第6話 初恋のひと、桜の精
入学式の日は、雨だった。
両親共に仕事で、私は誰か特定の友人がいるわけでもなかったから、すぐに帰ろうと思っていた。
これから通う中学校は、最近建て替えられたばかりで、確かにどこもかしこもきれいではあった。普段は使えないけど、エレベーターも設置されている。学校の施設紹介が明日あるらしいけど、別に見るほどのものでもない。
傘を差して歩き出すと、人の渦に巻き込まれそうになること、多数。あちこちで群れているから、道らしき道はない。
おろしたての制服だけだと、今日の天気では寒い。セーラーカラーがひらひら揺れたり、やや固そうな詰襟をきっちり上まで留めたりした新入生の中、私はさっさと校門を目指した。
校門を出てすぐにぶつかる大きな通りには、色とりどりの傘が咲いていた。この雨の中、入学式の立て看板の前で写真を撮る新入生とその親や、同じ小学校から来た子達がなんの部活に入るとか、そういうことで賑わっていた。はっきり言って、なかなか進めない。
いっそ傘を閉じて、ひと思いに走り抜けようかとも思ったけど、それはそれで癪なので、私は引き返した。
校舎の中庭には桜の木が何十本も植えてあって、それなりに盛りの頃だった。時間つぶしにはなるだろうと思って立ち寄ったけど、綺麗か、と言われれば綺麗だ。
今日の生憎の雨で、随分散ってしまうだろう。夕方までには止むと予報では言っていたけど、さっさと止んでほしいのが実際のところだ。だって寒い。
校舎を見上げると、最上階の窓から、人の影がちらほらと見えた。教室に残って、最初の友達づくりに励んでいるんだろう。ご苦労なことだと思う。
私は、小学生の時に特定の友人を作らなかった。特に必要だと、思わなかったから。よく声をかけられることはあったけど、誘いに乗ったことはないし、興味もなかった。恐らく、他人のことがどうでも良いのだ。自分の中に、他人にくれてやれるだけの空き場所はない。
花時雨の空は濁っていて、幸先の良くなさそうな初日になった。別に中学で青春したいだのなんだのとは思っていなくて、私にとっては高校に進むための通過点に過ぎない。そしてその高校でも、私はどうのこうのするつもりはない。
他人への関心どころか、自分への関心も、私はたぶん持っていない。どうでもいいのだ。それはあまりにも自己が希薄だということだけど、希薄であることで、困ったことって、今までの人生で何もなかった。だから、私はこのままなのだろう。
そう、思っていたのだけど。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
校門のほうを見ると、まだ人だかりがある。肌寒いし雨だし、そろそろ帰りたいというのが本音。確かにしとどに濡れる桜はきれいだけど、もう十分堪能した。私はそこまで、花が好きじゃない。
帰ろうと踵を返しかけた、その時だった。
ひときわ強い風が吹いた。飛ばされるんじゃないかって、思ってしまうほど強くて、思わず目を閉じようとした。でも、閉じなかった。
視線の先に、実は人が立っていると気づいたから。
私のいる場所よりずっと奥、グラウンド寄りの場所。この風の中、びくともせずにまっすぐ、桜の木を見上げている。
風に舞う雨と桜の花びらが、その人の周りで渦を作っているようだった。
女の子だ。私よりも背が低くて、華奢だ。髪の毛はやや茶が混じっていて、たぶん肩までしかない。というのも、風であっちゃこっちゃに乱れていて、正確な判断ができない。
風が止んだのは、すぐのことだった。女の子は今しがた風が吹いていたことなんてまったく気づいていないみたいで、変わらず桜を見上げている。
もちろん、こちらの視線に、気づいていない。それをいいことに、私はそろりと近づいた。そしてその行動に、自分が一番びっくりした。
他人への興味を、私は今、確かに持っている。どうでもいいと思っていた他人に、関心を抱いている。
さっきまでの冷めた私はどこへなりを潜めたんだ。そう、思わずにはいられなかった。
