17、蛍の燐光
藍花と楼主はチグハグです。|x・`)
カタリ、と引き戸が開く音を聞く。きっと次に来る時も陽が沈んでからであろうとは思っていた。今頃花娘達は皆忙しく、華苑に出入りする業者や常連客も、楼主を訪ねる事は無い時間帯だから。
自分の感情を宥めるように、努めて息を長く吐き終えると、振り向きざまに深く頭を下げた。
「お待ちしておりました、楼主様。」
「……その髪は、どうした」
「自分で、切りました。長い髪は"姫"の象徴。私にはもう必要有りませんから。この長さなら、髢に使ってもらえるかもしれません。」
顔を上げると同時に、軽くなった髪もサラリと一拍遅れて揺れ動く。膝裏に届く辺りまで伸ばしていた紫紺の髪を、肩にようやく届く程の長さに揃えたのだ。
切り落とした髪はというと、鋏を入れる前から既に一本にまとめており、散らばる事のない様、更に三箇所結わえてある。
長らく自分の一部であったのにも関わらず、見ていてあまり良い気はしない。今も、使わない盆に乗せて部屋の隅へと押しやっていた。
「本職の方に結ってもらう髪も、華やかな簪も、高価な金襴緞子も。私には過ぎた贅沢でした。
ただ、これからも箏に触れる勤めには携わりたいと思います。一番、自分らしくいれるのは箏を爪弾いている時ですので。」
自分でも驚くほど、胸の内の思いをそのまま伝える事が出来たように思う。それでも楼主が私の意向を承諾してくれるかまでは、分からないけれど。
ひた、と楼主の鋭い視線が、短くなった髪から此方へと移る。
「華姫に戻る気は無いと。その髪では尼や罪科人とさして変わらん。人前で箏を奏でる気は無いのか。」
「箏を披露するのは、やぶさかでは有りませんが…衆目を集めるつもりは毛頭有りません。この位であれば手入れが楽になりますし。」
髪の美しさは、そのまま女性らしさの象徴でもある。今後結い上げて飾り立てる事が無いのならこれでもいいかと、思い立ってみたのだ。
千鶴姉様と千亀様から頂いた螺鈿細工の櫛だけは、大切に使い続けるつもりだけれど。他の簪や櫛は磨きに出したり、花飾りも似合いそうな花娘達に配ろうと、すでに小分けにしてある。
華姫の為の部屋だということを念頭に片付けをしてみれば、普段から丁寧に扱っていて良かったと安堵した。思い入れのある物はごく僅かで、処分に困るような物もない。
ただ一つだけ、楼主に渡したい物があるくらいだ。
「常連の方々とはもう会う事は無いとは思いますが、贔屓にしてくださった皆様にはすでに文を認めました。
暫くは花街に身を置いて、箏の師範代の勤め先でも探そうかと……あの、楼主様?」
用意しておいた何通かの文を手元に寄せ、再び楼主に向き直ってみれば。頭痛でもするのだろうか?
額に手を当てながら若干俯いているようで、表情が見えない。いつからそんな姿勢だったのだろう?
つい下から覗き込むような角度まで、自分の首を傾げてしまう。
「お前は思考も、行動も。極端すぎる…」
苦々しい口調で語った後に、楼主は溜息というよりも、盛大に肺の中の空気を全て吐き尽くしたかのようだった。
立つ鳥跡を濁さず、を教訓に此方は着々と準備を進めていたのに、何か問題でもあっただろうかと思案する。
「見世への借金は…どのくらい残っているのでしょう?完済するまで、華苑に居た方がよろしいのでしょうか?」
「…もう良い。身の振り方を決めろとは言った覚えはあるが、お前は華苑からも離れるつもりだということか?」
「いえ、花娘達や双子に箏を教えるのは楽しいので、出来れば…」
「ならば、お前の身柄は俺が与る」
華苑から離れたいと思った上での行動ではない、と伝えたかったのだが。
自ら華姫を続けるか、身請けか裏方にと持ちかけた筈の楼主と、話が噛み合っていない気がした。
ーー"身柄を与る"とは借金が無くなるまで、今迄通り楼主の指示に大人しく従えという事だろうか?
