15、毒をもって毒を制す
楼主の価値観、偏ってます。(´ω`;)
「!?…ゃッ!」
「痛むか。……堪えろ」
飲み込み切れなかった声が、わずかに漏れてしまった。
楼主はそれを聞いても、相変わらず感情の読めない、静かな口調のまま。
私が堪えたのは"やめて"ではなくて、"ひゃッ"と言いかけた悲鳴なのだけれど。
それでもこれ以上変な声を出してしまわないよう、ぎゅっと握った拳を引きむすんだ唇に当てる。
どうにかして、落ちつかなければ。
そうは思っていても、心臓は早鐘を打つかのように鼓動を早め、どうしても意識が持っていかれてしまうけれど。
薬の事を聞かれた時に"其れを頂きました"などと、枕元に置いている事を教えるのでははなかった、と今更悔やんでももう遅い。
確かに助手の方から頂いた軟膏は未だ塗布しておらず、痒みか痛みを覚えたら使おうか、明日身を清めてから使おうか、と考えていた。
一度も使われた形跡がなかったからかもしれない。
まだ自分では試していなかっただけで、朝は患部に指が微かに届いたのだし。どうして他人に介抱してもらう必要があるのだろう?しかも、楼主に。
背の中心に近い、ごく狭い範囲の感覚。これは、人差し指かもしれない。するすると伸びる少しヒンヤリとした軟膏を肌に擦り込むように。
楼主の指が、触れている。
私の、背にーー。
今は、先程までの緊張よりも恐怖よりも羞恥。発疹の範囲は親指程なのだからすぐに済む、早く終わって、と。
冷や汗でもかいてしまっているのでは、とジリジリとした焦りもひたすら我慢する。
くすぐったいような、ヒリヒリするような背から、ようやく指の感触が離れた時には、肩で息をしていた。
いつの間にか、呼吸まで控えていたのかもしれない。流石にもう直してもいいだろうと、肩まで露わになっていた寝衣の襟を調整する。
「これは、他人が触れると、移るかも、しれません。薬は、自分で使えますので…」
自分で直した襟をぎゅっと掴んだまま、絞り出したような途切れ途切れの声になってしまった。
医師の言っていた"疲労"に精神的なものも含まれているのだとしたら、これはもう色々限界だ。
この状況に緊張で震え、羞恥を堪えて息を乱し。表情を悟られない様、終始俯いている私を、早く一人にして欲しい。
それなのに背後の人物からは、動く気配が感じられなかった。
シン、と静まり返った寝所でこんなにも近くにいるのだから、聞こえていない筈はないのに。沈黙に耐え兼ね、このまま布団を引き寄せて寝てしまおうかと考えが過ぎる。
「……私には移らない。幼少期に水痘には罹っている。この発疹を放っておけば、跡になる。お前は一度気づかなんだか此れも、自身の痛みも放っておいたのは何時の頃だ。」
「…痛みがあったのは先月の中頃でしょうか…ちょうど一月前、です。」
「大方、夜が忙しいからと勤めを優先したのだろうが、身を削ってまで華姫でいる必要は無い。」
ようやく口を開いたと思えば、相変わらず容赦のない発言で。
これは華姫に相応しくない、と言われているのだろうか。勤めよりも自分の身を案じろ、と気遣われているのだろうか。
背を向けた今なら、例え背後に居るのが楼主であっても、自らの思いくらい言える。
「私は、自分の虚弱な体を労わりながら生きる術など知りません。
両親の他界後、見目は良くても働き手にならないと血縁にすら疎まれて、人買いに売られました。この身が名のように儚いとしても、私は……自分に出来ることを、するまでです。」
「夏の夜に自身の光で誘ったにしては、毎晩寄ってくる者が多かったようだな。名は体を表すと言うが、月下美人も一夜限りの花。このまま枯れ落ちたいか?」
教え諭すというよりも、ここ最近の華姫としての在りようを咎められているように感じた。
枯れ落ちる、のだろうか。私は。
一度は治りかけたらしいこの発疹も、このままでは徐々に広がっていくのだろうか。なるべく自身の事に関しては考えても仕方が無いと、思い詰めないように気をつけていたのに。
ジワリ、と目元に熱を感じた。鼻の奥がツンとするような気がして、自然と眉根を寄せてしまう。
「出来ること、と言ったな。ならば早々に此れを治せ。勤めの事は、華姫の装いをしている間にでも考えればいい。」
自分の感情が不安定になっているからだろうか。
