第9話 ふたりのこれからに関する証明
かなちゃんと友だちになってから、よく眠れなくなった。最近ずっと寝不足気味で、ちょっと辛い。色んなことに慣れて、早くぐっすり眠れるといいのだけど。
「彩絵果、ここ間違ってる」
「え?…あ、ほんとだ」
ぼーっとしてしまった。ただでさえぼーっとしていることが多いのに。
かなちゃんはわたしが解いた問題を赤ペン先生よろしくチェックしている。なかなかマルはもらえない。
「あと、アルファベットの順番違う。この場合はCの角度だからACBにしないと」
「う、うん…」
なかなかに滑り出しは不安。こんなことで次のテストは大丈夫だろうか。
ただでさえ数学は苦手で、基礎的な方程式や関数だけで手一杯なのに、図形の証明なんて手が回らない。でも、絶対証明は出る。織機は公立の学校だから、毎年新聞に載るあの問題が出題される。
織機の合格ラインは7割以上。わたしの成績だと、7割強はとらないと安定圏に入れない。
つまり、この苦手な数学で7割強とらなければ道は開けないということ。
かなちゃんの教え方は上手いとは思う。問題は、わたしがそれで吸収できるか、ということなのだ。
「彩絵果は基本的なところは出来てるから、後は応用部分をどうにかすれば大丈夫。式や定型文はちゃんと覚えてるんだから、これにうまく当てはめれば…ね?」
「うん…」
わたしだってそれなりに頑張りはしたのだ。絶対に使う式や文章は覚えたし。
「織機、行きたいんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、この問題解かなきゃ」
「うん…」
かなちゃんは、勉強に関してはそれなりにスパルタだ。でも、今は頑張るしかない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
案の定、かなちゃんは1時を5分ほど過ぎた頃にやって来た。手土産にお茶菓子を持って来てくれた。玄関で出迎えた母さんの顔といったら。
「はじめまして、彩絵果ちゃんの友人の、羽根田かなです。突然お邪魔してしまって、すみません」
かなちゃんに隙はなかった。よそ行きの笑顔でこれでもかと母さんを陥落させた。
私服は品の良い青のワンピースに、厚手のカーディガン。そういえば初めてかなちゃんの私服を見た。その辺の中学生の子が着る服ではない、絶対に。
わたしといえば、その辺で売っている安い既製品の長袖のシャツと、いつ買ったかも分からないプリーツスカートという格好で、これが月とスッポンというやつか、と納得した。
「あらあら、いらっしゃい。何もないけど、ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます」
いちいち礼の姿勢まで綺麗だ。さすが。
母さんは後でお茶を持っていくと言って、居間に引っ込んだ。本当はかなちゃんに色々と聞きたいのだろうけど。
「案内するね」
わたしの家は、玄関からあがってすぐに2階への階段がある。ビジネスシーンでは客の後ろを行くのがマナーだけど、ここは家だし、先を行ってもいいだろう。
「彩絵果、お母さん似なんだね」
「う、うーんそうかな?」
あんまり誰かに似てるって話題はされない。知り合いが少ないからというのもあるし、そもそも親戚づきあいが皆無に等しいのだ。わたしの両親は北陸の出で、毎年屋根の上の雪下ろしがテレビのニュースで映るようなところ。帰るとちょっとだけ向こうの訛りがうつる。もう何年も、両親の実家に帰っていないけど。
「結構似てるよ」
かなちゃんはどちらに似ているのだろう。両親とも東京とかの生まれなんだろうな。そんな気がする。
階段をのぼってすぐにあるドアが、わたしの部屋の入口。可愛らしいドアプレートはかかっていない。だってひとりっ子だし、部屋数少ないし。
「お邪魔します」
「狭いけど、ね」
わたしの部屋は、多分かなちゃんの部屋の半分くらいだろう。小さな折りたたみの丸テーブルを置いたら通路が塞がってしまう。
「とりあえず、わたし、奥に座るから…荷物は適当にベッドの上でも」
