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プロローグ

照和26年 東京


 日は暮れ、夜闇は空を覆い始める。

 逢魔が時とも呼ばれるこの時間。

 仕事帰りの周造が出会ったのは「魔」でこそなかったがやはり災難としか呼びようのないものだった。

 老骨に鞭を打っての日雇い労働。

 疲れた身体を一刻も早く休めたいと大通りを外れ、路地裏の近道を通った。それこそが周造の誤りであった。

 路地裏は表通りの騒がしさなど別世界のように静まりかえり、夜が先んじてやってきたような薄暗さがそこにはあった。

 おばけを怖がるような子供ではない。そう思い、さして気にすることなく路地裏を進む周造の肩を何者かが叩いた。

 誰だろう?

 そう思い振り向こうとするが、相手の顔を見るより先に周造の体は地面へと投げ出された。

 一瞬なにが起こったかわからず困惑するが、やたらに熱い片頬と口元から伝うぬるりとした血の滴り、それが周造に自分が殴られたのだということを悟らせた。

 地べたに倒れたまま相手を見上げる。

 そこには3人の男。死んだ息子と同じ位の年齢だろうか。

 薄暗がりで顔は見えにくいが面識のない相手であることだけはわかった。

 ぼんやりとそんなことを考える周造に更に男から蹴りを一発見舞われた。

 蹴りは周造のみぞおちに突き刺さり、たまらず口から胃液と血の混合物が吐き出される。

 痛みと吐き気にうずくまるが、そんな周造にはお構いなしに男は胸倉を掴み、何ごとか声をあげる。

 視界は涙でにじんでおり、それ以上に痛みが周造の全てを塗りつぶし、相手の方へと気が回らない。

 しかし、それでも断片的に拾った言葉から判断するならば、男達は「金を出せ」と言っているようだ。

 仕事帰りの年寄り。

 格好の鴨と判断して金品の強奪を目論んだのだろう。

 頭でそれを理解するが、今の周造は痛みと吐き気で動くこともままならない。

 しかし、男達はそれを抵抗と受け取ったのか、周造を揺さぶり、平手打ちを浴びせ、しきりに「金を出せ」と脅しつけてくる。

 

 周造の目に痛みとは別の涙がこみ上げる。

 恐怖よりも悔しさ、惨めさから出る涙だった。

 戦争で一人息子を失い、頼れる親戚もいない、年老いた妻と二人きりの生活。

 妻は息子が死んでからめっきり気も体も弱くなった。

 それでも夫婦二人、生き残った以上はしっかり支えあって生きていこうと老骨に鞭打ち働きに出た帰りがこの有様だ。

 年寄りを鴨とばかりに襲い掛かる獣同然の下種。しかもそれが死んだ息子と同じ年頃だというのだから惨めさも極まる。

 息子が戦死したと聞いた時の絶望感は筆舌に尽くしがたいものだった。

 戦後の辛い生活の中、せめて息子が生きていてくれればなどと夢想に浸ることは何度もあった。

 そんな自分に対し、息子と同じ年頃の男にいたぶられ、金品を巻き上げられるなどという運命を用意した天はなんたる皮肉家なのか。

 痛みよりそんな惨めさが周造を打ちのめした。

 虚脱感は抵抗する意思さえ奪い去っていく。

 

 もういいのではないか?

 国は荒れ、息子も死んだ辛いばかり余生。

 いっそこのまま殴り殺されて息子の元に行く方がどれほど幸せだろうか。


 そんな考えが甘い毒のように周造の全身へ染み渡る。

 目の前の男が拳を振り上げるのが見える。


 あの拳を受け入れれば息子のところに行けるのでは。


 周造は目を閉じ、次の瞬間訪れる拳を静かに待った。

 


