最終羽 JACK + -3/4-
早瀬小雪は、ベッドの上で、壁にもたれて、コーヒーカップを手にぼんやりしていた。
パジャマのままで、ずっと。
しばらく入院していて、元気になってこの家に来た。
(元気になったのよね。……私……)
(どうして、まだこんなに悲しいの。隼人さんがいるのに……)
(おじさんもおばさんも優しくて、隼人さんは珈琲を煎れてくれる。温かい……)
小雪は冷めかけの珈琲に口を付けた。
(美味しい……)
後から後から涙がこぼれ、カップの中に溶けた。
■ ■ ■
――扉を叩く音がする。
俯いていた速水は、顔を上げた。
……音がしない。
なんだまた幻聴か。
すると再び扉が叩かれた。
ダンダン!と五月蠅い。
部屋の真ん中で俯いていた速水は顔を上げた。
気力が沸かない。何もしたくない。
しかし扉は叩かれる。
ガチャガチャとドアノブが揺れた。
「……」
速水朔はゆっくりと立ち上がった。
扉を開けるのも久しぶりだ。レオンは勝手に入ってくるから、彼では無い。
全てがどうでも良かった。
「……」
無言で鍵を開けた。
「朔!!」
途端に扉が引かれ、そこにいた人物がぶつかってきた。
実際には肩を叩かれただけだったが、速水はそう感じた。
速水は眼を見開いた。
「……は、やと?」
日本語の発音を探した。
「朔、良かった!……生きてた……。大丈夫か!」
隼人はホッとした様子だった。
「なんで、ここに……」
速水は隼人を見て言った。
違和感を感じたのは、速水の目線が少し上がったせいだ。
確かに隼人だ。まさか、わざわざ……来てくれたのか。
「入ってもいいかな?」
速水は無言で隼人を部屋に入れた。
そして途中で動くのがめんどくさくなり、床に座った。
部屋は酷いありさまだった。
「朔、……何かあったのかい。連絡が取れなくて、皆が心配していたよ」
隼人が引き裂かれた枕とシーツを見て、部屋全体に目茶苦茶に散らばった、どれもボロボロの、可愛そうなテディベアを見た。
「……」
速水は答えられなかった。ただぬいぐるみの一つを抱きしめていた。
……ここは速水の部屋では無いが、この部屋が何処か、速水自身もよく分かっていない。
おそらくアメリカ、レオンが借りた?
死にたいと言ったら止められた気がする。そしてここに押し込まれて、監視付きの生活だ。
その間に速水の黒髪は肩につくくらいに伸びていた。……そういえば。
「隼人、今、何月何日だ…?」
速水は床に座ったまま呟いた。
「九月十五日だよ」
隼人は部屋を見回した。
そこはさほど広くない部屋だった。入り口を開けてすぐにリビング。
入り口の脇に下駄箱がある。
リビングの真ん中にはブルーのラグが敷かれ、ローテーブルが置かれている。
隼人は下駄箱に靴を入れ、そこにあったスリッパに履き替えた。
速水がよく見ると、壁には何かをぶつけたような跡があって、何カ所か穴が開いていた。
テーブルの天板が酷くぼろぼろになっていた。誰がやったのだろう?
「……くがつ…?」
速水は呟く。
ここへ来たのは多分、六月だ。そんなに経っていたのか……。
「ん?」
隼人がテディベアの隙間に目をやった。そこにはカラスが居た。
「……朔、これは?」
「……からす。拾った」
速水は小さな声でつぶやいた。
それはベッドの上の大きなテディベアの隣に丸まっていて、さっき少し身じろぎしたきり、丸い目で隼人を見あげ、動こうとしない。
――確か、どこかの街で拾ったと思う。思い出せない。
――確か、墓に行ったと思う。穴を掘った記憶がある。
――ついてくるなって言ったけど、拾ったからついてきた。
……ついて来いって言ったかも。だから拾った。
速水の舌足らずな言葉を、隼人は嬉しそうに聞いた。
「へえ。めずらしいね!可愛いな。……怪我でもしてるのかい?触ってもいいかな」
鳥好きの隼人は目を細めた。そして心配そうに言った。
テディベアを持ち上げて、怪我が無さそうだと分かると、隼人は触らず、どけた熊を元に戻した。
「……お前、何しに来たんだ」
速水は呟いた。
「ああ、ごめん。ダンスをやめるって、本当か?」
隼人は速水の隣に膝を付いた。
「……多分」
速水は呟いたきり、また黙り込んだ。
机の上には、薬の瓶がたくさんある。
机の下には、瓶の入った箱が沢山あった。
「朔、事情はレオンさんから聞いた。大変だったろう。もう、そろそろ、外に出ないかい?具合は良い?」
「……出たくない」
速水は言った。
「出たくない…。だって……、外は……また、俺に踊れって言うんだろ?ふざけんなよ……」
速水は頭を押さえた。
震えが止まらない。
隼人はそんな速水を見ていたが、しばらくして速水の手を取った。
「ちょっと良い?」
