名こそ惜しめ
臣下が主君を裏切る。
このことで歴史上もっとも有名なのは、織田信長を本能寺で討った明智光秀の一件です。
その信長もまた、将軍であった足利義昭を追放しています。薩摩の島津氏も、信長の義父である斎藤道三もまたその部類に入ります。
戦国の世とはいえ、凄まじいことです。
でも、戦国の世ばかりではありません。
現代の会社社会でも、そういったことはよくなされる行為なのです。小さい会社のトップの交代などいちいち新聞記事にすることではないし、そういうことは大方が密かになされているので、さほど多いとは人々は思っていないだけなのです。
愚かな事ではありますが、現代のそれは、男たちの「名を惜しまぬ姿」にあるようです。
「名を惜しまぬ姿」の一方は、後継に職を譲れない年長者の「姿」です。
実は、私は、その「姿」を二度も目の当たりに見ることになったのです。
決して、褒められたことではありません。それによって、私は人生の苦境に立たされてしまったのですから、笑い事ではありません。
しかし、一方で、(今となったからだとは思いますが)、稀有な体験をさせてもらったとも思っているのです。
ただ、残念なことに、後継に職を譲れない年長者で「名を惜しまぬ姿」を強烈に示された方たちは、すでに物故者となってしまいました。
ですから、その折の心境がどうであったのかを聞くことはもはやできなくなってしまったのです。ただ、私自身が憶測するしかないのです。
そのことだけは、これをお読みになっている方々には知っておいてもらいたいと思います。
「名を惜しまぬ姿」のもう一方は、一片の義の欠片もなく、上司を裏切る部下の「姿」です。
当然のごとく、私は、その「名を惜しまぬ姿」一方の「姿」も、二度見ることになりました。
悲しいことに、その二人のありようは目を覆うばかりという惨状となっています。
もっとも、当人たちがそう思っているかどうかは確証が持てません。私はそれを本人に聞くわけにはいかないからです。つまり、私はその方々とは相対する間柄であり、もっと端的に言えば、敵対する関係であったからです。
よって、こちらの方の状況も憶測がかなり入るかと思います。
ただし、この両人は存命していますから、客観的に、その様子は私の耳に聞こえてくるのです。ですから憶測とはいえ、客観的な状況のもとでの推測ということになります。
さて、そのうちの一人は、それこそ三日天下というに相応しい状況となりました。
クーデターでトップを追い落とし、周囲をうまく丸め込み、その位置に着く。まるで、明智光秀を彷彿とさせるかのようです。
しかし、よくよく見てみると、どうも、そのトップを追い落としたいと熱望する「影の力」があって、その力に体よく利用されたというのが真相のようなのです。つまり、三日天下の彼は体良く利用されたにすぎないということなのです。
現代社会というのは、実におっかないですね。
そこには、隠然とした勢力、言うなれば「影の勢力」というのがあるのです。それに対抗するには余程の覚悟がないといけません。
例えば、「創業家」という勢力がそれに当たります。自分では直接権力を握らず、それを他者にやらせ、利権などを手にする「キングメーカー」といった手合いも、それに該当する勢力です。
さて、それまで、頭をぺこぺこ下げていた彼が、その相手を追い落としたのですから、彼の下につく人間たちは表面上は彼を立てていますが、内心は彼の心情を疑いの目で見てしまいます。
その彼らも、クーデターを指をくわえて見ていたのですから、同類なのですが、生活のためだとか、上の連中で勝手にやっていることだと自己弁護に走ります。
そして、やがていろいろなことが起こってきます。
あいつは挨拶ができていないとか、俺を無視しているとか、部下が気にもしていないことを口にし始め出すのです。
野心だけで上に立つ人間は、すべてが自分を中心に回っていると勘違いをしてしまうのです。
真に上に立つものは、その誘惑を克服するのが最初にやる仕事です。しかし、権力を奪い取ったものには、その準備はありません。反対に、自分は蔑まされているのではないかという疑心暗鬼が地虫のようにじわりと心の中に巣食ってくるのです。ですから、愚にもつかないことを口走るようになるのです。
そればかりではなく、彼にはトップに求められる「決断力」がありませんでした。
ですから、半年とは持たずに、その立場を去らざるを得なくなりました。今は、どこで何をしているのか知る者がいないといういう有様なのです。
私の関わった今一人は、もっと悲惨です。
彼の上司は、あまりに独善的でありました。しかし、一方で部下思いでもありました。
それゆえ、多少の暴言や処置に対して、一時的に反発しても、部下たちは彼を受け入れてきたのです。そして、何よりも部下たちのことをよく心配をしていたのです。部下とすれば、ちょっとしたことで言葉をかけてくれたり、安心を与えてくれることに対して感激をします。そして、それが仕事へのエネルギーへと変換されていくのです。
そうした点では、この上司は一流の人士でした。
特に、一刻者に対しては、彼は厳しく対応していました。
一刻者は組織を破壊するというのが彼がもつ考えでした。ですから、部下の中でとりわけ一刻者であったその男に、彼は厳しく対する時があったのです。時に、数ヶ月仕事から外すということもありました。それこそ、思いやりで、彼が持つ意固地で、人を好き嫌いで判断する癖を改めさせるというそれは荒療治であったのです。
しかし、それを、彼は理解できないでいました。
ですから、心の底に恨みを抱きながら、職に復帰すると、これまで以上に、その上司に媚び入り、同僚の中には「男芸者」と揶揄する者も出るくらいでした。
