その19 香美は思案の外
「何が、『雨だ』よ。口ゆすぐだけなのに時間かかりすぎよ」
そんな2、3分程度のことで怒ることでもないだろう。お前は知らないだろうけど、俺はすごく辛さに弱いんだよ。一味唐辛子なんて調味料を食卓で利用したことがないくらいにな。辛さだけでなく、そういう刺激物的なものは全てダメなんだよ、からしやわさびも。レモンは好きだけど。
なんて僕の好みなど、天照にとって乾燥注意報並にどうでもいいことだってことはわかりきってるので、その言葉を脳内で留めた。ついでに謝っておこう。
「ごめんやで、ほんま舌、やばかって」僕はその「やばさ」を少しでも伝えようと、舌を出した。
「見てわかるわけないじゃない」少しくらい舌がどうなってるか見てくれてもいいだろ? 見向きもしないでそっぽを向くとはなんて冷たい奴だ。「どうでもいいから早く行くわよ。みんな帰る用意してるだろうし」
本当、冷たい奴。
天照があせる理由はよくわかる。だんだん雨足を強め、さっきまでのピクニック日和とは打って変って天気は早変りした。
山の天気ならまだしも、こんな平地で天気がすぐ変わるなんて、さすが五月雨だ。
「五月雨はそんな意味じゃないわよ」と、的確なツッコミを受ける僕とした天照は、突然の雨に打たれ必死に片づけをしているであろう、安いブルーシートの元へ急いだ。
そういえば、ひとつ気になることがある。恐らくさっきから心をもやもやさせていたのはこのことだろう。
彼は普段とは違い(らしい)、必死になって、おにぎりやらウインナーを口の中に放り込んでいた。
もしかすると、「上筒先輩は、雨振るって知ってたんかな?」
「………」
無視かよ!
「あたしに言ってたの? 独り言かと思ったわ」
「独り言だと声がでかすぎるだろ」
なんて突っ込みを見事にスルーして天照は、
「あいつの能力はそんなんじゃないわ」とぼやいた。
「能力? 能力って何?」
「あんたって本当にアホなの?」
「質問を質問で返すなんて、会話の基本を知らないのかお前は」
軽蔑するような目で僕を見つめ、しばらく時間をおき「超能力」と言って溜息をついた。
超能力。
超能力。
………そうだ、僕は超能力者だった。
あまりにも今日が普通の日常過ぎて、そういうこと忘れていた。僕の3級品以下の思い出で、唯一希少価値のあることを忘れるなんて、僕もどうかしていた。そりゃ関東人に「アホ」なんて言われるよ。
けど僕はイマイチ自分の能力を実感した覚えがない。スプーン曲げとか、ああいう判り易いのなら僕も自覚できるだろうけど、そういう能力じゃないしな。といってもスプーン曲げは超能力ではなく、力学を上手に利用した科学マジックということを現在では小学生でも知ってることで、約16年生きてきて、スプーン曲げをリアルに超能力だなんて認識している人間と出会った事がない。そんなことを言うと、世界的に有名なポケットのモンスターの名前とよく似た人に訴えられるかもしれないけど。
なんて失礼なことを考えている僕はありえない光景を目にした。
片付けをしているであろう那実達は僕と天照の予想に反し、口の中をもごもごさせていた。
僕はこんな体を張ったボケをしているのだから、精魂込めた突込みをしないと失礼だと思い、全身全霊で突っ込んだ。
「何で、食ってんねん、雨降ってるやん!」
僕の声は広場に響いた。が彼らに聞こえなかったようで、僕を一瞥すると、雨に濡れた弁当に向かい、箸をいつもの2倍速で動かし始めた。
天照は僕の肩を軽く2回叩いて、
「あなたは出来る限りのことを尽くしたわ」と言った。
天照よ、その言葉はもっと先に取っておいた方がいいと思うんだけど。
結局僕の力では手に負えないと思い、天照に助けを求めようと目をやるが、そこに彼女はいない。この一瞬でどこ行ったんだと、思い、ふと弁当の方へ目をやると……。
僕は一瞬目を疑った、けれど何度見てもその光景は変わらない。
香美ちゃんが玉子焼きを口に含みながら「ないうんもほあ、ほいいしいで。すてたらもったいないあろ?」
そんな幸せそうな顔をして言われると行儀が悪いなんて言えないじゃないか。
天照も食ってないで何か言ってやれ、というと思ったが、この集団で一番、箸と口を動かしてるのがこいつなのでこいつにも言えやしない。
「ね、おいしいでしょ天照さん?」
「おいしいわすっごく」
嘘つくなバカヤロウ、そんなびしょ濡れのおにぎりやウインナーがおいしい訳ないだろう?一体どうしたんだ? いつものお前なら「こんな雨なのにノホホンと食ってないで早く片付けなさい」とか言って、ブルーシートを引っこ抜くはずだろう? 何を一緒になって食ってんだ? しかもおいしいだって? ……おいしいのか?
呆然と立ち尽くすこと早2分。脅威のスピードで弁当を食べ終えたバカ共は、すばやく片付けを済まし、ブルーシートを傘代わりにして、その場を後にした。
薄暗い空。音を吸い込む雨。染み付く泥。それらは憩いの場で公園を不気味なものに変える。それよりも不気味なのは、ブルーシートを獅子舞のように覆いながら全力疾走する僕らなんだろうけれど。
雨のお陰といってはなんだけど、行きは5分以上かかった駅までの道のりも、帰りは2分程度で着いた。周囲の視線が痛かったけれど。お世話になったブルーシートはそのままゴミ箱へ。
羞恥心をありがとう。
香美ちゃんは駅のホームまで見送ってくれた。
まぁ思いの8割は那実に向けてなんだろうけど。それは嫉妬することもない。
電車に乗り込む那実を見つめて、香美ちゃんは今にも泣き出しそうだった。僕らの前では明るく振舞っていたけれど、本当はずっと悲しい思いをしていたのだろう。それは那実と離れる寂しさなのか、正直に泣けない自分の心を嘆いた思いかどうかわからないけれど、胸を引き裂くような想いとはこのことを言うのだろう。恋愛経験値の低い僕にはよくわからないけれど。
ホームに響く電車の発進音、そして駅員の声。別れは目前だ。
なんだか、3月のことを思い出し、僕まで泣きそうになった。誰とも別れるわけではないのに。変なの。
発車まで残り10秒ほどだろう、いよいよさよならという場面で、香美ちゃんの目から雫が流れた、それは雨ではないかと思うくらい自然に。
思わず香美ちゃんはドアのギリギリまで近づき、「抱きしめて」という目で恋人を見つめる。もちろん彼もそれに答えるように近付く。
「今日で最後なのに」とささやく声が聞こえた。
その瞬間、僕の背中から鳥肌が一瞬で広がり、邪魔だといわんばかりに押し出された。
想像しえなかった。
彼女は那実の首に手をかけ、華麗に唇を奪った。那実は微動だにしない。
彼女とは香美ちゃんのことではない。
天照だ。
天照は口付けを終えると香美ちゃんに向かって、
「残念だけどあなたは前の女なの、これでわかったでしょ」
閉じるドア。
立ち尽くす横前香美。
誇らしげな天照沙希。
どうしてお前なんだ? このまま那実と香美ちゃんが抱き合ってドアが閉まれば、ベタではあるけれど、どう考えても幸せなラストシーンだったのに。どうして……。
僕は過ぎていく香美ちゃんを見つめて、もっとしっかり立っていれば押し退けられずこんなことにはならなかったのに。と、どうしようもないことを考えていた。