速水の手首を見て、ほっとしたように息を吐いた。
「……ジャック、外に出よう。この街には君のポスターはもう無い。僕が歩いて確認した。その途中で、雰囲気の良いカフェを見つけたんだ。ここのすぐ近くだけど、君は入った事あるかい?髪も伸びたし、帽子をかぶれば分からないよ。このカラスはどうする?……あ、寝てるね」
そのカラスは目を閉じていた。
■ ■ ■
隼人に支度をさせられて、速水は部屋の外へ出た。
「……レオン」
部屋の外にはレオンがいた。少し驚いた。
「出かけるのか?」
レオンはそう言った。
「……うん。レオン、部屋の掃除してくれないか。カラスが寝てるから、起こさないように。あと……薬、全部片付けてくれ」
「全部って、全部か?」
レオンが驚いた様子で聞いた。
「あると使うから。頼む。隼人、行こう」
速水は歩き出した。隼人がいる。それだけでかなり心強い。
速水は隼人に微笑んだ。
街は、部屋の中より静かだった。
速水はそれを不思議に思った。
それ以上に不思議なのは、アメリカに隼人がいる事だ。
「ジャック。今日は天気がいいから、オープンテラスにしよう」
速水はそれはいやだった。
「大丈夫。彼も中々、無茶するよね。ほら、スズメが鳴いて――、ん?ああ、ジャック、ほら、あそこでカラスが呼んでる」
かー、と鳴き声がした。
野生のカラスが一羽、テーブルの下、舗装された地面の上にいた。
「カラスって可愛いよね。何が良い?」
そうして速水はいつの間にか、カフェで隼人と珈琲を飲んでいた。
「ほら、クロジが鳴いてる」
「ほら、ハクセキレイも」
「ほら、カワセミが」
呆れるくらい、隼人は隼人だった。
髪、染めたのか。変わった事と言えばそれくらいか。
速水はずいぶん変わったというのに……。
速水は途方に暮れて、溜息をついた。
熱い珈琲のカップを手に取る。
「……お前、いい加減、日本野鳥の会に入れよ」
おきまりのセリフを言う。
「あ、この前入ったよ」
「げっ」
速水は舌をヤケドした。
「……っはは、最悪だな」
速水は、本当に久しぶりに笑った。
「君が頑張ってるって聞いて、やっとね。だから、今はもう帰国してマスターの店にいるんだ」
「そうなのか」
マスターは元気だろうか。
そう言えば、圭二郎とエリーはどうしているだろう。
「ジャック」
隼人は速水をそう呼んだ。
「なんだよ、お前、ジャックジャックって」
速水は眉を潜めた。
「君がやっと二代目ジャックになったってシロサギが言ってたから。僕もそう呼ぼうと思って」
「……はぁ」
勝手にしろ、と言う気分だ。
ジャック、……確かにそれは速水の名前だ。
「レオンに聞いたって、どこまで……?」
速水は言っていた。
エリックは多分レオンとノアに全てを話しただろう。
隼人は速水が誘拐され、地下でダンスし、地上に戻ってからはネットワークと戦っていることを知っている。
これは速水が言ったのでは無く、圭二郎が説明していた。
「ウィルがジョーカーだったって事は聞いた。信じられないけど、……酷いね、君を誘拐して、地下で踊らせていたって聞いた」
隼人が珈琲を置いた。かちゃ、とカップが音を立てる。
隼人が当たり障りの無い事を言ってくれて、速水はほっとした。
「……馬鹿みたいだろ。ジャックの仇って知らなくて、ずっと言う通りに踊ってた。まるでピエロだ」
速水は日本での日々を思い出す。ウィルがいて、皆が居て。珈琲があって、日本のスズメは可愛くて。ちょうど、さえずりが聞こえて、珈琲の匂いを嗅いだら、急に懐かしくなった。
カップの中身が揺れる。
速水は隼人にジャックの死の真相を話す事にした。
「隼人、ジャックを殺した犯人はルークだった。俺は、何でこうなったんだって、ずっと考えてた。あいつは何であんな事したんだって。ジャックとあいつは本当に仲が良かったのに。なんでこうなったんだって」
速水は何回も、何回も自問した事を思い出す。
「……隼人、ジャックが殺された理由、レオンに聞いたか?」
速水はカップをトンと下ろして、目元を押さえた。
「え……?いや。僕はレオンさんから、多分、あのルークがジャックを殺した、って言うのを聞いたけど、動機については何も」
隼人は少し戸惑った様子だった。
「……隼人、…全部俺のせいなんだよ。…なあ、おかしいだろ」
視界がぼやける。
「ジャック?」
「何で、あんな、理由で……」
速水は病院を抜け出して、ジョーカーに会いに行って、そこでジョーカーから犯人を聞き出した。
ルークがやったと聞いても、理由が全く分からなかった。動機に心当たりは無いかと、問い詰めた。
一度追い出された後、また叫んで問い詰めた。
なんで、ルークがジャックを殺す?
