獣たちの夜
歓声と怒声。
あちらこちらで叫ばれるそれがあたり一帯を満たしている。
叫び声をあげる彼らの様相はどこか異様で、無法蔓延る東京にあっても、なお異質さを感じさせる。
空間の中心には四方に杭を打ち、その間にロープを通した非常に簡素なリングが設置されている。
リングの中では今も2人の男が熱狂に浮かされたように打ち合っている。
技巧、ルール、そんなものはどこかに置き忘れたと言わんばかりの殴り合いはまさしく獣じみた様相を呈しており、それはスポーツというよりはどこか闘犬のような趣さえ感じられた。
「ギン。ここで間違いないんだな?」
「・・・・・うん。間違いない筈だよ。でもこれは・・・・・・」
群集に混じるように立っていたのは鉄馬とギン。
熱狂する周囲の人々とは違い、どこか沈痛な面持ちをした2人はどこかその空間から浮いて見えた。
『新東京ボクシング試合会場』
それが鉄馬とギン、2人が今居る場所の名前だった。
時間は深夜。
普通であれば多くの人が寝静まる時間帯であるが、この会場の喧騒と狂気はいまだ静まるところを知らなかった。
2人が何ゆえこんな場所に足を運んだのか。
その理由と発端は約数時間前まで遡ることとなる。
芳樹との仕合より二月。
あれ以来、鉄馬とギンが芳樹と顔をあわせることはなかった。
当初は、今頃試合に向けて自分を鍛え直してるのだろうなどと考えていた2人だったが、しばらくすると一切音沙汰のなくなった芳樹に対して若干の懸念を持つようになっていた。
芳樹と別れてまもなく、隣り町でボクシング興行が復活したとの噂が入った。
まだ足を踏み入れたことはないが、娯楽に飢えた東京の人々の間では大層人気らしく連日の如く試合が組まれ、東京の夜を大いに騒がせているとのことだった。
その知らせを聞いた2人は、「それならば遠からぬ未来、芳樹の試合も組まれることだろう」。そう思い、芳樹からデビュー戦の知らせが来るのを楽しみに待っていた。
しかし、2人の気持ちとは裏腹に芳樹からの連絡は待てど暮らせど来なかった。
そうしている間にもボクシング興行の人気はますます広がっていた。
ながらくボクサーとしての生活から離れていたとはいえ、芳樹の実力の高さは用心棒稼業の仕事で充分証明されている。そんな彼が試合も組まれず干されたままになっているとはどうにも考え辛い。
よもや、芳樹に何かあったのでは?
鉄馬とギンはどちらからともなく、そんな懸念に行き当たった。
そして相談の結果、百聞は一見に如かず、実際に自分たちの目で様子を探ろう。
そう考えて、二人は今宵初めてボクシング興行の会場まで足を踏み入れたのだった。
2人は会場に着いて早々2つのことに大きく驚かされた。
一つは人々の熱狂。
観客は声を張り上げて選手の名前を呼んでいる。
しかし、目を血走らせんばかりのその様子は異様なまでの熱を含んでおり、ただのスポーツ観戦というにはあまりに異様であった。
そしてもう一つの驚愕。
それは試合のあまりのレベルの低さだった。
武道屋の鉄馬はもとより武の心得のないギンにさえ理解ができた
リングの中の2人はただ我武者羅に殴りあうばかりで技巧や戦術と呼べるようなものは何一つとして見られなかった。
それでも、それだけであれば『レベルの低い試合』ということで納得できたかもしれない、しかしリングに居る2人はそれだけに留まらなかった。
倒れた相手に馬乗りで殴りかかる。
相手の接近を許したボクサーがそのまま相手に抱きつき、そのまま力任せに投げ飛ばす。―――無論、クリンチなどではない。
それはもはやボクシングというよりただの喧嘩。
ボクシングと呼べる要素はせいぜい手につけられたグローブと申し訳のように作られたリング位のものだった。
無論、戦後初となる東京でのボクシング興行である。
最初から高レベルな試合を拝めるとまでは考えていなかった。――が、この夜繰り広げられている試合の内容はあまりにひどい。技巧や戦術どころか拳闘家としての最低限の矜持すら感じられない代物だった。
このひどい舞台が腕利きの用心棒、拳闘屋 芳樹の望んだ晴れ舞台だというならば、あまりに無惨。
ギンと鉄馬が我が目を疑いたくなるのも無理からぬことであった。
その後もひどい試合は続き、さしもの2人もやはり来る場所を間違えたのではないかと思い始めた頃、彼が現れた。
今晩のメインイベント。
審判役の呼び声と共にリングに上がったのは茶色がかった髪と長身が印象的な歳若い男。
最後の仕合の時よりさらに絞られた身体となっているが、それはまぎれもなく芳樹であった。
どうやら観客からはそれなりに人気もあるらしく、登場と共に歓声と罵声の両方が沸いた。
それらの声に片手をあげて応える芳樹。しかし、その顔は鉄馬やギンの慣れ親しんだものとは大きく違った。
平時は鋭い容貌に似合わぬ人懐っこい笑みを浮かべ、ひとたび争いの場となれば野獣の如き獰猛さを見せる。それが鉄馬たちの知る拳闘屋 芳樹の姿であった。
しかし、今リングに立っている芳樹はそのどちらでもない。
観客に応える笑みはどこか曖昧なもので、試合を目前にしているというのに昂ぶったところがまるで見られない。それどころかどこか緩んだその様子はいっそけだるげですらあった。
戦いを前にあんな様子を見せる男だったか?
ギンが思わずそのような疑問に駆られた時、芳樹の試合は始まった。
芳樹の相手は、身長こそ芳樹より低いが横幅は芳樹よりひと回りは太い。
確かに力は強そうであるが、おおよそ「ボクサー」と呼べるような体型ではなかった。
ゴングと共に相手のボクサーは芳樹へと駆け寄る。
駆け寄った勢いのまま大振りの拳を立て続けに振るい始める。
確かに勢いこそあるが、とてもではないが「技」と呼べるような代物ではない。
当然、芳樹であれば軽々としのげる。ギンはそう信じて疑わなかった。しかし・・・・・・
2発目、3発目の拳を捌いていた芳樹だったが、4発目の拳でとうとう被弾を許した。
拳を腹に受け動きを止める芳樹。
チャンスとばかりに攻め込む相手。
ますますの熱狂を見せる会場。
熱狂する会場の中、ギンは唖然とした面持ちで試合を眺めていた。
いったい芳樹に何があったというのか?
相手の拳はギンの目から見てさえお粗末なものだった。
特にギンは二月前の鉄馬と芳樹の仕合を見ている。
あの仕合での芳樹は目で追えぬほどの鉄馬の猛攻をまるで舞でも舞うかのように軽やかにかわしてみせていた。
それを知っているだけに今の芳樹の姿は信じ難い。
いっそ双子の別人だと言われた方がまだ納得もいく位だった。
「鉄兄・・・これはいったい・・・」
困惑した顔のまま鉄馬に顔を向けるギン。
鉄馬もさぞ驚いているだろうと思っていたギンだったが、予想に反して鉄馬の様子は平静であり、常と変わらぬ眉間に皺を寄せた無表情で静かに試合を眺めていた。
「・・・・・・おおよそ検討はつく。だがこの場はひとまず落ち着いて見ていろ。」
ギンは試合に向き直り、そのまま試合中は鉄馬の方を向くことはなかった。
それは答えた鉄馬の声から微かな苛立ちとそれと同量程度の悲しげな響きを聞き取った為であった。