静かに雨音が再び私の傘を叩き出した。そこまで強い雨ではないけど、傘をささずにいられるほどでもない。既に女の子のおろしたての制服は濡れに濡れていて、このまま放置したら風邪を引くのは目に見えていた。
雫が、女の子の頬を絶えず伝っている。泣いているみたいだった。でも、女の子はちっとも悲しい顔はしていない。それほど、桜に心奪われているようだった。
女の子が見上げている桜を見た。普通の桜だった。私にとってはただの桜だけど、女の子にとっては、違うのかもしれない。
風邪引くよ、って傘を差し出すのは容易いのに、私はその肝心な声が出ないことに気がついた。私の前に立つ女の子は、きっと傘を差し出されても気づかない。だってその凛とした横顔は、私を全く見ていない。声を、かけないときっとこちらには気づかない。
でも、声は出ない。
声の出し方を忘れてしまったみたいに、声は出ない。ぱくぱくと開くだけの口、何故か少し震えている。
肌寒いはずなのに頬は熱くて、心臓がどきどきうるさい。
風邪を引いているのは、私の方かもしれない。厄介な風邪だ、きっと寝ても治らない。
どうしよう、と考え込んで、私はその場に、傘を置いた。なんだかここにいる自分が恥ずかしくなって、逃げるように校門を抜けて、人の波をくぐり抜けて、そのまま家に帰った。部屋の扉を乱暴に閉めて、そのままドアを背にへたり込んでしまった。
結果的に、私の制服もえらく濡れてしまったけど、それどころじゃなかった。
心臓がこんなにうるさいのは、走ってきたからというだけじゃない。頬が、こんなに熱いのも。
なんで、どうして。
頭の中に、疑問がぐるぐると駆け巡る。でも、答えは出ない。私に、都合の良い答えは出ない。
都合の悪い答えは既に出ていて、私は天井を仰いだ。
女の子の、横顔がフラッシュバックする。そこにいるのに、いないみたいな儚さがあった。頭の悪い話、桜の精が人の姿に化けて出て来たのかって思ってしまうくらいに。
でも、桜の精は、血の通った人間で、私と同じ新入生だ。脇に置かれていたカバンに、新入生がつける花の飾りがつけられていた。
名前も知らない、どこのクラスかもわからない、女の子。
自分と同じ性を持って生まれた、名前も知らないその子に、私は関心を抱いた。そして、自分では認めたくないけど、変な感情を持っている。
「どう、しよう」
自分がこんなに、頭の悪い人間だなんて知らなかった。さっきまでの私が、これではあまりに滑稽すぎる。
だってこれは、この感情は、
「明日になったら、熱は冷めるかしら」
花時雨のその日、私は名前も知らない桜の精に恋をした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
結局、一晩悩みに悩んで、寝て起きて、熱は冷めていなかった。
特に私は、女の子が好きなのだろうかと、笑えない位真面目に考えた。でも、その答えは否。だって桜の精以外の女子を見ても、私はちっともときめかない。
登校途中、いろんな女子を真面目に見たけど、全くなんとも思わなかった。
登校初日、私のクラスに早速欠席者が出た。風邪らしい。まさか。
欠席者は湯井彩絵果という名前の女子らしい。まさか。
休み時間に、クラスの女子から、結構な数、声をかけられた。冷たくあしらおうかと思ったけど、やめた。だってこれは、チャンスだ。
私は、どうやら人目をひく外見をしているらしい、ということは知っていた。小学生の時に、男子からそれなりに告白された経験もあるし、女子に囲まれることも何度となくあった。
小学生の時は、面倒臭かったから相手にすらしなかったけど、今はちょっと話が違う。
好きな子ができてしまった。そしてその子と、きっと同じ小学校から来ている子が、このクラスにいるかもしれない。
名前も知らない桜の精のことを、私は知りたい。桜の精から、人間にしたい。血の通った女の子としての、彼女を知りたい。
一体この衝動がどこから湧いているのかはてんで見当がつかないけど、気になるものは気になる。