 しかし、予想に反して拳は周造のもとを訪れなかった。

 不思議に思い目を開けると3人の暴漢の後ろに更に1人、別の男が加わっていた。

 男は暴漢の拳を背後から掴み、その動きを止めている。

 歳の頃は暴漢らとさして変わらない。中肉中背。短髪黒髪。飾り気のないシャツとつぎはぎだらけのズボン。

 特に際立った特徴はない。

 しかし、強いて特徴を挙げるとすれば暴漢の拳を掴む手には妙に傷が多く、どこか無骨な印象があったこと。

 そして男の顔がひどく気難しげで、眉間に深い皺が刻まれていたこと。


 突如現われた男に戸惑う暴漢達。

 特に拳を捕まれた男は驚きつつも必死で腕を振りほどこうとするが、相手の力がよほど強いらしく振りほどくのに四苦八苦している。

 周造と暴漢達、計4人の視線にさらされつつも、その男に全く動じる様子は見られなかった。

 周囲の視線も抵抗も全くに意に介さず、彼はおもむろに口を開いた。


「失礼。佐々木 周造さんとお見受けしましたが相違ないでしょうか?」


 見かけによらず、そして場違いなほど丁寧な口調にその場の4人は一瞬呆気に取られる。

 

「は、はい。わたしが佐々木ですが・・・」


 周造も明確な意思で答えたわけではない。

 呆気に取られた拍子にポロリと口が滑ったという方が正解だった。

 しかし、その返答に満足したのか、男は眉間の皺をやや緩めて一つ頷く。


「やはりそうでしたか。駆けつけるのが少しばかり遅かったご様子。誠に申し訳ない限りです。」


 そう言って深々と頭を下げる男。

 頭を下げる直前、掴んでいた拳を背後に向け放り出す。

 拳を捕まれていた暴漢はそれと同時に投げ出され、男の背後で尻餅をつく。

 他2名の暴漢もそれに巻き込まれるようにして後方へと後ずさる。

 その場の位置関係は周造と暴漢、その間に挟まれるようにしてその男が立つ。そういう図式となった。


 場の空気に呑まれつつもようやく暴漢達はわずかに落ち着きを取り戻す。

 そしてそれと同時に新たな怒りが彼等の中に灯り始める。


 この男は何者だ?

 爺さんとどういう関係だ?


 疑問はいくらでもある。

 しかし、この場において重要なのはこの男が自分達を邪魔した。その一点だけだった。

 一番怒りが激しかったのは拳を掴まれた上、後ろへと投げ飛ばされた男である。

 3人の中では一番の巨漢。強面でそれなりに喧嘩慣れもしている。

 人を殴ったり、突き飛ばしたりすることはあっても自分がそんな目に遭うことなど久しくなかった。

 それがこの男に苦も無く制され、投げ飛ばされた。

 その事実が彼の中の理不尽な怒りをこの上なく燃え上がらせた。


「やい!テメェ・・・」


 何してくれるんだ?

 どういうつもりだ?