荷物を置くスペースがそこくらいしか無いのだ、悲しいことに。
かなちゃんの高そうな革の鞄が、わたしの安い布団の上にあるのが、ちょっと変な感じ。
かなちゃんはというと、わたしの本棚を見ている。そういえば、かなちゃんの部屋に本棚はなかった。タンスの最下段にしまってあるんだっけ。
「本、凄い数」
さて、ここで問題です。この中に何冊、かなちゃんが持っている本があるでしょう。答えは、少なくとも20冊以上。
「あんまり、本捨てないから増えちゃって」
わたしの本棚は高さが変えられるタイプだから、色んな本が混ざっている。文庫本のスペース、新書、洋書やそのための辞書、あと漫画もいくつか。エッセイとか自己啓発も何故かある。ビジネスマンのためのやつを、買ったのはいつだったろう。
「絵本も結構あるね」
「絵本はそれでも選別したんだけど…」
最下段には好きな絵本がそれなりに。時々退行しているんじゃって思うけど、昔とは違った発見があるからなかなか面白いのだ。
「でも子供向け絵本って、今読むと別のものが見えたりするよね」
笑われるかと思ったけど、ちょっと安心した。もしわたしが絵本を買ったなら、やっぱり同じ絵本を買っていたのだろうか。
「作者の意図とか、結構考えられてるんだなって思って読むと楽しいよね」
誰かが、いちばん大人向けなのは実は子供向け絵本だって言ってた。絵本は意外と侮れないのだ。きっと。
「じゃあ、勉強しようか」
そんないい笑顔で言わないで、欲しいんだけど。
丁度そこに、母さんがお茶を持ってきた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
かなちゃんに勉強を教えてもらってわかったことがある。わたし、覚え方が下手なのだ。
ただ英単語を暗記するように覚えていたから、ダメだってことがよく分かった。
証明問題には法則がある。最初から提示されている情報と、ちょっと手をかければ出てくる情報、このふたつだけで随分パーツは揃って来る。そこから導き出されることや、この条件下で成り立つであろう仮定を用意すれば、証明は完成する。
教えてもらううちに、パターンが見えてきた。数式を覚えるというより、話の流れを把握する感じ。証明には順序がある。
分かってくると、今度は解くのが楽しくなってくる。わたしって単純。
かなちゃんは先生になった方がいいと思う。最近話題の塾講師みたいに、人気者になれそう。
「彩絵果はもっと自信持ったっていいくらいだよ、成績、上がってるし」
「ありがとう。わたしね、かなちゃんに近づくのが密かな目標だったの」
ずっと49位だったけど、今年に入って上がった。次は学力テストだから順位は出ないけど、期末ではより近づけたら嬉しい。
「私に?」
「かなちゃん、いつも張り出される紙で右の端にいたでしょ?わたしは左端ぎりぎりだったから、クラストップのかなちゃんに少しでも近づけたらなって」
羽根田かなの名前は、いつも左端にあった。最近は5番目までに必ず入っている。でも、かなちゃんはきっと1番だって取れるんだろう。
わたしは、あの紙に乗っかるだけでも大変で、毎回結構頑張っているのだ。数学がもう少し取れれば、真ん中までいけるのに。
「じゃあ、私の隣までおいでよ。この調子なら、きっと、来れるよ」
かなちゃんは笑う。顔を、逸らしてはだめ。だって、恥ずかしいなんて思うはずがない。わたしたちはお友だち。わたしはかなちゃんに変な感情は持っていない。嘘じゃない。
「頑張るね」
にこ、と笑う。だって、なんでもないお友だちだもの。
これから猛勉強すれば、余裕が出るだろうか。先生には、まあ行けるだろうけど、もう少し取れた方が良いっていつも言われる。それに、入れたとしても、勉強についていけずに落ちこぼれる可能性だってある。
「かなちゃんの隣に、わたしの名前が並んだら…みんなびっくりするかな?」
「さあ?でも少なくとも、私は嬉しい」
ほら、また来た。
ひんやりした手が、わたしの手に重なる。お友だちって、こういう時こんなことするの?もちろん、聞かないけど。
