2、雨夜の密か事
藍花が十の頃。過去の夢と現。
……ああ、イヤだ。
みんな寝てしまった頃に、どうして一人だけ目が覚めちゃうんだろう。
薄い布団の中でモゾモゾと何度か寝返りを打ってみたものの、やっぱり長くは我慢できなかった。
毎日通っているはずの、磨かれた廊下は案の定暗闇に沈んでいた。
表に面した華やかな花娘達の部屋とは対照的に、幼い花芽達の寝所は裏手にあり、ほとんど灯りが無い。
ぺたり、ぺたりと暗闇の中で聞く、自分の足音さえ不気味に思えてくる。
やっとの思いで厠へたどり着いたせいか、いつもより長居してしまったよう。
再び闇色の濃い廊下に出た頃には、シトシトと雨音まで聞こえ出していた。
ーーあれ?さっき通った時は、暗かったのに。
廊下に一筋漏れている橙の光は、普段使われることのない部屋から伸びていた。
確かここは薬師が時折訪れては、丸薬や塗り薬など、常備できる品を置いて行く薬棚がある部屋だったはず。
「ーーーあの子が、欲しい」
「"あの子"じゃ、わからんが…」
「胡蝶蘭の、腹の子だ」
「まだ女子か、わからん」
耳に届いたのは、わらべ唄のようなやり取りと、ポツリ、ポツリと呟く語調の低い声で交わされる会話。
「すでに嫁入りは決まっているが。父母のどちらに似ても、見目良く優秀な子だと分かるだろう?」
「取らぬ狸の皮算用…だが、お主が言うと賭けにも聞こえんのが不思議だな。」
「逃がす魚はでかい。この際、乳飲み子からでも養育するつもりだ。」
「なに、華姫にはまだはっきりと伝えておらぬし、赤子が早く産まれる事もあろうて。」
華苑の華姫様で、お嫁入りが決まっている千鶴姉さま。……お腹に、赤ちゃん!?
楼主さまと薬師さまが言うからには、きっと間違いない!
明日、千鶴姉さまにこっそり聞いてみようと心に決め、はやる気持ちそのままに、トタトタと寝所まで駆け出してしまった。
「……誰ぞ」
す、と引き戸が静かに滑る。背後から聞こえた冷めた声音に、自然と足が竦んだ。
こんな時に限って姉様方が"楼主様は怖い"とヒソヒソ話していた事まで、思い出してしまう。
ぎこちない動きにはなったものの、急いで振り向き、その場で正座をし、深く頭を垂れた。
"誰ぞ"と目上の人に問われたからには、きちんと答えなければいけない。
「ほ、螢です。楼主さま。」
「……こんな夜更けに廊を走るものではない。寝付いた者が覚めてしまう。」
「……はい」
さっきよりは怖さを感じないけれど、消え入りそうな震え声を出すのが精一杯だった。
楼主さまと言葉を交わすのは、私が華苑の者になった3年前ーーー"目利きの日"以来の事で、普段は見世で姿を見かけることも少ない、遠い存在なのだもの。
ふぅ、と頭上から聞こえた溜め息。
板目模様だけだった視界に差し出されたのは、楼主さまの掌と。
その上に見たことのない、白いもの。
「寝付く前に、これを。」
食べ物だろうか。それとも、薬?
