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ギンの珍奇な兄貴分

「ここへ戻るのも一週間ぶりか。」


 そんな言葉を漏らしながら「彼」はその長屋の前に立つ。

 歳の頃は二十歳前後、しかし童顔で優しげな顔つきは見ようによっては十代の少年、人によっては少女のように感じるかもしれない。

 服装もけっして高価なものではないがどこか小奇麗で小洒落た印象を感じさせる。一言で言うならばセンスが良いのだろう。

 その顔立ちと服装。そこから見受けられる印象はどこぞ良い家のお坊ちゃま、お嬢様。

 しかし、そんな彼と比べ、彼の目的地であり住まいでもあるその長屋は彼自身の印象とは正反対の雰囲気を醸し出していた。

 それは確かに「長屋」であり、住人達もそう呼んでいる。

 しかし、他所の誰かがこの「長屋」を「バラック」と呼んだところで住民達は「さもありなん」と納得し、特に反論もしないだろう。

 「風が吹けば桶屋が儲かる」などと言うことわざがあるが、この長屋は風が吹くと時折屋根がはがれる。

 それでも修理を頼む余裕もない貧乏人ばかりが住んでいるのだから、このバラック同然の長屋もまさに住人とお似合いと言うべきだろう。

 しかし、見るも哀れなボロ長屋。そのボロさには一応理由がある。

 戦後、家を焼け出されれ、多くの人々が住むところを失った。

 家を借りようにもあたり一面焼け野原。行くあてのない人々は橋の下、木の根元、雨露さえしのげれば御の字とばかりの貧しい生活を強いられるようになった。

 無論、そんな生活が身体に良かろう筈もない。貧しい生活は人々の健康を蝕み、その活力を奪っていった。

 しかしそんな時、1人の救世主が彼らの前に現れた。

 それがこの貧乏長屋の主、大家の婆様である。

 彼女の亡き旦那は資産家で元々この界隈の大地主であったらしい。

 戦後東京の人々の貧しい暮らし。それを見かねた婆様は敢然と立ち上がった。

 私財を投げ打ち、自身の持つ土地にこの長屋を打ち立て、格安で貸し始めた。

 「とりあえず橋の下よりはましな環境を」を合言葉に立てられた長屋の出来は決して立派なものではなかった。しかし、その日の寝床にも困っていた人々にとってはどんな御殿にも勝るありがたいボロ長屋だった。

 人々は婆様に感謝しつつその長屋で雨露をしのぎ、生活が落ち着くと共にもう少しましな住まいへと巣立って行った。

 この長屋もそうやって建てられた長屋の一つである。そして今も長屋に住む貧乏人達を雨露から守り続けている。

 

 ちなみに「彼」自身はそこまで懐寂しいというわけではない。

 住もうと思えばもう少しましな家に住むことだって可能だ。

 しかし、「彼」は住まいを移そうとは思わない。

 それはどこかこの貧乏長屋の雰囲気が気に入っている為でもあり、そしてそこに住むある人間のことを殊の外慕っているためでもあった。


「あらギンちゃん。久しぶりだねぇ。戻ってきたのかい?」


 長屋に住む顔見知りのおばさんが洗濯物を抱えたまま「彼」に声を掛ける。

 

「おばちゃんただいま!鉄兄てつにいはいるかな?」


「鉄さんだったら長屋の裏手の方で見かけたよ。」


 目的の人物の居所を聞き、礼を言って歩き出す。

 「彼」の名前は「ギン」。

 本名不詳。しかしみんな「ギン」と呼んでいるので特に不都合もない。

 彼もまた一週間ぶりに帰ってきた、このボロ長屋の住人の1人だった。



 しばらく歩き長屋の裏手へと差し掛かる。 

 遠目に目的の人物、鉄兄てつにいこと鉄馬の姿が見えた。

 声をかけようとするが直前でふと思いとどまる。

 鉄馬は元より気難しげな顔を更に引き締め、集中した面持ちで佇んでいる。

 

