空手屋 対 拳闘屋
鉄馬と芳樹。
2人の用心棒がやや距離を取って向かい合う。
まだ仕合は始まっていない。しかし辺りの空気はやや緊迫した色合いを含み始めている。
そんな空気に耐えかねたギンは思わず2人に声を掛ける。
「2人とも!決まりごとはちゃんと守ってよ!」
「問題ない。」
「俺も鉄さんも素人じゃねぇんだ。そんなに心配すんなよ。」
心配するギンの様子とは対照的に2人の様子はまったくもって平静であり、芳樹にいたっては今だ口元に笑みすら浮かべている。事前に話しを聞いていなければ、これから2人が戦うなど到底信じられなかったことだろう。
今回の仕合において、2人は一応のルールを定めた。
込める力は全力の3割程度。
目突き、金的は禁止。
怪我をしてもそれは自分の責任。恨みっこなし。
ルールと呼ぶにはあまりに大雑把な決め事であるが、2人が平等な条件で最低限の安全を確保しつつ勝負をつけるにはこの程度のルールが限界であった。
無論、2人はこれを承知している。
彼らにルールを利用しよう、裏をかこうなどという考えは毛頭ない。
互いが純粋に力を比べようと思ったからこそ成立した仕合であった。
鉄馬と芳樹、2人の返答に一応納得し、ギンは2人からやや距離を取る。
特に意図したわけではないが、それが2人にとっての開始の合図代わりとなった。
瞬間、空気が凍りつく。
芳樹が両拳を胸まで持ち上げる。
口元からは笑みが消え、鋭い眼光が餓狼の如き雰囲気を醸し出す。
一方、鉄馬。
彼の姿は開始前と変わらない。
しかし、両腕をだらりと下げた自然体こそが空手屋 本部 鉄馬の常の構えである。
そして気難しげな顔はいつも通りだが、やや細められた眼が猛禽の如き光を放つ。
芳樹はその場で軽い跳躍を始め、リズムを取る。
鉄馬はその場に立ち続け、そこには僅かな動きも力みも見られない。
凍りつく空気の中、芳樹の跳躍の音だけが響く。
大きな動きもないまま数秒の時が流れ、そしてそれは唐突に破られた。
先手は芳樹。
彼は肉食獣の如き踏み込みで彼我の距離を詰める。いささかの無理も見られないその跳躍はそれだけで芳樹の優れた身体能力を示していた。
無論、踏み込むだけで終わる筈もない。襲い掛かる餓狼は同時に己の鋭い牙を見せ付ける。
狙いは顔面。繰り出されたのは左拳。
高速で鉄馬の顔面へと飛来する拳・・・それはジャブと呼ばれる技であった。
白井 芳樹
彼もまた自身の腕を頼みとする武道屋である。
拳闘屋 白井 芳樹
それが用心棒としての彼の顔であった。
戦前の芳樹は将来を嘱望される若きボクサーであった。
しかし、戦争の激化が彼からリングを奪い、戦争へと駆り立てた。
そんな彼が戦後、己の生きる糧を求めて用心棒稼業につくというのはいたって自然な流れであった。
元プロである。それだけに彼の腕はチンピラや三流武道屋など到底寄せ付けず、この界隈ではそれなりに知られた用心棒であった。
今放ったジャブ一つとってもその完成度はまさに一級品。
一般的に試合の中でしか使えないといわれるジャブであるが、それも使い方次第である。
確かに一撃で相手を倒すほどの威力はない。しかし、牽制として使用するならば芳樹のジャブは十二分な威力を持っていた。
体重を乗せていない拳であるが、顔に当たれば充分な効果を発揮する。
例えばもし鼻に当たれば、それだけで相手の視界を塞ぎ、呼吸を妨げることができる。
仮に受けられたとしてもその瞬間は相手の意識は左拳に引き付けられる。その瞬間こそ、次なる必殺の拳を叩き込む最大の好機となり得る。
牽制打からの必殺の拳。
それが拳闘屋 芳樹を勝利へと導く、定石の一つであった。
チンピラ相手であれば抵抗も許さず打ち抜く芳樹のジャブ。
しかし、今回その左拳は珍しく空を切った。
芳樹が動いた瞬間、鉄馬もまた動いていた。
真半身での入り身により芳樹へと接近する。芳樹の左拳は鉄馬の顔すれすれを通り、先程まで鉄馬が居た場所を穿つ。
鉄馬もまた踏み込みつつ攻撃の手を振るっていた。
真半身で踏み込みつつ下方から顎目掛けての掌底打ち。
ジャブほどの速さは持たないが、芳樹にとっての死角から予備動作もなしに放たれる掌底打ちは芳樹のジャブに劣らず早い技だった。
鉄馬の掌底が芳樹の顔へと迫る。
しかし命中の直前、不意に芳樹が姿を消す。
無論、消えていなくなった訳ではない。芳樹の姿は鉄馬の視界の遥か下。
掌底を察知した瞬間、芳樹は身を屈めてこれを避けたのだ。
ボクシングにおける防御、ダッキングである。
ダッキングは見事に功を奏し、鉄馬の掌底をすり抜ける。しかしこれは、けっして防御の為だけの動作ではなかった。
ダッキングによって屈んだ身体がバネのように伸び上がる。それと同時に上方へ向け芳樹の右拳が唸りをあげる。
狙いは胴体。ボディーブローである。
伸び上がる力と腰の回転を充分に使った一撃。3割の力とはいえその拳は人を倒すのに充分な威力を持つ。
右拳は鉄馬目掛けて走り、そして鈍い音を響かせた。
次の瞬間、芳樹が大きく飛び退く。
餓狼の如き闘志に陰りは見えないが、それでもその顔にはどこか苦痛の色が含まれていた。
しかし、より顕著なのは彼の右前腕。そこには今刻まれたばかりの赤い跡が目立つ。
ボディーブローを察知した鉄馬は後足を大きく後方に引き、同時に前手を下方目掛けて振り払った。
四股立ち下段払い
それが鉄馬が行った動作であった。
空手においてごく一般的に修行される基本的な受け技であるが、その効能はけっして受けのみに留まらない。
鍛え上げた空手家が放つ受け技はある種、攻撃と同義である。
ボディーブローを受けられた瞬間、芳樹の腕に激痛が走った。
その感触は到底生身のものとは思えない。
「鉄棒を隠し持っていたのか?」思わずそう錯覚しそうなほどに鉄馬の腕は堅く鍛えられていた。
腕を折られんばかりの衝撃に思わず距離を取った芳樹。
しかし鉄馬もまた無傷ではなかった。
とっさの判断で放った下段払いも結果から見ればやや遅かった。
打ち払いこそしたものの、その時には浅くはあるが芳樹の右拳の被弾を許してしまっていた。
鉄馬の腹部に鈍痛と息苦しさが広がる。
片や武器である腕に傷を負い、片や腹部への衝撃に呼吸が阻害される。
最初の激突はこうして痛み分けに終わった。
しかし、両者の闘志に今だ陰りは見られない。
息をつく間もなく、再び2人は接近する。
絶え間なく繰り返される嵐の如き攻防。
2人の仕合はまだ始まったばかりだった。