決着、そして夢のつづき
鉄馬と芳樹の攻防はその後も目まぐるしく続いた。
縦横無尽に動き、攻守を入れ替えながら技を交し合う。
拳速と足捌きでは芳樹に分がある。しかし読みと多彩な技で鉄馬はそれに追随する。
一進一退の攻防。
永遠に続くかのような彼らの攻防もついに終わりが訪れた。
既に何度目かもわからぬ芳樹の接近。
踏み込むと同時に繰り出したのは左拳によるフック。
拳は鉄馬の顎を見事に捉え、寸前にて止められる。
芳樹の勝ちか?
ギンがそう思った次の瞬間、芳樹は苦笑しつつ口を開く。
「・・・・・・引き分け・・・ってとこかな?」
「・・・・・・えぇ。それが妥当かと。」
鉄馬と芳樹の間で交わされる不可解な言葉。
疑問に思いつつ見ていたギンだが、やがて彼もそれに気が付いた。
芳樹の胴体。そこには折りたたまれた鉄馬の左肘がやはり寸止めされた状態で止まっていた。
中段への肘打ちである。
おそらくは同時に繰り出されたであろう芳樹の拳と鉄馬の肘。
果たして優位なのはどちらであったか。
芳樹の拳が決まっていたならば、その場で鉄馬は昏倒していただろう。
一方、鉄馬の肘もブロックを容易く砕くほどの威力がある。もしこれが芳樹に決まっていたならばその場で戦闘不能になっていたであろうことは想像に難くない。
互いに必殺。もしこの優劣を決めようとするならば、もはや本気でやり合ってみるほか方法は無い。
そう互いに考えたからこそ、この勝負は引き分けということになったのだろう。
両者同時に跳び退き、大きく息をつく。
加減をしていたとはいえ、互いの身体には無数のアザが見られる。むしろ重傷を負わずにすんだのは互いの技量が卓越していた証左といえた。
「いやぁ、引き分けか・・・・・・これも悪くない終わり方かもな。まぁ少しばかり悔しいが。」
悔しいと言いつつも芳樹の顔はどこか晴々としていた。
少なくとも仕合前に浮かべていたどこか切実な調子はそこにはなかった。
「芳樹さん・・・理由を伺ってもいいですか。」
「そうだよ、ヨシさん。いきなり仕事辞めたり、仕合をしたり、一体どうしたって言うのさ?」
晴々とした芳樹に鉄馬とギンは問いかける。
これまでの付き合いを鑑みれば、今日の芳樹の行いはこれまでにないものだった。だからこそ、友人の突然の行動に2人は問いかけずにはいられなかったのだ。
心配げな様子の2人に芳樹はどこか照れたような笑みを浮かべる。
「悪い。心配かけちまったみたいだな。でも別に悪い話じゃあないんだ。」
普段から鋭い容貌に似合わず人懐っこい男であるが、その時の芳樹の顔はそれに輪をかけて少年染みた雰囲気を感じさせた。
「実は俺・・・・・・ボクサーに戻るんだ。」
照れるような、そしてどこか誇らしげな顔で芳樹はそう言い放った。
芳樹の突然の告白。
その言葉にギンは思わず驚愕する。鉄馬も表情の変化こそ少ないがやはり驚いているようだった。
「ボクサーに戻るってヨシさん・・・だってボクシングの興行は・・・」
戦争後期、多くのボクサーの出征と戦争の激化からプロボクシングの興行は全て中止されていた。
終戦から数年が経ち、首都である関西ではようやく復興の兆しが見え始めたという噂も聞くが、ここ東京には今だその復興の波は遠く、兆しと呼べるようなものはまだ見えていなかった。
「ああ、だからこそ俺も用心棒稼業についてたわけなんだがな。でもこの間、ある人から誘いを受けてな・・・」
芳樹曰く、声を掛けてきたのは戦前ボクシングジムを経営していたという田鍋という男だった。
彼は現在、東京でもボクシング興行を企画しており、東京に居る元ボクサー達を勧誘してまわっているとのことだった。
「勿論すぐに立派な興行ができるとは思わねぇさ。・・・でも俺にとってこれはチャンスなんだ。俺もいつまでも若いわけじゃないしな・・・・・・」
ボクサーに限らず、アスリートの選手生命というものは至極短い。例え20代半ばという世間的には若者で通る年齢であっても、選手として活躍できる期間から考えればけっして若いとは言えない年齢である。