 彼がその後どういう言葉を続けるつもりだったか、それは彼以外の者にはわからない。

 しかし、彼はその言葉を言い終えることができなかった。

 原因は不意に眼前に差し出された件の男の腕。

 機先を制するように差し出されたその腕が場の空気を再び男の下に引き戻した。


「申し遅れました。自分は佐々木 周造氏の用心棒を勤める、本部もとべと言う者です。あなたがたには速やかに引き下がって頂きたい。」


 この言葉は誰より周造を驚かせた。

 自分は日雇い労働でどうにか夫婦2人食い繋いでいる身の上。用心棒を雇う金銭の余裕などあろう筈もない。

 何かの間違いでは・・・そう言い掛けて、ふと少し前のことを思い出す。

 今、周造夫婦が暮らしている長屋では家賃の他、いくばくかの銭を上乗せして払うことになっている。

 その上乗せ分の金銭で用心棒を雇っている、そう入居の際、大家が言っていたのを思い出した。

 かつての首都 東京。戦後、その治安は乱れに乱れた。

 そこでは国の目など行き届かないところの方がむしろ多く、危険、厄介ごとは腐るほどに転がっていた。

 そういう環境であればこそ、自衛の重要性は住人達の間にも切実なものとして広まっていた。

 もし若く、自分の腕っ節に自信があるのであれば、自身の警戒だけで事足りるかもしれない。

 しかし、世の中はそんなに強い者ばかりではない。

 女、子供、年寄り・・・自分で身を守ることがかなわない者の方が数多い。

 そういう者達にとって一番身近な自衛の手段。それが用心棒だった。

 裕福な家であれば個人で用心棒を雇うことも可能だろう。

 しかし、大抵の庶民達の間では地域ごと、長屋ごとに用心棒を雇い、警護を依頼するのがこの頃の主流であった。

 周造の住む長屋もその例に漏れず、用心棒を雇っている。

 しかし、周造の住む長屋はバラックと長屋のあいの子とでもいうべき代物であり、その外観から察せられるように住んでいる者も概ね貧しい身の上だ。

 そんな長屋の用心棒など大抵の場合はどこぞの組や愚連隊のチンピラというのがお決まりだった。

 雇ったところで何かしてくれるわけではない。

 しかし金さえ払っておけば、とりあえずそいつらから何かされることはない・・・その程度のものだ。

 よって大家から用心棒の話を聞いた時もおそらくそういった手合いなのだろうと予想し、特にこれまで関心や興味を持つこともなかった。

 しかし、その用心棒は今自分の壁となるように立ち、暴漢達と対峙している。

 周造はなにやら奇妙な気分に駆られた。


 暴漢達も突然の用心棒の登場に驚く。

 しかし、その驚きはすぐに冷め、変わって安堵と侮りが彼等を満たした。

 周造の身なり、そして自称用心棒の身なりから察するにどちらもたいして金を持っているようには見えない。

 貧乏人の用心棒などせいぜいその辺のチンピラが関の山だということも知っている。

 こちらは3人、相手は1人。

 正体不明であればこそ警戒もしたが、今となっては鴨がもう一匹増えたも同然だった。

 

 暴漢の内、もっとも小柄な1人が本部の胸倉を掴み上げる。

 その顔は余裕に満ち、もはや自分達の有利を疑っていない。


「よぉ。兄ちゃん。あんたいきなり出てきて随分舐めた真似してくれたなぁ?迷惑料代わりだ。有り金全部置いてきぃぃぃぎいいいい痛痛!!」


 やはりこの言葉も最後まで発することはかなわなかった。

 胸倉を掴んだ手を己の胸に押し付け、握りが緩んだところで手首を極める。

 ごく一般的な護身術であるが、本部の手によると驚くほど滑らかに技が仕掛けられた。

 彼の表情は依然として変わらない。眉間に皺を僅かに寄せ、特に勝ち誇るでもなく淡々と言葉を放つ。


「・・・もう一度言います。速やかに引いて頂きたい。こちらとしても無用の争いは望むところではありません。」

 

 本部の言葉に他意は無い。

 争わずにこの場を治められるのであればそれが最上。

 そう考えて発した警告の言葉だったが、むしろそれは逆効果となって表れた。

 毛ほどの動揺も見せず淡々と吐かれたその言葉。

 暴漢達にして見れば、「おまえらなんぞ相手にするまでもない」という挑発のようにしか取れなかった。

 暴漢達の顔から笑みが消え、再び怒りの色が灯る。

 もっとも顕著な反応を示したのは先程投げ飛ばされた巨漢である。

 本部が冷静であればあるほど、先程の受けた屈辱と怒りはますます燃え上がった。


「――テメェ!」


 怒声と共に拳を振り上げ、本部へと突進する。その勢いはまさしく彼の全力であり。もはや本部によって捕らえられている仲間のことすらも彼の脳裏には無かった。

 巨漢の突進を見て取った本部は内心、落胆しつつも行動に移る。

 手首を極めた小柄な暴漢をポンと突進する巨漢に向けて突き飛ばす。

 関節を極められ身体の自由を奪われた男は抵抗もかなわず、本部に突き飛ばされるまま巨漢目掛けてよろけていく。

 当然の帰結として男と巨漢はぶつかり合う。巨漢の全力での突進も中途で止められその勢いを霧散させる。

 もたれかかる仲間を引き剥がし、再び拳を振るわんとするが、もはやそれは遅かった。

 巨漢の数歩先にいた筈の本部はいまや己の懐にまで踏み込んでいた。

 あまりの至近距離。巨漢であるが故に彼は殴りつけることすらかなわない。


 引くか?組み付くか?