「ねえ、そういえば…湯井さん、だっけ?今日休んだ子。どんな子なんだろうね」
それなりに話を弾ませてから、そんなことを聞いてみた。まだ、そうだとは決まっていないけど、でも、可能性はある。
すると、やはり湯井彩絵果と同じ小学校の出身の女子がいた。峯田という名前だった。
「あの、ぼーっとしてる子でしょ?昨日、びしょ濡れになって帰ってるの見たよ。傘、さしてるのにびしょ濡れなんて変なの」
確信した。昨日の子だ。桜の精は、名前を湯井彩絵果というらしい。
そして峯田と、湯井彩絵果はあまり良好な関係ではないようだ。
どうやら桜の精は、私の置いていった傘を拾ってくれたらしい。今朝確認したら、中庭に傘はなかった。もしかしたら、別の人が持っていった可能性も、まだ捨てきれないけど。自分の傘をカバンに入れていた可能性があるから。
昨日教室で見たときはその存在に、全く気づかなかった。私が全く周囲を見ていなかったからだけど。
「へえ、じゃあ昨日の雨で」
「じゃない?割と、風邪で休む子だったし」
そして、あまり体は頑丈ではないようだ。私の中で、湯井彩絵果という女の子が形作られていく。
「それより、羽根田さんは部活とか入らないの?一緒に見学行こうよ」
「あ、あたし今日吹奏楽部の見学行くんだけどどう?」
「羽根田さん背が高いし運動部は?」
活発そうな女子ーーー確か赤松という名前だったーーーが、目をキラキラさせてこちらを見ている。だが生憎、私は運動が得意ではない。水泳なら小学生の間ずっとやっていたから、そこそこできるけど。
「私、スポーツとか、苦手なの」
困ったように笑うと、赤松は残念そうな顔をした。
峯田の他にも湯井彩絵果のことを知っている人間がいるはずで、そのためには峯田のことを知らなければならない。
顔がいいなら、ついでに性格も良くすればきっとうまくいってくれるだろう。皆、そういう子が好きだろうから。
「羽根田さんじゃなくて、かなでいいよ。かなって呼んでくれる方が、嬉しいし」
にっこり笑ってみせれば、ほら、峯田が食いついた。他の女子もついてきたけど、この女子たちの輪の中に、湯井彩絵果の情報があるかもしれない。だからまあ、良いことにする。
湯井彩絵果が学校に来たのは、翌日のことだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
今日の段階で分かったことは、あまり多くはなかったけど、少なくもなかった。
湯井彩絵果という名前であること、実は家が私の家とそれなりに近いところにあること、小学時代、ほとんど友達がいなくて、いつも図書室で本を読んでいる子だったこと、運動が苦手なこと、など。
話しかけて来た女子や、峯田の繋がりで知った女子の情報で、どうにか集めることができた。でも、聞き出すというのは難しい。
それとなく、なんでそんなこと知りたいの?と言われたときに怪しまれない程度の関心だと思わせる必要がある。つまり、いきなり休んだ子が、どんな子なのか気になった、という範囲をはみ出してはいけないのだ。
はみ出さない程度に探りを入れた結果が、これだ。
そして、どうも湯井彩絵果のことを、皆見下している感じがする。恐らくは、友達がいないことや、大人しい性格からだろう。
人は無意識のうちに他者と比較する生き物だ。皆自分より下と思える人間を見つけると、心のうちで安堵する。こんなやつがいるのだから、自分はまだマシだと、そう思えるから。
そして、湯井彩絵果は、その対象に選ばれてしまっている。小学校の時に何かそういうエピソードがあったのかもしれないけど、それだったらもっと情報の端にそういうことが付随しているはず。そうなると、単に大人しくて何も言わない子だから、不気味がったり馬鹿にしたりという、幼稚なものの餌食になったということなのだろう。
私は小学時代の湯井彩絵果を知らない。昨日の、あの少しの時間の彼女しか、私はまだ知らない。
知らなければと、思った。それは、他ならぬ私の意思。今までの冷めた自分から、大きく様変わりしてまで、知りたいという欲望に忠実に動いている。
