【第一夜】色々と怖い 。
美月に語った、髪の手入れの件で楼主から逃げ回って怖い思いをした時の事。
ーー鬼だ、彼れは。
底冷えした瞳に熾火の様な感情だけを宿して此方を見据え、常には近寄り難い厳しさと冷淡さしか感じさせないのに、ふとした時に何処か艶かしさを漂わせる美しい、鬼。
私の行動に神経を逆なでされる、と言い。切り落とした髪ばかりか、切り揃えて短くなった髪にも執着をみせる彼の人。珍しい紫紺の色をしている髪だから、だろうか?
ゔぅ、お願いだからまだ伸びないで。
でないと言い逃れ出来ずに、黒曜石のような瞳をした彼の鬼に捕まってしまうーー。
必死に闇の中を走っていたのに逃げ切れず、ぐっと背後から髪を掴まれ引かれてしまい、恐怖でふるりと身体が震えた。
でも痛みは感じないから、此れは夢。
緊張を解こうと一度ぎゅっと力を込めてからゆっくりと瞼を持ち上げた。
ーーほら、大丈夫。
髪は掴まれていないし、楼主は先程追ってきた時の様な、嗜虐的な笑みも浮かべていない。
「でも、角が…」
「……角?」
手の届きそうな距離に在るその冷たく整った顔には、鬼の証が欠けていた。
確かこの辺りだった、と手を伸ばし、髪の生え際と額の境にそっと指先で触れてみるが、やはり何も手応えが無かった。
「……寝惚けているのか」
薄暗闇の中ぼんやりと霞む視界で、楼主が不意に目元を和ませた様に見えた。途端、口元が何かで覆われ、伸ばし終えた右手を強く掴まれる。
ーー髪だけでなく、手を掴まれてしまっても駄目なのに。私を油断させる為に角を隠していたのだろうか?
「〜〜〜〜〜!!!!」
もう一度強く目を瞑って、別の夢をみようとしたのに、其れは叶わなかった。
ゾクリ、とした感触を覚えて上げた筈の悲鳴も、顎の辺りに至るまで長い指の掌で隙間なく覆われてしまっていては、口の中で篭った声になっただけだった。
ーー角の無い楼主は、私の右手に何をした??
「ん"ん"、んーー!!」
混乱し過ぎて、生理的な涙が目の端に浮かんでくる。自分の体温よりも温かく、柔らかくて湿ったモノが、掌の中心をゆっくりとなぞる度に、ゾワゾワとした悪寒が走る。
懸命に拳を握ろうとし、右手を自分の方へと寄せる。言葉にはなっていなくとも、抗議の声をあげた。
「…随分と物騒な夢をみていたようだな?魘された挙句、"鬼"とは。」
此方が悲鳴を上げるとわかっていて、口を封じていたくせに。
物騒なのは夢ではなく、今のこの状況と。
角が無くとも目の前の楼主だ、と言ってやりたい。何故、夢の中だけでなく私の部屋に本物が居るのか。
夢と現の境が曖昧だったのは、楼主が持参したのが洋燈ではなく、蝋燭だったせいかもしれない。
頼りない灯火に照らされた楼主もまだ見慣れないこの室内も、ユラユラと光と影が揺らめいていたし。夜の訪問が現実だと思いたくなかったのかもしれない。
…以前患っていた時の楼主の訪問も、心臓に悪い思いしかしていない。
悪鬼退散!とばかりに、瞳に怒気の感情を込めて見返せば、漸く口元を覆う手が離れた。
「…夢よりも現実の方が、背筋の凍る思いを体験しておりますが」
「自ら人の顔に触れておいて其れか?夢にまでみている癖に。」
「……何よりまず、上から退いていただけますか」
掌を舐められた感触で悲鳴を上げなければ、悪寒で覚醒しなかった時は、何をされていたんだろう。
楼主は夜這いに来たのだろうか?