 

 巨漢の一瞬の逡巡を突いて本部が攻める。

 巨漢の顔目掛けて振り上げられる手。

 拳ではない。それは手の平・・・掌底だった。

 掌底は巨漢の顎を真下から突き上げる。

 強かな衝撃。しかし、痛手となるほどではない。

 突くというより押すように放たれた掌底は巨漢に痛みを与えることなく一瞬その身体を浮き上がらせるのみに留まる。

 それこそが本部の狙いだった。

 身体が浮く。それはすなわち重心が上へと移動したことを意味する。

 重心とは一般的に低い位置にあるほど安定し、高い位置にあるほど不安定となる。

 痛みも感じぬ掌底。しかしその実、この一撃は巨漢の重心を押し上げ、極めて不安定な状態・・・いわば死に体と呼べる状況に追いやっていた。

 もしこの巨漢に武道、武術の心得があったならば、いかに今自分が危険な状態か、それに気付くこともできたかもしれない。

 しかし、彼は恵まれた巨体を持つが故にこれまで特に努力をしなくてもそれなりに喧嘩には勝てていた。その為、わざわざ努力して「武」を磨こうとすることもなかった。それが今回の彼にとっての不幸だった。

 拍子抜けするほどの軽い一撃。

 彼は安堵すらしていた。

 

 恐れるほどの相手じゃない。

 さぁ今度こそ思い知らせてやる。


 彼は自分の窮地に最後まで気付くことはなかった。

 掌底の一撃。

 下から上へとまっすぐに持ち上がる力。

 それが最高頂に達した時、そこにもう一つの力が加わる。

 それは前方から後方へと押す横の力。

 大した力ではない。巨体を持つ彼であれば通常なら小揺るぎもしない程度の力だ。

 しかし、今の彼の重心は高く持ち上げれており。その程度の力であっても容易く動かされることとなった。

 力の向きのまま後方へ後ずさる巨漢。

 後ろに向け歩んだ足が何かにつまずく。

 それは掌底と共に踏み出された本部の足だった。

 上半身は進み、下半身は停止する。

 必然、彼は更にバランスを崩し、背後に向け倒れ掛かる。

 そこからは本部の力加減の妙。

 絶妙な力加減が巨漢の身体を頭から地面へと着地させる。

 後頭部を襲う、強い衝撃。

 巨漢は己の敗北に気付くこともないまま、意識を手放すこととなった。


 この間、巨漢が殴りかかってから1分も掛かってはいない。

 本部はついでとばかりに今だよろけている小柄な暴漢に足払いをしかけて地べたを這わせる。

 そしてみぞおち目掛け無造作に足を踏み下ろす。

 踏み降ろしたのは人体で最も硬いと言われる踵。そしてみぞおちへの狙いの正確さは暴漢達のそれとは比較にもならない。

 結果、小柄なその暴漢は周造が味わった何倍もの苦痛を受けることとなり、もはや恥も外聞もなく虫のように地べたを転げまわる。


 残された暴漢の顔が怒りから恐怖へと再び色を変える。

 仲間2人を苦も無く一蹴した本部の手並みは信じ難いものだった。

 しかし、当の自称用心棒 本部の様子は依然として変わらない。

 眉間に僅かに皺を寄せ、勝ち誇るでも侮るでもなく淡々とした様子で佇んでいる。

 2人の人間を撃退しながらも変わらぬその表情。そこには虫を追い払ったほどの労力も感じられなかった。

 暴漢かれは怯えた。

 もはや余裕など一欠けらたりともない。

 仲間2人はやられ、次は己の番。いったいどんな目に遭うかと考えれば小便すら漏れそうだ。

 