 一瞬の静寂。そして彼は動き出した。


 風を切るように手足が動く。

 転身して受け、そして歩み、突き、払い、時に蹴る。

 その動きは多彩であり、極めて力強い。そのくせ機械仕掛けの如き正確さでブレもよどみも見られない。

 空手の型 ピンアン。

 正確にはピンアン初段と呼ばれる型である。

 比較的近代に作られ、一般的には初心者向けの型として扱われることが多い。

 ギン自身に武道の心得はない。しかし、これまでの鉄馬との付き合いでその程度の知識はある。

 だが、鉄馬の動きは初心者と呼ぶには程遠く、極めて熟練、熟達した様子が感じられた。


 ひとしきり動いた後、鉄馬は開始の位置に再び戻る。

 今度こそギンは声をかけようとするが、それを待たず鉄馬は再び動き始める。

 鉄馬は再び型を演じ始める。

 型はピンアン初段。先程と同じである。

 しかし、その印象は先程のものとは天地の違いがあった。


 その動作の内容は変わらない。

 しかし、今度はその動きに明確な「緩」と「急」が存在した。

 緩やかに動いていたかと思えば、突如として牙を露わにする。

 動きの正確さは健在。しかし、今度の型には刃物のような鋭さがある。

 よどみの無い足運び。

 流れるような受け。

 そしてそんな中、刀刃の如く振るわれる突き、蹴り。

 それはまさに人間の形をした一振りの刃。


 触れれば切り裂かれるのではないか?


 武道の心得の無いギンにさえ、そんなことを思わせた。

 これが初心者向けの型だなどと誰が信じよう。

 もしギンに予備知識が無ければ、「これこそが空手の奥義だ」と言われても疑わず信じたことだろう。

 それほどに鉄馬の型は激しく、そして鋭いものだった。 

 ・・・・・・ただ一点を除いては。


 型が終わり、鉄馬は元の開始位置へと戻る。

 ゆっくりと息を吐き、振り返る。


「なんだギン、帰っていたのか。今回はいつもより長かったな。」


 型を終えて一息ついてなお、彼の顔は気難しい。

 しかし、機嫌が悪いわけではない。初めて会う人間には誤解されがちだが、彼は元々そういう顔なだけである。

 むしろ、いつもよりやや緩んだ眉間の皺から察するならば今の彼は比較的機嫌が良い。

 この2人の付き合いはかつてとある事件に巻き込まれたギンを鉄馬が助けたことから始まる。

 助けられた恩に加え、鉄馬の人柄に好感を覚えたギンは以来「鉄兄てつにい鉄兄てつにい」と彼を慕い、よく行動を共にするようになった。

 当初はこの押しかけ弟分に困惑していた鉄馬だったが、素直にぶつけてくる好意が彼の困惑を解き、今では彼にしては珍しく、極めて砕けた調子でこの弟分と接するようになっていた。

 この時も鉄馬は、ギンとの一週間ぶりの再会を素直に喜んでいる様子だった。

 いつもであればギンも再会を喜び、あれこれと雑談を楽しむところではあるが、今日はいつもと事情が違う。

 どうにも見過ごせぬその一点がギンを困惑させ、素直に再会を喜ばさせずにいた。


「ただいま、鉄兄。・・・・・・ところで何やってんの?」


 ギンの問いかけに鉄馬は首を傾げる。


「何って稽古だが?いつもやっていることだろう?」


 何を今更と不思議そうに答える鉄馬。


「いや、うん。稽古はわかるよ?いつもながら凄かったと思うし・・・でも俺が聞きたいのはそっちじゃなくてこっちなんだけど。」


 そう言ってギンは鉄馬の背中を指差す。

 指の先には鉄馬の背中・・・・・・・・・に括りつけられた幼子がいた。

 歳はおそらく1歳前後。鉄馬の背中で機嫌良さげにはしゃいでいる。

 

「・・・・・・長屋に住む吉田さんの家のケン坊だが・・・ギンも何度も見たことあるだろう?」


「うん。あるよ。何度かあやしたことだってあるし・・・そうじゃなくてなんで鉄兄がケン坊をおぶってるのかってことで・・・」


「なんでおぶっているか?・・・・・・・・・そんなの子守に決まってるだろう?・・・・・・・・・わかりきったことばかり聞くがギン、もしかして疲れているのか?もしそうなら早く部屋で休んだ方が良いぞ?」


 眉をひそめた鉄馬の顔からギンに対する偽りのない労わりと心配伝わってくる。

 鉄馬からの心配を真っ向から受けつつギンは思う。


 いや、違う。

 そういうことじゃあなくて!


 鉄兄こと本部 鉄馬はこの長屋の用心棒である。

 用心棒は腕が資本。だから稽古をするのはいい。

 しかし何故子供をおぶってする必要があるのか?

 何故、他所の家の子守なんかをやっているのか?


 あれこれの疑問が喉元まで出掛かるが、結局はため息一つと共にそれらを霧散させる。

 ギンの混乱には気付きもせず、鉄馬は相変わらず気遣わしげな表情でギンの様子を伺っている。

 ケン坊は相変わらず背中で嬉しそうに笑っている。


 ギンは鉄馬という風変わりな用心棒にして兄貴分を大層慕っている。

 しかし、鉄馬は風変わりすぎてギンには理解のできない行動に及ぶことも多々ある。

 ギンは鉄馬を慕っている。しかし兄貴分が引き起こす珍奇な行動は時折ギンをひどく疲れさせるのだった。


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