1、花一匁(はないちもんめ)
舞台は花街ですが、花魁というより歌、舞、演奏が売りの見世の話。(芸妓さん風の仕事)
シトシトと降る雨で烟る、花街特有の朱の灯火。
初めて目にした七つの頃は、等間隔に並んだ灯篭の光に照らされた、常盤色の瓦屋根や朱格子の色鮮やかな街並に見入ったものだった。
窓辺に寄りかかるようにして、あの頃から変わらぬ雨夜の景色をぼんやりと眺める。
歳を重ねた分、夜はさして苦手ではなくなったけれど、雨夜となると今でも気が滅入ってしまう。
気づけばつと、記憶から零れるように唄の節を口ずさんでいた。
「勝って 嬉しい 花いちもんめ……負けて くやしい 花いちもんめ……」
「藍花姉様?わらべ歌、ですか??」
使い終わった茶器を整えてくれていた手を止め、不思議そうにこちらを向く美月。
齢十二を数えたばかりのこの子に、言うべきか否かーー
花街で育った娘に憂いはつきものだが、ここでわらべ唄を口ずさんでしまうのは、きっと自分だけ。
少しだけ目を伏せ、言葉を選んだ。
「そう。これは………凶作の度に現れる人買いと親のやりとりを真似た、村での童の遊び唄。実際、幼い子が1束の花ほどの安値で取引されていたそうよ。
もともと貧しい村で育ったけれど、私は七つの時に華苑の者になったの。」
「…今の藍花姉様は華姫様ですから。この見世を埋め尽くす数のお花でもきっと、足りませんね?」
「ふふっ。この見世の部屋中、廊や外観全て色鮮やかな花で埋め尽くしてもらえるなら、私も一度でいいから見てみたい。」
蒼玉の瞳を細めてニコニコと微笑む美月に、懐かしい姉姫の面影が重なった。
本当は一面野に咲く素朴なたんぽぽや、満開の桜の下で見上げる花吹雪を、この子達に見せてあげたく思う。
無邪気に話す美月に心を和ませながら、ふと思い出し、小箪笥に入れたままにしていた小瓶を取り出した。
昨夜招かれた宴席で"箏の上手い華姫に"と贈ってもらった品で、この辺りでは珍しい星の形をした金平糖が、ぽっちゃりと丸みを帯びた可愛らしい小瓶に詰められている。
「……ありがとう、美月。こんな昔話を楽しい語らいにしてくれて。"花"ではないけれど、昨日"星"を頂いたのを思い出したの。望美と二人で分けてね。」
「ありがとうございます。キレイなお菓子…」
掌に収まる大きさの小瓶を、部屋の灯りに翳すようにして眺める様は、見ているこちらが嬉しくなる。
一粒一粒可愛らしい星型で、淡い黄色や桃色、水色の甘いカケラはきっと双子の姉妹の楽しみになるはず。
「……さぁ、明日の稽古に響くと悪いから、もう休みなさい。」
「はい。では、失礼致します」
背筋をピンと改め一礼すると、大事そうに小瓶を両手で持ち直し、美月は部屋を辞した。
大人びた所作は周りの教育の賜物なのだとはわかっているけれど、陰ながら成長を見守ってきた自分としては、少しだけ寂しさも感じてしまう。
「……今夜は千鶴姉様に、文を書いてみようかしら」
私用の文を書くのは初めてだけれど、今は半紙も墨も好きなだけ使える身。
例え返事が届かなくても、花街一と謳われた華姫:胡蝶蘭であった千鶴姉様に、近頃ますます似てきた娘達の成長ぶりをふと、知らせたくなった。
すでに花芽達が寝静まる時分。
花娘達や華姫は、来訪者に煌びやかな時を過ごしてもらう為、泡沫の夢のような調べを奏で、甘やかな恋を魅せるのが勤め。
ただ、この雨では普段よりも客足が遠のくだろう。
今夜は宴のもてなしに呼ばれる事もないかもしれない、と。
久方ぶりに漆黒の文机に向かい、サラサラと筆を滑らせるようにして文を認める。
望美と美月の見目や気性、二人の特技や好きな食べ物に至るまで。まだ十五に満たない"蕾"の双子姉妹は、心根が真っ直ぐであると。
思っていたよりも随分長くなってしまった文を何度か読み返す。墨が乾くまで、もう少しだけ時間がかかりそうだった。
「…まるで自己満足な懺悔の文、みたいね。」
最後に記したのは華姫の源氏名である"藍花"ではなく、両親が名付けた螢。
十二年も前に別れたきりだけれど、千鶴姉様ならきっと名前を覚えていてくれる、と思った。
確信のようなものがあったにせよ、過去の華苑での日々を懐かしく想うのは、自分だけかもしれなかった。
いつも優しく、笑顔だった千鶴姉様が見せたあの日の花嫁の涙は、千亀様が止めてくださったのだろうか。
千鶴姉様には、幸せな日々を過ごしていてほしい、と想いを馳せる。
「…懺悔の文など綴らなくとも、引く手数多の華姫は、毅然としていて良いのでは?」
からかいを含んだような声音と共に、カラリ、と廊と居間を隔てる引き戸が開いた。
断りもなく入ってきたのは、代々華苑に勤める娘達や客が贔屓にしている呉服屋の若旦那。
ーー前もって報せの一つも無く、華苑の中でも最奥に位置する華姫の部屋まで、一体誰が通したのかしら?