 いやだ。いやだ。いやだ。


 強い恐怖が暴漢かれを襲う。

 そして恐怖が暴漢かれを最後の手段へと駆り立てる。

 この状況を覆す最後の希望。

 それに縋らんと暴漢かれは己の懐に手を伸ばした。


 懐に手を入れ、目的のそれに手をかけた瞬間。暴漢かれはその動きを止めることとなった。

 原因は眼前に迫った本部の腕。

 今度は掌底ではない。目の前には硬く握られた拳。

 それは暴漢かれが懐に手を入れた瞬間、すさまじい速さで目の前に突き出された。

 顔の数cm手前で止められた拳だが、その風圧は予想以上の強さでもって顔を叩いた。


「・・・・・・三度目。これが最後の警告だ。懐の膨らみ具合から察するに短刀、ナイフの類だと推測する。もしそれを抜くのであれば、これよりは当方も相応の力にて応じさせてもらう。」


 本部の推測通り、懐にあるのはヤミ市で購入した軍からの流出品である折りたたみ式のナイフであった。

 折りたたみでありながらも頑丈で鋭いそのナイフは暴漢かれにとって心強い味方だったのだが、その自信が今や急激に薄れていく。

 目の前の拳の圧倒的な存在感。

 拳には無数の傷が刻まれ、拳頭には分厚いタコが覆っている。

 見るからに堅く、鍛え上げられた拳だった。

 いかに鍛えた拳とはいえ人体。鉄よりも硬い筈はない。

 しかし、理性はそう訴えていても、実際目にしている暴漢かれには懐のナイフを使って目の前のこの拳に勝つという未来がどうしても思い描けない。

 ナイフを抜いたが最後。

 この拳は容易く自分の顔面を砕く。そんな想像が暴漢かれに冷や汗を流させた。


「・・・あ、あんた・・・も、もしかして武道屋か?」


 怯えつつも質問を投げかける。

 武道屋・・・・・・ヤクザや愚連隊のように組織ではなく身に付けた武芸を頼みに仕事を行う武道家崩れの用心棒。武道屋を名乗るほどの者ならばその辺のチンピラでは到底太刀打ちできないほどの実力を持つのが常だった。


 本部は答えない。

 しかし、鍛え抜かれた拳と技。それこそが何よりの名刺だ。

 しばしの静寂。

 本部はおもむろに口を開く。


「三度目の警告・・・返答は如何に。否か?応か?引くというならこれで終わり。しかし引かぬというならば・・・」


「ハ、ハイ!すみませんでした!引きます。引きます!」


 本部の言葉は恐怖のあまり逃げることすら忘れていた暴漢かれにとって天啓だった。

 もはや奪おうとした金のことなど頭の隅にも存在しない。

 すぐさま仲間2人を叩き起こし、ほうほうの体で路地裏から逃げていく。

 バタバタと3人の足音が遠ざかり、路地裏には周造と本部の2人だけが取り残された。



 暴漢の襲来と脅迫、突如として現われた自称用心棒、そしてあっという間の立ち回り。

 それらは突風のように周造の目の前を過ぎ去っていき、まるで芝居でも見ているように現実感のない光景だった。

 呆然とする周造を尻目に逃げていく暴漢を見送っていた自称用心棒がくるりと周造の方へと向き直る。

 引き結んだ口元。眉間に寄った皺。表情はこれまでと変わらない。しかしその視線には何かモノ言いたげな様子が感じられた。


 ・・・ああ、なんだそういうことか・・・・・・


 自称 用心棒――本部の言おうとしているであろうことを察し、周造は少なからず落胆する。

 とどのつまりは、金を払うのが暴漢達ではなく、この自称 用心棒に変わった。ただそれだけのことだ。

 用心棒というのはおそらく嘘ではあるまい。暴漢達から守ってくれたのも事実だ。

 しかしそれも自分の懐を狙ってのこと。

 助けたことを口実にいくらかでも自分から金をせびる気なのだろう・・・

 わかりきった世知辛い現実。

 それでも周造は自分の心にうすら寒い寂しさを感じずにはいられなかった。

 

