僕の過去
いつ死んでもかまわない。
いつからだろう、こんなふうに生きるようになったのは。
はっきりと分かるのは、母が全てを置いてこの家から逃げた、その頃から僕はこの世への執着心は全くなかった。
母は極度の寂しがり屋だった。病的な程に。
転勤族の父は、仕事一途であちこち全国を飛び回り、毎年この家に帰ってくるのは正月ぐらいだった。家庭をかえりみなかった。
それでも僕は、父を憎んだ事はなかった。
母との二人の暮らしになんら不自由はなかったし、母も気を使って多くの時間を僕に割いてくれていた。優しい母だった。
幼い僕は、唯一父と会える正月が楽しみだったのだ。お年玉がもらえるところ、たくさんの話をしてくれるところ、たくさんのものを見てきた目を、糸のように細くして、大きな手で頭を撫でて、
「大きくなったな。偉いぞ。」
言ってくれるところ。僕は正月、父にべったりだった。
今考えると、それも原因の一つだったように思う。
年に一度の父との時間を、僕が奪っていた。母は父を愛していたんだと思う。いや、愛しすぎていたと言うべきか。
五年生の時から、父は正月にも帰ってこなくなった。
僕と母はひどく落ち込み、年越し蕎麦を食べる時、何一つ、話さなかった。
その後から、母は壊れていった。ぼーっとしていることが多くなり、仕事も休みがちだった。化粧もしなくなった。
夜ご飯のときに、ミニトマトを落とした僕に、母は拾って食べるなんて行儀が悪い、誰に育てられたと思ってんの、あの人に気に入られているからって調子のんな、所詮あんたも捨てられたんだなどの暴言を吐いた。
そして決まって寝るときになると、
「ごめんね。琉。お母さん、寂しいの。」
と涙汲みながら頭をなでてくれるのであった。
そんな状態が三年ほど続いた。
そして、中学二年生の7月、そう、アイスが3秒で溶けてしまうほどの暑い日。終業式だった。
玄関の扉を開けると、知らない男の革靴と、母の甘ったるい声が聞こえた。
「……だめだってばぁ…。あ…ぁ」
床に寝ている母の上に見知らぬ若い男がのっていた。一瞬しか見ていないはずなのに、実に鮮明に覚えている。
脱ぎ捨てられた服、下着、男の赤くなっている頬、その顔から落ちた汗の先には、同じく赤い顔のは母。母を見ると目は僕の方を向いていた。しかし母はそれをやめることなく、見せつけるように、こっちをじっと見ていた。
僕はひどく恐ろしく、目が離せなかった。頭ではわかっている、ここにいてはいけない。しかし、まるで石になったように動かなかった。
にゃー と外で猫が鳴いた。
反射的に振り返った。動いた…!
僕は全力で走った。何もかもを振り切るように。忘れたかった。しかし、そんな思いとは裏腹に、頭では何度も何度もあの光景がちらつく。母の目線が拭えない。見られているようで思わず振り返る。するとそこに、猫がいた。
「お前のおかげだよ。」
思いっきり抱きしめた。僕は汗だくで、猫の毛が体にまとわりつくようで、気持ち悪かった。猫も同じように、不快そうにどこかへ行った。
その時、ふと思い出した。
母はいつからか、化粧をするようになっていた。
怒鳴ることも、少なくなっていた。甘ったるい匂いがするようになっていた。
気づけたはずだった。いや、どこがで気づくことを拒否していたのだ。傷つくことを恐れ、目を背けてきた。
とめどなく歩いた。何時間、歩きつづけたのだろう。すっかり日は落ち、空には星が散りばめられていた。
今日ぐらい、全てが流星になってもいいじゃないかと思った。
自分の疲労にやっと気がついた時、僕は川辺にいた。
そこで、出会ったんだ。死にそうなぐらい、儚い、君に。