その7 那実と香美にひとまずの別れを
『汚れちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる……』
中原中也の詩が頭を巡る。俺と薙は明日、この住み慣れたと言っていいのかな、まぁ十数年も暮らしてきた街と、共に過ごした仲間に別れを告げる。少し心残りもある。
でも京都なんてそれほど遠くないし、会おうと思えばいつでも会える距離なので、そんな汚れるほどの悲しみではなかった。けれど、そう思えたのは昨日までだった。
寂しさや悲しみというものは、夕立のように現れるけど、夕立のように素早く去ってはくれない。本当に面倒だ。
出発前夜ということで、前々から遊ぶというか、お別れ記念とでもいうのかな。彼女の香美と会う約束をしていた。
出会いは中一の頃だった。
同じクラスとなった香美は、隣の小学校だったので、見たこともなかったし聞いたこともなかった。けれど、なかなか、可愛い顔をしていたので俺達の間で話題になったりもした。でも俺は香美の顔がそれほどタイプではなかったので周りの男子のように一目惚れはしなかった。
しかし運命とは皮肉なもので、神様は香美の席の隣をその男子達には与えず俺に与えた。
せっかくだから話をしてみると、顔に似合わずズバットものを言う奴でそこがおもしろく、授業中や休み時間によくじゃれあったり、話しをしたりした。
昼ごはんも一緒に食べることがあった。
まぁさすがに二人で食べるのは恥ずかしいし、周りから勘違いされても困るので、他の友人と交えて食べた。
このときは香美に対して、おもしろい奴以外の感情はなかった。
それから一年と二ヶ月が経った初夏のこと。香美は家庭科の授業で作った蒸しパンを俺にくれた。
「これ食べてよ。余分に作ったのよ、那実のために」
俺はその蒸しパンを口に入れる前に友人を呼んで、みんなで食べた。理由は簡単、おいしそうだからみんなで分けた方が楽しいし、香美もその方が喜ぶと思ったから。
でも実際は違った、みんなで分け合い「うまいなぁ」なんて言っている俺達を見て、香美は少しうつむきながら悲しそうな目をして微笑んだ。その瞬間フラッシュバックというのかな、あの日の事が浮かんだ。
小さい頃、父さんが帰ってこない理由を聞いたときのおかんの顔に。
今、思えばなんて俺は鈍感だったのだろうと思う。おかげでその日から香美が俺に対して口を開くことはなかった。
その頃、香美と席が前後ということで、その気まずさは限度を超えていた。本当に早く夏休み来ないかなぁ。
全然来なかった、夏休みまで残すところあと三日というのに、時間が全く進まない。香美と仲が良かったときは、それこそあっという間で、一日が三時間ほどしかないと感じれるほど楽しかった。
そんなことを考えている間に夏休みは訪れ、終わり、二学期が始まった。
香美の席は隣ではなかった。神よ仏よ心からありがとう、毎日仏壇に祈ったかいがあったよ。そして十月を過ぎた辺りのこと、俺は悲しみに汚れた。
妹が生まれてこなかったのだ。
学校を三日休んだって、何の気休めにもならなかった。黒い幕を覆った俺に、久しぶりに会った友人達は優しさのつもりなのか、関わるのが面倒なのかはわからないけど、近寄ってくる奴はひとりもいなかった。
友人と話すという日課を忘れかけた日の事、机の中に今朝配られた学年通信が折りたたまれて入っていた。何か書いてるのかもしれない、そう思い開いてみる。
ただひとこと、「校舎裏に来てください」と書かれていた。名前すら書いてない。
最近、無愛想だったから、仲間にでもリンチにあうのかなと考えながら校舎裏に足を運んだ。
校舎裏に着くと意外な奴が話しかけてきた。
「那実、最近元気ないやん」
香美だ。話すのは何ヶ月ぶりだろう。というより話したい気分じゃないんだけど。
「すっかり心が悲しみに覆われたんや、それだけのこと」俺は吐き捨てるようにそう言う。
「何? 中原中也のパクリ?」香美は本当に驚いた顔をしてそう言った。
誰だ? 中原中也って。
俺はその頃、その詩人の名を知らなかった。もちろんその詩も。だからパクッタなんて気持ちはなかった。
ただ、あの頃は本当にそういう心境だった。
「知らないの? 『汚れちまった悲しみに』」
「しつこいなぁ、だから知らんて」
「しょうがないからあたしが朗読してあげよう、今の那実にぴったりやで」そう言うと目をつむり、デコに手の甲を当てて、苦しそうな顔で朗読し始めた。
「汚れちまった悲しみに、今日も小雪の降りかかる。
汚れちまった悲しみに、今日も風さえ吹きすぎる……」
後から聞いた話だけど、香美はこの日のためこの詩を覚えてきたらしい。
「汚れちまった悲しみは、例えば狐の革衣。
汚れちまった悲しみは、小雪のかかって縮こまる。
汚れちまった悲しみは、何望むなく願うなく」
これこそ一生懸命と言うんだな、と感心した。
「汚れちまった悲しみは、けだいのうちに死を夢む」