「・・・ありがとうございました。・・・それで、いかほど払えばよいのでしょう・・・・・・」


 周造の言葉に、本部の眉間の皺がより一層深くなる。


 「しまった!」周造は内心で自分の失言に気付く。

 失望の為もあったのだろう、周造は自分で思った以上にぶしつけな言葉をぶつけてしまっていた。

 仮にも助けられておきながら、この言い草。

 深まった眉間の皺は、この用心棒の怒りを買ったためではないかと内心で恐怖する。

 周造は元より争いごとが苦手な男だ。それでもこの用心棒の強さはまざまざと理解できた。

 その怒りを買ったともなれば、その恐ろしさは先程の暴漢達の比でではあるまい。

 そんな想像が恐怖で周造の身体を震わせる。

 そんな周造の様子に気が付いたのか、本部はおもむろに口を開く。

 一体どんな言葉が飛び出すか?どんな目に合わされるのか?

 恐ろしさに周造はギュッと両の目を閉じる。


「失礼。先程から震えていらっしゃるようですが、やはりどこかお怪我でも?」


 本部の放った言葉は周造の予想外のものだった。

 周造は目を開けて本部の様子を伺う。

 表情は変わらない。しかし、先程よりやや近づいて周造の身体を眺めるその姿はまるで周造の体調を気づかっているようだった。


「・・・怒ってらっしゃらないんですか?」


「怒る?なぜ自分が・・・むしろ、用心棒などと言いながら雇い主を危険に晒したこの不始末。むしろ自分こそがお怒りを受けるべきでしょう。」


 そういって本部は再び深々と頭を下げる。

 予想外の態度に周造は呆気に取られる。

 用心棒と言う者は腕自慢、力自慢であるだけに大概の者は気が強く、プライドが高い。

 雇い主に対しても尊大な態度を取る者もけっして珍しくなく、素行の悪い者であれば、機嫌しだいで用心棒からたちまち暴漢、物盗りに変わるケースも珍しくはない。

 それだけにあっさり頭を下げて詫びる本部の態度は一種異様ですらあった。

 それも一度ならず、二度。猫を被っているのだとすれば随分と念が入っている。


「あ、あの、じゃあお金のことは?」


「お金?給金でしたら皆様の家賃より月々頂いているのですが・・・大家さんからは聞いておられませんか?」


 本部は首を傾げつつ逆に問う。

 本当に金を取る気はないようだった。

 むしろ、しきりに怪我や身体の不調についてしつこいほど確認してくる。

 こうなってくると周造の目も見方が変わる。

 表情にけっして大きな変化はないが、その視線、素振りからは妙に気づかわしげなものを感じる。

 眉間の皺や淡々とした口調もどう接するか、どのような言葉をかけるか慎重に選んでいるようで、どこか好ましい不器用さが感じられた。

 周造の口元に笑みが浮かぶ。

 この用心棒は恐ろしく強いが、どこか奇妙な可愛げがある。

 それが周造が改めて見た本部の印象だった。


「・・・おかげさまで大した怪我もせずすみました。本当にありがとうございます。」


 周造は本部に向け、頭を下げる。

 今度は本心からの感謝だった。

 本部の眉間の皺がわずかに緩み、口から僅かに息を吐く。

 どうやら安堵したようだった。