それまで淡々と聞こえていた楼主の声音に、微かに苛立ちのようなものが混じっているのを感じた。
口を開けば目頭に集まった雫が、頬を伝い落ちてしまう気がして黙して居たのだが、それが気に障ったのかもしれない。それなら其方こそ早く退室してくれれば良いのに。
「…双子を従えて憧れの胡蝶蘭のような振る舞いは、お前には荷が重かったようだからな。」
その言葉に、ほとんど反射的に振り向いてしまった。今まで堪えていた雫も流れてしまったけれど眉根は寄せたまま、なけなしの感情をキッと瞳に込める。
視線を合わせた楼主の瞳も、抜き身の刃を思わせる険しさを宿していた。
そのまま夜の闇に溶けてしまいそうに見える漆黒の髪。整ってはいるが、冷たさしか感じさせない美貌。常には感情の読めない瞳に、わずかな部屋の明かりが反射して炎のように揺らめいていた。
普段は花娘だけでなく下男下女に至るまで、極力華苑の者と関わろうとはしないくせに。
ーー"胡蝶蘭のような振る舞い"などと、何が言いたいのだ楼主は。
「私は、そのようなつもりで望美と美月に接した事も、勤めをこなした事も、ありません……!!」
「では、何をそんなに恐れて嘆く?ああ、"憧れ"では足りんな。今も"成りたい"のだろう?胡蝶蘭のように。」
ーー何故、そんな事を今。言われなければいけないの?
一番声にしたい本音を堪えれば堪える程、視界が歪む。瞬きのたびにポロリ、ポロリと涙が寝具に落ちて行く。
「……私が恐れているとすれば産まれる前から双子の人生を操ろうとした楼主様、貴方です。嘆いているのは、貴方の言う事を真に受けて、何もしなかった幼い頃の自分だけ…!」
「……話にならんな。花街の掟は皆、周知の事実。
そのように過去を蒸し返すならば、蕾の双子も嫁いだ胡蝶蘭も今現在幸せではない、と言うのと同義だ。そして、それを嘆くお前自身の事もな。」
ーー今現在、幸せではない?
昂ぶった感情のままに、つい昔の事まで口走ってしまったけれど。
千鶴姉様と千亀様の変わらぬ仲睦まじい様子は、文で知っている。花街の外を知らぬとはいえ、望美と美月の無邪気な笑顔も。
私自身の幸せ?……考えた事も、なかった。日々、勤めをこなす事が精一杯で。思いもしなかった楼主の発言に返す言葉を無くし、それまで必死に抑えていたはずの思考や感情まで急に静まってしまった。
「……お前に、猶予をやろう。
このまま華姫を続けるか、呉服屋の倅にでも身請けをしてもらうか。奏手の師範として裏方に身を置くか。箏に触るのは許すが、治るまでに決めておけ。」
華姫の勤めは胡蝶蘭の真似事だと言われ、千鶴姉様達や双子の今を"私が"否定していると言われ。
その上、これから先の身の振り方を決めろと?
急に、足元が崩れ落ちていくような感覚を覚えた。きっと、今の自分は酷い顔をしているだろう。
そもそも楼主に口答えした事も無ければ、人前で泣いた事も無かった。いっそ、今からでも療養部屋へでも逃げ出してしまおうか。
楼主の切り込んでくるような発言と鋭い視線に耐えきれず、いつの間にか視線は畳の上にまで下がっていて。
落ちるままにしていた涙を、親指で払うように拭われても何をされたのか一瞬、わからなかった。
「泣き止む術も知らぬようだな。…少しは自分を省みるがいい。」
それきり楼主は口をつぐむと、洋燈を手に静かに寝所から出て行った。
やっと一人になれたというのに、まだ気持ちは荒んだままだった。
泣くという行為も自分の思いを吐露する事も、こんなにも気力が必要なものだったのかと思い知る。
仰向けに褥に倒れこんだものの、その拍子に背中に痛みが走った。そのせいで楼主の言動の方が、私自身を慮っていたのではないかとすら、考えてしまう。
どうせなら頬に触れてまで涙を払うのではなく、泣き止み方を告げていって欲しかった。
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容赦のない→遠慮や情の手加減がない様。
咎める→悪い事、望ましくない事を責める。
周知→広く知れ渡っていること。
同義→同じ意味。
猶予→実行(藍花の決断)の延期。
省みる→自分のした事をもう一度考えてみること。
吐露する→隠していた気持ちを言葉にすること。
慮る→周囲の状況などをよくよく考える。