香美の気持ちは、何よりもまっすぐで、純粋で、それなのに傷つくことを恐れない。そんな気がした。
「汚れちまった悲しみに、痛々しくも怖気づき。
汚れちまった悲しみに、なすところもなく日は暮れる……。おしまい。どう、よかったでしょ」
そんな今まで生きてきた幸福を全て集めたような笑顔をされると笑うしかないだろう。
でも実際の俺は泣いていた。
何で泣いていたんだろう? 本当は凄くうれしくて、素晴しい詩に出会えたことも、香美の優しさにも。
「普通こういう時って、励ましの詩を聞かせるんちゃうんか」泣きながら言う俺に説得力はゼロだった。
「でもよかったやろ。やっぱりぴったりやったわ」そう言うとまた笑った、でもその目には涙が潤んでいた。
香美のそういうところが好きなんだ。
「香美もやで」
いきなり意味不明な言葉を発する香美に驚いて涙が止まった。
「何が?」
「那実、今、香美に対して好きって言うたやんか」
どうやら知らないうちに言葉に出ていたらしい。
そう言われると体中が急激に暑くなった、その暖かさは風邪をひいた時とは違うどこか心地いいものだ。
「顔めっちゃ赤いで」これこそ悪戯な笑みというだろう。
でも香美、お前も顔が赤いで、多分俺より。
俺がそう言うと香美は自分の顔に手のひらを当てた。
「ほんまや。香美たちアホみたいやな」
「ほなら、付き合うか」
「うん。ハイ、握手」
そう言うと、手を前に出して、さらに顔を赤くした。もう絞りたてのトマトジュースより赤いなこれは。
仕方ないので、握手をした。ただ、それだけじゃあれだったので、抱きしめた。香美の思った以上に線の細い体を。あの頃は、キスとかそういうことを、ちゃんと知らなかったからアレが限界だったのだろう。今思い出しても恥ずかしい。
「ありがとうございましたぁ」
いつも行かないような店で俺達は少し高い夕食を済ました。
せっかく、最後の晩餐だというのに(別れるつもりは無いけど気分的に)香美は、いつもみせる縁日の金魚みたいな元気良さは無かった。しょうがない、あのときのお礼に小話でもしてやるか。
「人間て、何から出来たか知ってるか」
少し考えてから、ひらめいたという表情で、「骨と肉と血」
まぁそりゃそうやけど、そんな簡単な問題を出すわけないやろ
「宇宙のチリからできたんや」
明らかに誰が見てもちんぷんかんぷんな顔をしている。というより、この子頭がおかしくなったんじゃないの? 的な顔だ。こいつ殴ってやろうかな?
「地球や、その他の動植物や空気も、チリからできたらしいで、TVでどっかの教授が言ってた」
だから? 見たいな顔しやがって、全部は言いたくないんだ、恥ずかしいから。でも仕方ないか。
「俺達は、例え血の繋がりがなくったて、存在した時から繋がってるんだ。それこそ、俺達が生まれる以前から、考えられないほど古代からも。だから、そんな五十キロや百キロ、それに三年間離れるくらいで暗い顔するな。この空気を俺と思え、隣の人を俺と思え、そこらにある木を俺と思え、なんなら香美のペットも俺と思え。いいな」
俺がそう言うと、香美はやっと笑った。
その笑顔は縁日の金魚というよりひまわりに似ていた。
「意味わからへんけど、まぁなんとなくわかったわ」
なんとなくでいいと思う。
二人が好き合う理由も、生きる意味も、中原中也の詩も、世の中、判りきった事ばかりじゃおもしろくないしな、香美。
とうとう出発の日が来た、俺と薙は京都駅に向かう電車を待っていた。実際三回ほど乗り継がなきゃいけないんだけど。本当にめんどくさい。もちろん見送りには香美もいた。ついでに友人も。
昨日あんなこと香美に言っときながら、やっぱり寂しいな。なんか、こう、香美にひとこと言わないと物足りなくなってきた。
「二番ホームから普通、天王寺行き、天王寺行きが四両で入ります」
別れの時間が近づいてきた。香美にいつも言いたくて言えなかったこと……。
これだ!
けれど、こんなこと、みんながいるところで言うのか? 地元に帰れなくなるかもしれない……。でもここで言わなきゃいつ言うんだろう。
俺はジェットコースターの安全バーなしに乗るよりも思い切って言った。
最近、好みになってきた香美の顔を見て、「香美、今まで言われへんかってごめん、なんか言ってもうたら、気持ちが減ってまうような気がして言われへんかったけど」
まだ、ジェットコースターは発車しない。
「なによ?」
生涯で何度ここまで気持ちを込めてこの言葉を言えるだろう……。
「好きだ」
「那実と香美にひとまずの別れを」を読んでいただきありがとうございます
大好きな作家さんの詩を物語りに入れました。
ちょっと冒険でした。
これで第一章を終えます。
次からは高校生です。
第二章からが始まりですので、お楽しみに。
ここまで読んでくれたことに感謝をいたします。
もしよければ第一章の感想をいただけるとうれしいです。
節目ですので、お願いします。