しかし、心の底に恨みを持つ、言うなれば、鬼を心に宿しているものですから、人として正しい行いはできません。密かに、通じあう仲間を求め、そして、いつの間にか、上司の齢を口実に、その役職を奪ってしまったのです。
所詮、「人間」が姑息でしたから、自分が上に立ったことで有頂天になり、おきまりのハメを外すことになります。彼の場合は、夜の酒場で揉め事を起こし、警察沙汰になり、みっともないことに、「懲戒」という惨めな結果になってしまいました。
周囲は、当然の成り行きと冷めた目で見つめるだけでした。
……人は名こそ惜しめと言いますが、誠にその通りだと思います。
人には「分」というものがあります。上に立つ「分」を持つもの、その下で着実にことをなす「分」を持つもの、人には様々に「分」というものがあるのです。
人の上に立つ「分」がないのに立とうとすれば、それは「分」から外れます。よって、そこによからぬことが起きてしまうのです。
私が体験した二つの出来事も、その「分」を知らぬ下役が上役を放逐したという一件なのです。
歴史の物語を読んでいると、とりわけ、鎌倉末期から室町、そして戦国と、関東の小名と大名との関係は、裏切りと服従、そしてまた、裏切りと、義も何もあったものではないことがわかってきます。
今の争いごととは違って、生きるか死ぬかの時代です。
滅亡した一族の調べをしているとなんとも身につまされるから不思議です。まるで、自分がその一族であるかのごとくに考えてしまうのです。
そういった時代に、息子に遺訓を残した武将がいることがわかりました。
小田原北条氏二代目の氏綱公です。結構長い文章を有する五つの戒めです。
第一は、義を大切にしろということでした。
義を守っての滅亡と義を捨てての栄華とは天地ほどの差があると説き、汚い心を持つことの恥を戒めています。
もちろん、これは現代でも通じることです。
上司を追い落とすというのは、「簒奪」と言って決して良い意味では捉えられていません。もっとも、それとは反対の「禅譲」がなされるのも稀ですから、「簒奪」こそが権力を奪取する一番手っ取り早い方法であるのかもしれません。
しかし、氏綱公はあえて戦国の時代に「義」を重視したことで注目されるのです。
同じ滅亡でも「義」のあるなしでその行く末に大きな差が出ると達観しているのですから見上げたものです。
あの二人も自分に「義」のなかったことを悔やんでいることと思います。
第二は、人間の活用法についてです。
どんな人間でも必ず役立つから人を一つの欠点で判断してはいけないというのです。
私の体験では、物故した二人には人材活用の妙がありました。
だから、そう、仕事が面白かったという印象が強くあります。ところが、「簒奪」した二人にはそれがありませんでした。「簒奪」したという心の引け目が他者への信頼をなくし、疑心暗鬼になりました。これほど人の心を蝕むことはありません。自分をよく言う人間はとりたてるが、そうでない人間は退けるという愚を犯していたのです。
つまり、彼らには人材活用の妙がなかったのです。
第三は、分を守れということです。
氏綱公の目には、関東を支配していた扇谷・山内上杉両家の、贅沢三昧、規律のない姿こそが滅びへとつながるということがはっきりと写っていました。
ですから、上に立ったものが戒めとして持っていなくてはいけないのが「分」、つまり、ほどほどに物事をなすということだったのです。
会社でも、規律がないところは二流どころです。
上の立場の人は誰よりも早く出社してそこにいることが大切です。部下はそれを見習って仕事をします。酒の席では、酒にのまれないことが大切です。部下に説教を垂れるなど論外のことです。そういう上司がいる会社は、決して、一流にはなれないものです。
第四は、倹約をせよということです。
これは先代の早雲からの伝言であると言います。周囲の人間は何もないところから一代で大名になった早雲の幸運な運勢を讃えますが、氏綱公は、それは早雲殿の倹約からすべてが始まっていると考えているのです。いうならば、北条家の家訓というべきものなのです。
家訓とは、家の興隆に大いに関係してくるものです。
何代にもわたって続く家には、必ず「家訓」があります。つまり、「家訓」は先代の志を受け継ぐ子孫を育てる教科書なのです。それを残すには先代みずからが全てにおいて手本とならなければなりません。
先代が「簒奪」をしては、それは手本となりません。逆に、その一族はやがて「簒奪」されることをなります。
第五は、勝って兜の緒を締めよということです。
いうまでもなく、平常時にあっての心持ちを説いているものと思われます。
人は平常時にそうでない時を思えとよく言われます。戦国であれば、戦のない冬に、春からの戦に備え、城ばかりではなく、領民の平和な暮らしを目指せというのです。
現代の会社社会では経済の変動に常に備えておかねばなりません。それがこの言葉の意味するところです。
おそらく、バルチック艦隊を日本海海戦で破った連合艦隊参謀であった秋山真之もこの一節を読んだに違いありません。
勝てば、驕りの心がでて、敵を侮り、不行儀の行いが出てくると警鐘を鳴らしているのです。
その後の、陸海軍の幹部が、氏綱公の文を的確に読んでいたら、きっとあの戦争も様相を異にしていたに違いないと思うのです。
戦国の世に、このような立派な家訓を残す北条氏とは一体どのような家なのか。ますます関心を抱かざるをえません。
同時に、現代社会の中で、飽きずに繰り返される「名を惜しまぬ姿」による権力争いもまた興味深いものがあるのです。
了