「悪いひと。今のは独り言よ?」
振り向きざまに簪の飾りまでもが小さく揺れた様で、シャラリと耳元で涼やかな音を奏でた。
灯していた行灯で見えるよう、若旦那には少しだけ眉根を寄せ、微苦笑の表情を装う。
「急な訪問で申し訳ない。…して、その文は誰に?」
「外に嫁いだ、姉姫様へ。」
「"藍花は雨夜になると侘びしげだ"と。先刻まで会っていた楼主が気にかけていたから、品納めのその足で寄ってみたのだが…」
"既に嫁いだ華姫には、敵わないな"と、先程よりは親しみを感じさせる相槌を打ちながら、若旦那は引戸に近い、離れた場所に腰を据えた。
突然の夜の訪問にしては、保たれている距離感と、何気なく交わすたわいもない世間話。
それまで気さくに話す様な間柄ではなかったものの、全くの初対面でも無い。たまに見世ですれ違えば、互いに笑顔で会釈をするくらいだ。珍しい事に、あの楼主から"侘しげだ"と聞いて、話し相手を買って出てくれているのかもしれなかった。
腰を下ろした畳の上でも、きちんと正座をしているところが育ちの良さを感じさせる。"それではあんまりだから"と幾分声を和らげながら座布団を勧め、華姫の奥座敷に常備してある朱塗りの膳を寄せた。
ーーーそれにしても。
この時分に案内役の蕾の1人も付けず、身元は確かと言えど、客でもない若い男を部屋に寄越すとは。
楼主の思惑は推測するしかないけれど、呉服屋の若旦那と華姫である自分が懇意になる為だとしたら、科を作って寄りかかれば良いのだろうか。
それとも鬱々と気が滅入らないよう、話し相手を勤めてくれるというのなら、酌をしつつ語り明かしてみようか。
例え気さくな若旦那が底意で"華姫の想い人"の箔が欲しいだけだったとしても、この状況は楼主の根回し。
華姫の心の拠り所である"唯一の人"は未だ、私には居ない。
今まで、客からの酒席の仄めかしは、のらりくらりと躱してきた事もあり、個人的に部屋まで訪ねて来られたのはこれが初めての事だった。
幸いな事に、目の前に居る話相手は特に悪い噂も聞かない呉服屋の若旦那だし、街で流行りの色打掛や金襴緞子の話が聞けそうだ、と気を取り直す。
口元には微笑みを浮かべ、盃には薫り高い美酒を注ぐ。ここは華姫:藍花が咲く、夜の奥座敷なのだから。
ーー呉服屋の次期店主としての器、若旦那の"引出し"を、是非とも披露してもらいましょう。
花芽:7〜10歳
(主に手習や歌、礼儀作法の稽古期間。)
蕾:11〜14歳。
(楽器や舞の稽古、詩歌や盤上遊戯を習う)
花娘:15〜24歳まで。
(成人扱い。歌、舞、箏や三味線等、将棋など客のもてなし役。)
華姫:同時期に3人まで。楼主が選ぶ。