楼主の耳に届いていないらしい。
半月に一度の髪の手入れの為の来訪だったのに。七日に一度、楼主が背を確認する?しかも、印を付け直す?
消えかかる度に口付けで跡を残されるくらいなら、いっそのこと。
「…印なら彫り師に頼んで、花印を刻んでください。"花の印"なら、ひとつ増えても構いません。…背負います。」
「泣くほど嫌なら、初めから可笑しな気を起こすな。"背負う"と言うなら、花印ではなく"此方の意味"にしてもらいたいのだがな?」
私は泣いていない。多少震えて、瞳が潤んでるだけ。しかも、楼主の言い分では"私が悪い"という事になっている。
よくわからないのは"背負うなら此方の意味"。髪の長さが分かるよう、印をつけた理由の事だろうか?
・☆・☆・
"首元が赤くなっている"と、気付いて本人に知らせた事がある。今はもう花街の外へ嫁いだ、二つ歳上の花娘であった姉様に。
その女性は艶やかに微笑んでから、人差し指を口元に持っていくと、しーっと内緒話をするかのように小声で囁いた。
「此れは、"愛しいひと"の証。想い人が、私に付けた跡なの。"貴方のもの"という印、でもあるかしら。もう少し目立たないところに、つけてもらいたいものよね?」
それを聞いて、確かに迂闊に口にしてはいけないと。
本人に言う事でももなかった、と恥ずかしさから暫く顔から熱が引かなかった。
・☆・☆・
ーーーでも。恋人のいた花娘と、楼主の価値観は同じではないはず。
こうなったら躊躇わずに本人に聞くしかない。緊張の一瞬に、コクリと生唾を飲み込んだ。
「"此方の、意味"とは……?」
「……どうやら、増やされたいようだな」
いつも。いつもこの調子だ。
常識とはかけ離れた楼主の思惑を、どうやって測れというのだろう。ただの問いですら、私がすれば気に障ると?
「ひゃ…っ」
色気の欠片もない声を出してしまった。いいえ、この状況に色気は微塵も必要ないけれど!
先程とは少し離れた位置…な気がする。本気で、楼主の跡を次々に増やされたのでは堪らない。私の身も心も、もたない。
「わ、わかりました!…背負いますので!どうか、お許しを!!」
チリ、とまた、あのなんとも言えない痛みを背中に覚えたのは一瞬のことで、掴まれていた二の腕が離された。今度こそ、唇だけでなく鼻も背に触れていない。
「…それで。何を背負う?」
ほっとしたのも束の間。低く、冷ややかな声が鋭さを増していた。歯を食い縛るようにしながら、重い口を開く。
「楼主様に、隠れて。"伸ばせ"と言われていた髪を、切ろうと…しました。その罰の印を、背負います…」
「そうだな。人が慈しんでいる物を蔑ろにするとは。嫌がる素振りをしているくせに、本心では罰を悦んでいるのかと疑ったぞ」
「も、申し訳、ありません、でした…」
反論したいところが、所々あるけれど…!!今は逆らわない、逆らってはいけない。
お見通しな楼主にシラを切ろうとした事や、自分の非を認めない事が逆鱗に触れたのだから。きちんと向き直って頭を下げた方が良いのかもしれない。
でも、先に襟を直してからでないと胸の谷間まで見えてしまう。するすると衣紋を上げようとした矢先、再び楼主の手によって阻まれてしまった。
「…誰が、直して良いと?」
「こ、このまま、でしょうか…」
「これから香油を使う。いや、面倒だ。次からも背を出しておけ。」
もう、そろそろ意識を手放してしまいたい。まだ冬の節であるのに、夜に肩や背を出して楼主を待て、と?
あの、姉様の首筋を染めていた、一片の赤い花弁のような跡をまたつけてもらう為に?
早くに謝っていれば、一つで済んでいただろうか。次も二つ、背に刻まれてしまうのだろうか…。
もう、目の前の鏡を見据える気力すら無かった。今の自分の瞳は潤んで、泣き出しそうな顔は、赤く染まっているのだろうから。そんな自分を見るのは辛い。
少ししてからフワリと、優しい香りが部屋に広がった。背の痛みも精神的な消耗感も。優しい香りも、明日の朝にはきっと艶々として手触りの良い髪も。全部、楼主がもたらしたもの。
自分の事なのに、何だか悔しい。
「楼主様。普通、罰なら飯抜き、とかではありませんか…?」
「何を言い出すかと思えば。花芽ではあるまいし、それでは緩い。華苑がただの妓楼であった頃の折檻は、火責めか水責めだ。」
「火責め、水責め…?」
「肌に熱い蝋を垂らすか、顔を何度も水に浸けられたいか?」
「…今の華苑の楼主が、楼主様で良かったです…」
ふ、と僅かに聞こえたのは、楼主が笑った際の呼気だろうか?あの楼主でも笑う事もあるのかと、首を傾げたくなる。
ふと、楼主の黒髪が視界に入ったと思えば、左肩の花印に口付けを落とされていた。失言した覚えは無いのだけれど。
「…ろっ、楼主様!?」
「ああ。つい、な。」
"つい?"そんな簡単に済ませないでもらいたい。唇を離す際の音は、絶対にわざとだとしか思えない。
………"ちゅっ"て。
確かに、軽い音がしたのだもの。
逃げ回れば蝋燭を片手に夜這いされ、大人しくしていたはずの今夜も背を喰まれただけでなく、肩の花印までも標的にされ。
先代は暴力的な楼主だったのだとしても。今代の艶魔の楼主もどうかと思う。
前言撤回致します、とも今更言えず。
その後、髪に触れる楼主の手が止まるまで。
私はただただ、唇を引き結んで無言を貫いた。
*《隠れて髪を切ろうとした、それも認めず謝らない》罪と、罰《恥ずかしい・痛い・湯殿や脱衣所で気が休まらない・他人に聞かれて困る》の嫌がらせ仕様です。
決して、ラブラブではありませんw