「そうでしたか。それなら何よりです。ですが、念のため手当てもした方がよいかもしれません。よろしければこのまま長屋までお送りしましょう。」


 そういって本部は先導して歩き始める。

 もはや彼の好意を拒む気も起きず、それについて周造も歩き出そうとするが・・・


「痛っ」


 一歩踏み出したところで、足に痛みを感じた。

 本部はすぐさま振り向き周造の身体を窺う。


「どうやら、捻挫のようですね・・・」


 それが本部の見立てだった。


「そう重いものではなさそうですが、無理をすれば悪化するかもしれません。」


 この路地裏から長屋まではまだそれなりに距離がある。

 痛む足を引きずって帰るのはなかなかの難事と言えた。

 本部はしばらく考え込んだ後、周造に背を向けしゃがみこむ。

 唐突な行動に周造は驚くが、それに構わず本部は言葉を続ける。


「乗ってください。自分がおぶります。」


 予想外の言葉は更に周造を驚かせる。

 さすがに悪いからと断ろうとするが、本部はしゃがみこんだまま頑として動こうとしなかった。

 結果、根負けしたのは周造だった。

 おそるおそる背中に乗るが、本部はまるで重さなど感じていないかのように軽々と立ち上がって歩き出す。

 その歩みは周造が自分で歩くよりうんと早く、そして思った以上に心地の良いものであった。


「何から何まですまないねぇ。本部さん。」


 若干気恥ずかしいものを感じながらも周造は礼を述べる。

 それに対して本部は、


「鉄馬です。」


「えっ?」


「申し遅れましたが、本部 鉄馬(モトベ テツマ)と申します。他の皆さんからは鉄馬、鉄などと呼ばれております。どうか佐々木さんも楽にお呼び下さい。」


「そうかい。じゃあすまないねぇ鉄さん・・・」


「いえ。用心棒ですから。」


 鉄馬の言葉に周造は思わず笑い出しそうになる。

 どこの世界の用心棒が貧乏人の爺さんをおぶって歩こうなどとするのか?

 用心棒であることを強調しながら、腕っ節以外はどこまでも用心棒にそぐわない。

 眉間の皺と無表情な顔とは裏腹にいまどき珍しい随分なお人よしだ。

 

 周造が笑いをこらえる間にも鉄馬は規則正しいリズムで歩みを進める。

 その振動は不思議なほど、周造の眠気を誘った。


 奇妙なほどにお人好しで、どこか不器用な自称用心棒。

 ・・・そういえば、倅も随分不器用な奴だった・・・・・・


 長屋に着くまでの帰り道。

 周造はまどろみの中で息子におぶわれる夢を見ていた。 

 

 



 

 後に第二次世界大戦よ呼ばれる戦争の末期、日本は敵国からの攻撃により国土を戦火にさらされていた。

 特に合計100回以上に渡る、爆撃は国土と国民に多大な被害をもたらした。



 照和20年3月

 このとき行われた空襲は後に『東京大空襲』と呼ばれ、死者数約10万にものぼったという。

 東京の三分の一が焼失したとされるこの空襲により、軍部はもちろん東京に住む全ての国民に多大な犠牲をもたらした。しかし、この空襲がまだ序章でしかなかったことを当時の人々は無論知る由もなかった。