だって、何で?
ジョーカーは答えた。
「その理由が……!!理由が……ジャックが、プロモの撮影に来なかったからだって。その日、俺が風邪を引いたから…っ」
「――なっ!!?え?」
隼人が立ち上がった。
確かにジョンは一度ウィルの撮影を休んだ。
「それが気に入らなかったんだって……隼人……俺が、…おれが、ジャックを殺したんだ……」
「――っ、けど、ジャックはちゃんと連絡したはずだ!そんな理由で!?」
「……俺が、ジャックを殺し――」
「朔――それは違う!」
隼人が叫んだ。
先代のジャック、ジョン・ホーキングは優しい男だった。
あの日……、練習をしすぎた速水が久々に寝込み、隼人は店番を代わった。
そこで、速水は別に良いと言ったのに、ジャックが看病をすると言い出した。
もちろんウィルの方々には迷惑が掛かった。
だがジャックの家族びいきは業界では有名で、ジャックはそれでずっとやって来た…。
ウィルも、ルークも、ジャックがそういう人間だと、分かっていたはずなのに!
「……違う!君は悪くない!悪いのは!!そんな事でジャックを殺したあの男だ!」
隼人の言葉が聞こえる。
「何でだよ…!!」
速水は思い切りテーブルを叩いた。大した音もしなかった。
ぽとぽとと涙が落ちる。
ジャックと出会ったのも、ジャックが死んだのも夢なら良いのに。
母さんが死んだのも夢なら良いのに。ばあちゃんは多分寿命。
悪夢は続いている。……ずっとこの先も続く。
「隼人……俺、もうダンスやりたくない……無理だ」
自分でも嫌になるくらい、情けない声が出た。
「朔……」
「レオンは、ネットワークをつぶしたいって、手伝ってくれって言ってたけど。俺はもう踊りは辞めたい。踊りは好きだけど……。こんな気持じゃ踊れない」
「俺、地下で戦って分かった。俺には、誰かに認めてもらって、褒めて貰うっていう事しか、頭に無い。野心とか、したい事とか、それが全然無いんだ。それじゃ駄目だ。俺、頭、壊れてるんだよ……!!」
自分が壊れている事はとっくに分かっていた。記憶が飛んだり、血まみれだったり、情緒不安定になったり、おかしな力もあるという。ダンスも出来ないし、したくない。おまけにあと五年で死ぬという。もういい加減にしてくれと思った。
「君は、壊れてなんか無いよ。だれかに好かれたいって言うのも、だれかの役に立ちたいっていうのも、君の個性で、りっぱな欲望だ。君は人より多くの才能に恵まれてるから、欲しい物にすぐ手が届いてしまう。まだ渇望するって事をしたことが無いだけなんだ……!」
隼人は、そう言った。
「……なんで、こんななんだろう、俺、昔から、鳥の声が聞こえて、気持ち悪くて、うっとうしくて、踊って、踊って。音楽聞いて、踊ってるときだけ忘れられて。そのうち褒めてもらって、じゃあそれを理由にしようって、最低だよな。ダンス、本当は好きじゃなかったのかも、って、いつもそう思ってた。初めから痛く無いって事を、好きって言ってただけだったんだ」
「――もう、ダンスなんか辞めてやる……!」
速水が頭をかきむしり、帽子がテーブルに落ちた。
その拍子にコップが落ちて割れた。通りすがりのカラスが驚いた。
速水はそのまま頭を抱えた。
「……朔。誰が何と言おうと、君がダンスを辞めても、君のダンスは凄いよ。本当に辞めるのか」
隼人は割れたカップを拾いながら、静かな声で言った。
「……」
ダンスを辞める。速水はずっと迷っていた。
隼人がカフェの主人にあやまり、何事も無かったかのように二杯目が来た。
■ ■ ■
「俺も後で謝る」
速水は沈んだ声で言った。
「そうだね。フクロウが鳴いたしね」
隼人は時間外れのエスプレッソを飲んでいた。
「ジャック。仮にダンスを辞めるとして、君はこれからどうする?」
「どうって……金はあるから、一生ニート」
隼人はエスプレッソを噴き出した。
「ゲホッ!それは駄目だ!」
「だって、ダンスしないなら、俺には何も残ってない」
速水は捨て鉢に言った。
「……はぁ」
隼人は溜息を付いた。
「……だって……、ダンスが好きだったんだ……」
アンダーだって、きつかったけど――やっぱり、楽しかった。
沢山の物が無くなったけど。ダンスは……。
俺も楽しくて、皆も喜んでくれる。たった一つの答え。
……速水にとってダンスはそれだった。
おかげで泣いても泣いても、涙が涸れない。
「それなら……ジャック。ニートはやめて、一緒に日本に帰らないかい?」
唐突に隼人は切り出した。
「……」
ジャックと呼ばれ、速水は反応した。
――まだ、隼人にとって、俺はジャックなのか?