いや、これはすでに肝を冷やしたのだし、馬乗りのこの体勢も今まさに襲われているようなものだけれど。
「そう何度も逃げ回られていては面倒だからな。大人しくしている時ならば、効率が良いだろう?」
「………」
「髪の手入れを委ねるか、このまま身を任せるか。何方か選べ。」
何故、二択。
何方も選びたく無いから、沈黙するしかない。楼主の思惑になんて、簡単に乗ってたまるものですか。
「……そうか。
何方も選ばないのなら、このまま身を委ねた後、今後の髪の手入れも好きにしろという事だな?…世話の焼ける。」
「!!……何方も嫌です!」
「沈黙は"了承の意"を示すものだ。」
「私に、そんなつもりはっ!微塵もございませんっ!!」
「夜分に大きな声を出しては、誰かが来るかもしれん。この状況を見られたいのなら構わんが、如何する?」
狡い。
こんな時分に高価な蝋燭を持ってまで訪れたのは楼主の方だ。
そして今も、揺らめく枕元の灯りで照らされて無駄に妖艶さに拍車がかかっているし、その言動は人の心を惑わす妖そのものだ。
華苑の皆には知られたく無い。
誰かに誤解されたくも無い。
この状況を見られてしまっては、どう言い繕ったとしても信じてもらえないではないか。
何か、何か喋らないと。この間が持たない。下手すればこのまま、本当に手篭めにされてしまうかもしれない。
「…か、髪の手入れでしたら、今夜はすでに済ませましたので。」
「長い髪の手入れが面倒だと。短くなって楽だ、と言っていたのは誰だ?」
「………」
「いっそあの髢を常に着けておくのも手だが、此方の方が手入れをした分、伸ばせば美しくなるからな。お前は何もしなくていい。」
"此方の方"と言いつつ、楼主は褥に広がる髪の一房を、軽い仕草で指で掬いとった。
ぐっと力を込めて引かれた訳では無いけれど、これでは先程みた夢が正夢になってしまったかのよう。
「……これでも毎日梳って、自分で髪を結っているのですが」
「髪に触れるな、とは言っていない。しなくていいのは手入れだが、毎日髪を弄られたいというのなら、話は別だ。」
「絶対に、それだけは、お断りします…!!」
懸命に此方の意思を伝えている筈なのに、どうしてか楼主とはまともに話せている気がしない。
そして、一向に上から退いてくれる気配が無い。辛うじてお互いを隔ててくれている掛布団が、何よりの救いで私の唯一の盾。
ーーもう、こうなったら折れるしか、無い。
「あの、明日は稽古の勤めを控えておりますので…このままでは体に障ります。」
そう。
私よりも、私の体調や箏の勤めを重んじる楼主だからこそ、こう伝えれば強く出る事はない筈。
「……夜の勤めが、体に障ったようだと。明日、箏の師範に伝えて欲しいのか?」
何故、自分で自分の首を絞めるような事態に話が進んでいくんだろう。
華姫は辞めたというのに体に障るような"夜の勤め"?
遊女の勤めか夫婦の営みを示すようにさらりと言うのはやめて欲しい。
……ええ、もうお手上げですとも。
深夜の闇色を纏った楼主に、人間の言葉は通じないのですね。
「今夜は私がどう足掻いたとしても、我意を通すおつもりですね?」
「他にナニを通されたいと?」
「………夜の楼主様には、失望致しました」
「希望があるなら叶えてやる、と言うに。この程度で"失望した"とは、聞き捨てならんな?」
危ない。
これはもう導火線に火が点いている状態かもしれない。全身を焦がされるくらいなら、差し出してしまおう……髪くらい。
先ほど褥から掬い上げた髪の一房を自身の指に絡ませるようにして、片手でまだ弄んでいる楼主からふい、と視線を外す。
覚悟を決めたものの、その一言を言う前に掛布団をもっと上に引寄せたかった。
人一人分の重みが乗ったままでは、それも叶わなかったけれど。
「…髪、にします。」
これは、"喰うぞ"と艶魔である楼主に脅迫されたから。
決して、楼主に叶えてもらいたい自らの希望ではない……はず。