漸く顔を上げたと思えば、呆れたような表情をしていた。この人が表情にまで感情を露わにするのは、とても珍しい。
「部屋は別に与える。そこから稽古場に通い、勤めである箏に専念するがいい。華苑の客の前では披露しなくとも、花娘達に教える分にはお前の好きにしろ。
明日、皆に報せる。"華姫:藍花"は散り、箏の師範として"螢"が華苑の裏方に身を置くと。」
「…有難う、ございます。
すでに荷はまとめているのですが、その中でも華姫の花紋の品だけは、楼主様にお返しします。
見世への借金を肩代わりして頂かなくとも、そう決めておりました。遅咲きの華姫だった上に、三年しか勤められませんでしたから。」
「…余程、此方の神経を逆撫でしたいようだな」
一応、片開き小箪笥の中に入れていたものは全て取り出し、柔らかい布で隅まで拭いてある。磨きながら、花紋の品ほどの値打ちは自分に無かっただろうと、贈り主に返そうと思ったのだ。
先程の話を受け、借金を完済するまでの質草になりそうな物はこれしか無い、とも。
「己に都合の良い言葉しか拾わないのは、この耳か?」
急に手首を引かれ、目の前に座す楼主の方へと上体が倒れこんだ。束ねていなかった髪ごと右耳まで掴まれ、ザリ、と髪の擦れる耳障りな音が嫌に大きく聞こえた。
左手首は楼主に握られたままで、咄嗟に開いた掌は畳の感触がする。それでも自分の体を支えてはいない。今の自分は、楼主の肩口に顔を埋めるような状態になっているのだから。
「!!な、何を…!!」
「この距離ならば、聞き洩らす事もないだろう?」
此方が身動きできないのを良いことに、嫌にゆっくりとした手付きで耳に髪を掛けられる。
髪結い師に髪を梳いてもらっても何も感じた事はなかったのに、ゾワリとした悪寒のようなものが一瞬で背を駆け抜けた。楼主は何を、耳元で告げようとしているのか。
ーー私は、何か聞き逃したの??
身を起こそうと唯一自由になる右手で楼主の胸元を押してみても、自分が倒れ込んでいる状態では焼け石に水だった。ビクともしない上に、側から見れば自分から楼主の胸元にしがみついている様ではないか。
「お前の身柄を与る、とは。完済するまで"借金を肩代わりする"という意味ではなく。"お前自身を、貰い受ける"という意味だ。」
それまでなんとかこの体勢を変えようと身をよじっていたのをピタリと止める。吐息すら聞き洩らさないほどの、わざとらしい距離で耳に届いたのは低い囁き声。
「今度はしっかりと理解出来たようだな?お前の耳は、言葉が届くと赤く染まるらしい。」
耳だけでは無い。きっと、今鏡を見れば顔も赤いに違いない。それよりも心臓の鼓動が煩い。
この体勢で聞く、あの色気を含んだ低い声。平常心で居られる方がおかしい。
ーー聞こえていませんように、私の鼓動が楼主に届いていませんように…
何かに対して願をかけながら、楼主の気が済むまでは離してもらえないのかと半ば諦め、せめて表情は見られないようにと俯いた。
「急にしおらしくなったな。
花紋の品は華姫の価値を示す期待の品ではない。"姫"と呼ばれるに相応しい者への証のようなものだ。例え裏方に徹しようとも、今後は髪を伸ばせ。
……そのように何時迄も顔を埋める仕草は、男を誘っているようなものなのだが?」
今も左手首を放さず、右の耳朶を指で弄んで私の反応を愉しんでいるくせに。
これ以上、楼主の口車に乗せられてたまるものかと、冷静さを装って話題を変える。
「…悪巫山戯が過ぎるのは何方でしょう?
どうして華姫を辞める事で身請け話に転じるのか、分かりません。もう、いい加減離して下さい。」
「お前の言い分は聞かない。蛍の燐光はふらふらと夜を彷徨うばかりか、放っておけば自ら草葉の陰に隠れようとするからな。囲うことにしたのだ。」
ぐ、っと言葉に詰まる。
先程言葉を聞き流して勘違いをしたものの、"楼主の管理下で過ごす"という意味では、囲うのも身請けも大した違いはない。
ただ、金銭面でも自己管理の面でも楼主に強く出れなくとも、一つだけ宣言しておきたい事は私にもある。
「…私は、楼主様に身請けをして頂いたとしても特別な好意や恩は感じませんが。」
「…ほう?お前の幸せを全て叶えてやれるというのに?月下美人だと見初められたばかりの花娘達に、好意とは何か聞いてみるのだな。」
何が可笑しいのか、楼主が低く笑う。変わらず密着しているせいで、私にまで声や振動が響いてきた。
大した自信があるようだけれど、私は楼主の瞳を見ても和まないし、身の置き場に悩んでいた所を、箏の奏手として確保されただけのようなものだ。心動かされるワケがないというのに。
ーーそれにしても、いつまでこのままでいる気なのだろうか?
思いを堪えるまでもなく口からはふう、と悩ましげな溜息がこぼれた。
この楼主には、何を言っても暖簾に腕押しのようだし。
この体勢で耳を弄るのに飽きたにしても、仔猫をあやす様に頭を撫でるのは止めてほしい。
こんな風に誰かに優しく触れられた事など、私にはほとんど覚えが無いのだから。
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髢→髪を結う時に地毛の足りない部分を補う添え髪、義髪。
罪科人→仕置き、罰を受けた人。
やぶさかではない→喜んでする。
衆目を集める→大勢の人に注目、関心をもたれること。
立つ鳥跡を濁さず→立ち去る者は、後が見苦しくないようにすべき、引き際は美しく在るべき、の古事諺。
質草→抵当として質におく品物。
愉しむ→何かをたのしむ心情。
草葉の陰に隠れる→あの世へ逝く。(藍花の場合は、蛍の習性に例えて、床に伏す状態を指す)
暖簾に腕押し→少しも手ごたえや張り合いがない事の例え。