 照和20年5月

 空襲の被害も覚めやらぬ東京にとどめを刺すかのように再び大規模爆撃が国土を襲った。

 後に『第二次東京大空襲』と呼ばれることになる大規模爆撃。

 この爆撃が日本の戦争、そして東京という街に対する掛け値なしのとどめとなった。

 第一次を遥かに超える規模の攻撃と機を同じくして巻き起こった強風により東京は一時再起不能と思われるほどの被害をこうむることとなった。

 多くの死者、そして第一次と合わせて、三分の二が焼失した首都 東京。

 もはやそこに街があったことすら信じられないほどの更地と化していた。

 当時の戦況の劣勢と相まって、ほどなく日本は降伏の道を歩むこととなる。

 当時、某国が日本への新型爆弾の投下を計画しているという噂がまことしやかに囁かれていたが、結果その噂の真偽を確かめる間もなく日本の戦争は終結することとなった。


 戦後

 日本は『GHQ』の監視の下、復興の道を歩むこととなるが、そこで一つの問題が発生した。

 それは日本の首都である。

 爆撃により三分の二までが焼失した東京に首都としての機能など望むべくもなかった。

 文字通り更地同然となった東京を復興するなど、もはや0から街をつくるのとほとんど変わりがなかった。

 無論、GHQにとっても日本にとっても復興は急務である。

 東京の復興を暢気に待つ余裕などあろう筈もない。


 協議の下、日本はある決定を下す。

 それは『関西への首都移転』であった。

 更地同然の東京に固執するより、東京に比べれば遥かに被害の少ない関西に首都とその機能を移すという計画だった。

 計画は実行に移され、戦後の日本はそれまでと大きく様相を変えることとなる。

 天皇陛下、皇居は幕末以来の京都へとその住まいを移し、国交の窓口は神戸、政治,経済の中心は大阪へと据えられることとなった。

 戦後日本は関西を中心に復興、発展を進め、現代まで時を繋ぐこととなる。


 一方、問題となったのは東京である。

 首都機能が移り、なかば切り捨てられるような形となった東京だが、そこに住む人々までいなくなった訳ではない。

 金のある者、頼る当てのある者は関西を始め、他方への移住を進めていったが、東京に住み続ける者も多数いた。

 なんらかの理由があって離れない者もいたが、その大多数は金もなく、当てもなく、行き場のない人がそこへ取り残されるという形だった。

 人はいても物資も国の手も充分に行き届かぬ東京。

 物資や様々な問題をめぐって争いが多発し、一時は無法地帯同然と言われるまでに陥った。

 しかし、国にもそれらに対する充分な手を打つ余裕はない。

 そこで国は更なる決定を下す。


 それは『国民による自衛の推奨』

 これにより一時はGHQによる禁止すら検討されていた武道がむしろ推奨される形まで取られた。

 平たく言えば自分の身は自分で守れということである。

 後世、「愚策」,「政府の無責任」と散々な悪評で語られるこの決定であるが、これにより東京の情勢が一応の沈静化をみたこともまた事実である。


 首都として復興,発展をしていく関西に比べ、東京は戦前とはまるで様相の異なる異質な復興,文化を得ることとなる。

 その一つが用心棒の普及であった。

 自分の手で身を守ることがかなわない人々が対価を支払い、用心棒にそれを求めた。

 力を持つ者がある種の権力ちからを持つようになり、東京にはいくつもの組織、ヤクザの組などが乱立することとなった。

 しかし、組織,やくざ以外にも変り種の用心棒が現われるようになった。

 それが『武道屋』である。

 武道屋は武道の心得のある人間がその腕を頼みに用心棒稼業を始めたことから始まる。

 組織力という意味では前者の存在に劣るものの、個としての力を売りに活動する彼らは戦後東京において一種独特の存在感を得ることとなった。


 本部 鉄馬・・・・・・彼もまた武道屋の1人である。

 細かく分類すれば彼は空手屋と呼ばれる存在だった。


 武道屋は後世の武道愛好家達にとってけっして評判の良いものではない。


 曰く、「道を忘れたならず者」

 曰く、「戦後 日本武道の恥部」


 精神修養に重きを置く、日本武道界において武道屋の名前は忌むべきものとして後世に伝わった。

 武道界の重鎮といえど、自分がかつて武道屋をしていたことは口をつぐみ、けっして人には漏らさないほどであった。

 本部 鉄馬も後世の武道界の人間からすれば「ならず者」のレッテルを貼られるべき存在と言えるだろう。

 故に彼らは顧みることもこともないだろう。

 武道屋と呼ばれた各個人がどのような人間であったのか、何を成したのか。

 彼らにどんな想いがあったのか。

 彼らの『武道』とは?



 これは後世語る者がいない。

 無論、教科書に載るはずもない。

 後世の人間から「ならず者」として扱われる男。

 

 本部 鉄馬 

 彼なりの『武道』についての話である。

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