それにしても、何故皆気づかないのだろう。あんなに華奢で、儚くて、可愛らしいのに。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
放課後、誰もいない教室で、今日手に入れた情報をノートにまとめてみた。生年月日は、意外なところでわかった。
私の手には、湯井彩絵果の生徒手帳がある。
皆が帰った後に、なんとなく机の中を覗いてみたら、入学式に配られた封筒がそのまま入っていた。本当にぼんやりしている子なんだろう。
封筒の中には、生徒手帳が入っていた。まだ写真が貼られていない、真新しいそれ。湯井彩絵果の名前と共に、生年月日と住所が本人の字で記入されていた。
細くて、少し頼りない字体だ。きっと繊細な性格なんだろう。
「湯井彩絵果、6月19日生まれ…住所は在町3条1丁目15-3…ここからそんなに離れてない。在町は隣の小学校の校区」
桜の精は湯井彩絵果という少女になって、私の近所の人になった。
こんなことをしなくたって、本人に直接聞けばいいのである。でも、その勇気は何故か出ない。声をかけられる自信が、ちっとも湧かない。
何故だろう。何故、こんなにも弱気なのだろう。
湯井彩絵果という存在が、私の中でどんどん大きくなって行く。でも、大きくなればなるほど、私は怖くなっていく。
情報を書き終えて、手帳を封筒に入れる。封筒を机の中に戻して、そして私は教室を出た。誰にも見られていないのに、少し心臓がうるさい。
薄暗い廊下を歩いていると、グラウンドにいる、部活動の生徒の掛け声や、その脇の道路を走る救急車のサイレンが聞こえる。
ふと中庭が目に入った。
見下ろした中庭は、まだピンクがそれなりの領土を持っている。
また湯井彩絵果は中庭に立つのだろうか。立って、桜を見上げるのだろうか。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
朝早く学校に行くと、先に中庭に立ち寄った。風邪がもう治っているかは分からないし、こんな時間にいるとは思いづらいけど、立ち寄らずにはいられなかった。
まだその声を聞いたことすらないのに、どんな子なのか、この目で確かめたわけでもないのに、私は湯井彩絵果のことで頭がいっぱいになっている。
湯井彩絵果の何が私をここまで駆り立てるのか、私はよく分からない。そもそもこの感情が、恋なのかも分からない。
でも、知らずにはいられなくて、こうして、動かずにはいられない。今の私は何者だろう、私がよく分からなくなってきた。
中庭はしんとしていた。散った桜の花びらが緑の芝の上に点在していて、花びらを踏まないで歩くのは不可能に近かった。
周囲を見渡したけど、湯井彩絵果の姿はない。当然のことなのに、落胆している自分がいる。
ひんやり冷たい外気に身震いして、教室に戻ろうと踵を返しかけた、その時だった。
いつぞやと同じように強い風が吹いた。今回は目を閉じた。だって誰もいないから。 でも、目を開けて、ちょっと後悔した。
「あの、」
その時、ひときわ心臓が強く跳ねた。
ギシギシと音がするくらいぎこちなく振り向いて、私はまた、声の出し方を忘れた。
湯井彩絵果が、立っている。私の目の前に、確かに、立っている。
「あの、えっと…おととい、ここに置いてあった傘なんですけど…あなたのですか?勝手に、お借りしてしまって」
あまり話すのが得意ではないのかもしれない。つたない、自信のなさげな声。私の心をぐちゃぐちゃにかき乱す、声。
柄の細い、赤いチェックの傘。少し前に買ったばかりの、私の傘。
その傘を、湯井彩絵果が持っている。私の傘で家まで帰ったのだ。私の傘で!
どうにか声の出し方を思い出して、私は口を開いた、
羽根田かなという女の子の、初恋の話はあともう1話続きます。
かなちゃんって、割と可愛げのない子です。湯井彩絵果という女の子のこと以外はどうでも良くて、湯井彩絵果のこと以外は気にもとめない子。でも、まだまだ序の口です。