かなちゃんのこの笑顔は、なんの混じり気もない素直な笑顔。ちゃんとお友だちになれたら、この笑顔に何も思わずに笑いかえせるようになる、はず。
気安い関係になりたい。気を遣わない関係になりたい。空気のように、違和感のない存在になりたい。
かなちゃんはわたしと『親友』になりたいわけじゃない。でも、わたしからすると、それくらいの間柄にならないと、その先は考えられない。これは、わたしとかなちゃんの違い。
「じゃあ、頑張らないと」
わたしの知っている、今までのかなちゃんよりも、何も考えずに笑う今のかなちゃんの方が、わたしの近くにいる感じがする。
戸惑いがなくなったら、素のかなちゃんをちゃんと見れるようになってきた。もちろん、まだ完全ではないけど。
わたしはね、かなちゃん。
かなちゃんの隣に立ちたい。かなちゃんのただ一人の友だちになりたい。
かなちゃんの気持ちへの答えは、証明問題のように、揃えていかないときっと出ない。だから、これからの過程のなかで、パーツを見つけていくのだ。
だから、それまで、待ってて。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
勉強会はそれなりに真面目に進んで、夕方の5時でお開きとなった。
結局、かなちゃんが一方的にわたしに数学を教えてくれるだけだったから、かなちゃんの勉強にはならなかったかもしれない。
ひとに教えると整理されて理解が増すなんて言うけど、これ以上深めたところでかなちゃんはカウンターがストップしている気がする。
「お邪魔しました」
深々と頭を下げて、かなちゃんは帰って行った。次に会えるのは月曜日。
母さんはとても上機嫌で、あんなにいいお友だちができて良かったわねって言ってくれた。ただ、なんでこの時期なの?とは聞かれた。
まさか、告白されたからですなんて言えないから、偶然本屋で会ったことにしておいた。もしわたしたちが、2年でクラスが別れていたら、かなちゃんがとった方法。
かなちゃんに度胸とか勇気が備わっていたら、わたしは結構あっさり陥落していたと思う。かなちゃんがあの日、勇気がなかったと言っていたけど、きっと実際は半々だったのだ。修学旅行にわたしが来ていたら、かなちゃんはあの日、告白しなかったかもしれない。
今考えると、かなちゃんは結構性格の悪い子だ。底意地が悪いというか。計算高くて、ずるい。でも、勇気はなかった。
そう思うと、ちょっと可愛く思えてくる不思議。やっていることはあんまり笑えないことばかりなのに。
部屋に戻って、ベッドに寝転んだ。さっき重なった右手を照明にかざす。かなちゃんは、わたしの手によく触れたがる。
今日はちょっと触れただけだったけど、昨日はずっとわたしの手を握っていた。
わたしも手を繋ぐのは好き。手を伝って、わたしの考えていることが、ちょっとでも、かなちゃんに伝わっていく気がするから。それに、体温が同調する。かなちゃんのちょっと冷たい手が、わたしの温い手であったまっていくのが、わたしは結構好きなのだ。
あんまり、世間様では手を繋がないって、知っている。でも、好きなものはしょうがない。これ以上なく目立っているんだから、繋いだって繋がなくたって、きっと大差はない。
今日は、平和だった。
昨日は、ちょっと、色々あった。
かなちゃんが呼び出されたり、竹下さんが突っかかって来たり、かなちゃんの3年もの片想いのあらましを聞いたり。
かなちゃんには勝算があったんだろう。話を聞いても、わたしがかなちゃんを嫌いにならないってきっと思っていたはず。確証はないから、不安から手が冷たくなっていたけど。
随分とまあ、わたしはかなちゃんの手の上で踊らされている。
ちょっと、不本意だ。そりゃ、かなちゃんの方がなんでも器用に出来るけど。
こうなったらちょっと、意地を張ってやろうではないか。
これから先、じっくり仲のいいお友だちになってやる。簡単に好きになったりなんてするものですか。たくさんたくさん、かなちゃんに『お友だち』を強要してやる。
わたしだって、性格は結構、悪いのだ。
今日は、ぐっすり眠れた。