廊に片膝をついたままの楼主さまから、受け取らないわけにもいかず。
恐る恐る顔を上げ、白いものを口に運んだ。
噛んでみればフワフワ、モニモニした食感の、甘い菓子だった。
「此れは、花芽の数には足りない品。
…聞こえていただろうが、華姫懐妊の兆しは皆まだ知らぬ事。
その上、胡蝶蘭は嫁入りを控えた大事な身だ。めでたい事は皆の前で、姉姫から直に聞きたいだろう?」
遠い存在である楼主さまから、自分は"貴重な菓子"をもらったらしい。
ついさっき耳にしたばかりの千鶴姉さまの話にも、思わずコクコクと頷いた。
「胡蝶蘭が自ら語るまでの短い期間なら、誰にも言わずにいられるな?……姉姫の娘は、年の離れた妹のようなものだ。」
"では、静かに寝所に戻りなさい"と告げられ、深く礼をしてから立ち上がった。
甘い菓子は、私の足元もフワフワにしたのかもしれない。
夜の廊下と楼主さまへの怖さも緊張も、いつの間にか感じなくなっていたから。
千鶴姉さまの赤ちゃんなら、すごくかわいいだろうな。ーーー私に、妹が出来る。
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「お主が、食べぬ菓子を持参してる訳がようやく知れたわ」
ひとり薬棚に囲まれた室内で、成り行きを傍観していた薬師だったが、楼主の手慣れた様子に呆れたように肩をすくめた。
「花芽の童に、言い含めただけだろうが?噂好きの花娘達には効かぬがな。」
「花娘を黙する術の方が、お主には容易いだろう?皆に秘密の菓子で交わした口約束も、童女には十分毒じゃが。」
「"花は大切に育て、愛でるもの"と教わったからな。……皆からは毒婦と呼ばれた母に。」
「親が親なら子も子だな。ここの庭には毒を盛られた花ばかりかのぅ?」
「子供騙しの手練手管が効かぬとあらば、華姫の器。それこそ、本望だ。」
「怖や怖や。遣り手の性は父親譲りか?」
楼主と薬師の密談は、夜更けまで続いた。
薬棚が壁一面に並ぶ部屋の戸は、今度は内側からピタリと閉じられている。
何事もなかったかのように、灯りを漏らす事もなく。
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シトシト、シトシト。
決まって雨夜にみる過去の夢。
すでに顔も忘れてしまった、村の子達の声で響く唄。
…勝ってうれしい♪ はないちもんめ
負け〜てくやしい♪ はないちもんめ
あの子がほしい♪ あの子じゃ分からん
その子がほしい♪ その子じゃ分からん
相談しましょ♪ そうしましょ…
陽のあるうちは季節を謳い、調べを奏で。夜毎、優美に舞う。
高く結われた髪には、玉が煌めく簪と色鮮やかな花飾り。
緋色や桃色の紅を引いた唇。
そんな年頃の花娘達の中で、特に秀でた者が"華姫"に選ばれる。
華姫の専属である"姫付き"に選ばれる事も、幼い花芽達にとっては憧れだ。
日夜訪れる男達にも、高嶺の花である胡蝶蘭は、さぞ眩しく映っていただろう。
私にとっては誰よりも身近な姉様で、花開くような笑顔が似合う、千鶴姉様。
月満ちて、珠のような双子の姉妹が産まれた日に、涙を見るとは思っていなかった私。
花娘達が口にしない"花街の掟"を知らなかったーーー幼い私。
雨夜に侘しげな藍花?
そうね。
あの2人の密か事に居合わせなければ、何も知らなかったでしょう。
楼主との口約束よりも、千鶴姉様と話していれば千亀様が、手を尽くしてくれていたかもしれない。
望美も美月も、羅甲屋のお嬢様として、幸せに暮らしていたかもしれない。
花街の、外でーーー。
すっかり忘れていた、文机に広げたままの文。
もうとっくに墨が乾いただろう。
整った煌びやかな部屋も、灯りが落ちれば闇に沈む。耳につく雨音は変わらないまま。
ここは楼主が整えた庭なのだ。
いくら芸事に秀で、華姫と呼ばれようと所詮は客を招く為だけに咲く華。
昼夜問わずに華苑を訪れるほとんどの客は、物好きな金持ちや、日常に飽いた道楽者ばかりで。
ーー千鶴姉様。
螢は、雨夜になると決まって過去の夢の中、華苑の闇を、彷徨っております。
ここでは楼主の甘言しか、聞こえませんーーー。
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此方の甘水
彼方の苦水。
闇夜に休める水辺を求め。
燐光纏て舞う、夏の虫。