加えて、東京に居る芳樹が関西まで出向いてチャンスを掴むというのはこれもまた至難と言えた。
首都機能を復活させる為、急ピッチで復興を進めている関西は職を求める者で溢れかえっている。
そんな中、親類も伝もない若者1人が出向いたところで、入り込む隙などありはしない。ボクサーになるどころか日々の生活にも追われ、野垂れ死にしたとしても不思議なことではない。
そういった状況もあり、東京での興行再開というのは確かに芳樹にとって千載一遇のチャンスと言えた。
「だから・・・俺はこのチャンスに賭けたいんだ。仕事を勝手に辞めちまったことはギンに悪いと思ってるんだが・・・」
「いや、それはいいんだけど・・・じゃあなんで鉄兄と急に戦いたいなんて言いだしたのさ?」
「それは、さっきも言ったように「けじめ」ってやつさ。俺もこの稼業をそれなりに長くやってきたし、別に嫌な仕事ってわけでもなかった。だからこそ辞める前に自分がどの程度の奴なのか確かめてみたかったんだ。俺の知る中で一番強そうなのが鉄さんだったからな。」
「プロになったら喧嘩もできねぇしな」と芳樹は再び照れたように笑う。
「そうでしたか・・・・・それで、「けじめ」はつきましたか?」
「おお!勝てなかったのは残念だが、鉄さんと引き分けたんだ。まあ俺もそれなりのもんだったと納得しとくさ。」
「それは何より。」
いつも気難しげな鉄馬の表情も今はやや柔らかい。
鉄馬と芳樹、2人の間に先程までの緊迫感など微塵もない。一欠けらのわだかまりも感じさせぬその空気が芳樹にとっての「けじめ」を無事つけさせたことをギンに伝えていた。
「・・・・・・まぁ、用心棒を辞めるのは少し寂しいけど、確かに良い話だ。頑張ってよヨシさん!そうだこれから鉄兄を昼食に誘おうと思ってたんだけど、ヨシさんもどうかな?門出のお祝いに一つパァーっとやろうよ。」
笑顔を浮かべそんな提案をするギン。
しかし、そんな提案にやや残念そうな顔をしながら芳樹は首を横に振る。
「悪いなギン。せっかくだがそれはまたの機会にさせてもらうよ。俺も長らくボクサーらしい生活から遠ざかっていたからな。現役復帰する以上は今から鍛え直さなきゃなんねぇんだ。」
ギンの見る限り、芳樹の身体は不摂生や鈍りといったものとは無縁に思える。しかし、それでも芳樹にとっては不足なのだろう。砕けた物言いではあるが、芳樹の様子はあくまで真摯かつ真剣であった。
「試合が組まれたら知らせるからさ、その時は見に来てくれよな?宴会はその後の祝勝会として頼むわ。」
そう言って芳樹は踵を返す。そして、それも鍛錬の一環なのだろう、そのまま軽やかに走り出した。
駆け出す芳樹の姿はまるで羽を得たように軽く、そして活力に満ちていた。
「芳樹さん。」
去っていく芳樹の後姿に鉄馬が呼びかける。
振り向いた芳樹が見たのは、遥か遠くで芳樹に向けて拳を突き出した鉄馬の姿。
「御武運を」
たった一言。
激励と言うにはあまりに短い言葉。
しかし、付き合いの長い芳樹には理解できた。この一言に変わり者で口数の少ない、元同業の友人の万感の思いが込められていることに。
同じく芳樹は鉄馬に向けて拳を突き出す。
「おう!」
やはり一言。
しかし、その一言を受けて鉄馬は満足げに頷く。
表情はいつも通り気難しげだが、不思議と微笑んでいるようですらあった。
再び芳樹は背を向けて走り出す。
もう振り返ることはない。芳樹の姿は次第に小さくなり、やがて見えなくなった。
「・・・・・・行っちゃったね。」
「うむ。」
「寂しくなるね。」
「ああ。・・・・・しかし」
鉄馬は今だ芳樹の去った方角を見つめ続けている。
「芳樹さんは見つけたんだ。自分の進むべき「道」をな・・・それはとても素晴らしいことだ。」
それきり黙って遠くを見続ける鉄馬。
その顔に浮かんでいるのは友人への祝福と別れの寂しさ。
そしてどこか羨望のようなものが混じっているのをギンは感じていた。