ダンス辞めるのに。一体どうして?
「……実は僕、今度、自分のお店をもつ事にしたんだ」
「……」
速水ははっと顔を上げた。
おめでとう、意外に早いな、そう言いたかったが、咄嗟に言葉が出なかった。
俺はジャック?……隼人がそう思うように、皆も―?俺は?
速水の思考はその先へ動くようで、それ以上進まない。
「それで、僕は君と一緒にお店をやりたい。共同経営とか、どうかな?……ほら、君は都会のカラスみたいに逞しいけど。カラスだって、たまには森で休みたいって思うんじゃ無いかな」
隼人はエスプレッソを飲みながら、静かに語る。
いつものように変な例えを付け加えて。
いつも……隼人の周りで、知らない小鳥がさえずっている。この鳴き声は何だろう。
一匹はぐれて……。
(……アトリ?)
速水は小さく呟いた。
そう言えば、速水は世界の片隅の、小さな国のバリスタだった。
……さっきカップを割ったが。
速水の呟きは聞こえなかったらしい。
「実は、僕が独立しようと思ったのは、可愛いいとこの為なんだ」
一呼吸置き、隼人はそう言った。
「いとこって、あ、小雪……?」
速水は思い出す。たまに聞いていた『可愛いいとこ』。
確か、まだ中学生くらいのはずだ。
「小雪は、中学二年生。でも、学校に行ってない。いわゆる、引きこもりで、不登校。誰かさんと同じ状況だよ」
隼人は苦笑する。
「……何で?」
速水は呆然と聞いた。
「小雪は、かなり容姿に恵まれていて……まあ、いとこの僕がひいき目に見ても、五千万人に一人くらいかな?そのせいで、良くイジメにあってて。もちろん中学でもすぐに目を付けられた」
「イジメ……」
イジメで、不登校?
――が、自分も小学校はサボったし、今日まで引きこもっていたので、人の事は言えない。
隼人は続ける。
「けど、今回は相手が悪かった。イジメじゃなくて、ストーカーだったんだ」
「ストーカー?」
「中学一年の、末に、何かおかしいって初めて相談を受けたんだけど……あれは酷い。初め、分かりにくかったけど間違い無い。そのうち小雪に嫌がらせしてた子達の家が、火事になった」
「……」
「小雪は、余計学校で肩身が狭くなって、それでも頑張って笑ってた。イジメられると分かってても、学校へ通った。だけど……」
「……」
「白昼、彼女の家が、火事になって。彼女のお母さんが亡くなった。警察は放火事件の延長か、料理中の事故って言った。彼女はきっとストーカーの仕業だって僕に言って泣いた。けど、証拠は何も無い。彼女は今、お父さんと僕の家にいる」
「……いま……?」
速水は俯いた。隼人が頷く。
「ごめん。隼人。俺、知らなかった。お前、……その子を置いて……」
速水は己の情けなさに歯がみした。
速水はいつも自分の事ばかりで、迷惑を掛けるばかりで……誰の力にもなれない。
「ごめん……、ありがとう……本当に。俺、隼人と、その子の力になれるかな」
「ああ。僕と一緒に、お店をやろう。僕と君がいれば、不可能なんて無い」
隼人は笑った。
その後、速水は謝り、部屋に戻って、二人で店の事について話しあった。
場所は、資金は、内装は――?
戻ったら、また珈琲も特訓しないと。運転免許も取りたい。
そんな楽しい、未来の話を――。