第1話 始まってしまったことがら
「ーーーあの、付き合ってください!」
放課後だったと思う。
考え事をしていたら、気づけばもう空は赤くなっていて、そういえば寒くなったな、なんて呑気に思っていた。校舎裏のベンチの前には、わたしと、もう一人。
それは中学3年の秋で、わたしは友達一人いない残念な子だった。
せっかく買ってもらった携帯電話のアドレス帳を持て余して、結局電源を滅多に入れないで、そのくせ電源を入れるとあるはずもないメールや着信に期待する、そんなかわいそうな子。
いじめられているわけでもないのに、滅多に誰かと話すこともなくて、クラスでもいつも一人で、修学旅行の班決めで最後まで余って。結局具合が悪いとか言って、行かなかった。
そんなわたしなのだけど、この日、珍しく、本当に珍しく、向こうから声をかけられた。
声をかけられたのだと気づいたのは、話しかけられてから少し経ってからだった。
あまりにも人と話さないから、自分が別の人格を作り上げて会話でもしているのかと、真面目に疑ってしまったから。
「あの、えっと…どちらまで?」
考え事をしていたせいで、わたしは言葉を途中からしか拾えていなかった。だから、そんなトンチンカンなことを言ってしまったのだけれど。
「…あの、私の言ったこと、聞いてました?」
肩をわなわなと震わせて、顔を真っ赤にしてそんなことを言った相手に、わたしはまさか、と目を丸くするしかなかった。
「あの、すみません…途中からしか、聞けてなくて」
なんとなく、何を言われたのかは察しがついてはいたけど、こんなわたしだから、聞き間違いなんじゃないかって、だからそんなことしか言えなかった。
「じゃあ、もう一度言います」
だけど相手は親切で、もう一度を許してくれた。
ちゃんと相手を見て、わたしがびっくりしているのもつかの間、彼女はわたしに向かってこう言った。
「ずっと、前から好きでした…だからあの、付き合ってください!」
人生初の告白は、涙目の可愛い女の子だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
羽根田かなという名前の女の子を知らない人は、少なくともわたしのクラスにはいないし、この学校規模で考えてもたぶん、知らない人の方が少ない。
彼女はとても可愛らしい女の子で、性格も良くて、人当たりの良い人気者だった。彼女のまわりにはいつも人がたくさんいて、いつも彼女はにこにこ笑っていた。
成績はいつも上から数えた方がずっと早くて、運動はやや苦手らしいけど水泳はとても得意で、それでいてやっかまれることのない、男女共に人気のある凄い子だ。
わたしは運の良いことに羽根田さんとは3年間同じクラスで、行かなかった修学旅行も、羽根田さんが自分の班にわたしを入れてくれた。
とは言っても、わたしには友達が一人もいない。羽根田さんとだって、そんなに仲がいいわけじゃない。ほんとにごくたまに、話をする程度でしかない。帰る方向は一緒だけど、いつも皆に囲まれているから、話しかける機会もなかったし。
そんな卒業したら忘れられるような、薄い関係でしかないはずのわたしに、なんの取り柄もないと断言せざるを得ないわたしに、羽根田さんは告白して来た。
第一の感想は、ドッキリか何かなのかな、だった。
だからわたしは、これが羽根田さんの演技なんじゃないかって、思ってしまった。どこかから私たちを撮影しているカメラがあって、面白おかしくそれを見ている人がいるんだろうって。
だから、聞いてしまった。
「えっと、どういうことですか?わたし、知っての通り面白くないひとだから…ご期待には添えないかと…」
思わずあたりを見回したわたしを、羽根田さんは今度はきつく睨んだ。
「ドッキリとかじゃ、ないです」
私はますます混乱した。
ドッキリじゃないなら、なんで告白なんてしてきたんだろう。わたしは仮にも女で、羽根田さんも女だ。残念なことにわたしは印象の薄い顔で、すぐに忘れられてしまう程度の造形である。さっきも言ったとおり取り柄なんて一つもない。
「なら、どうして…」
あ、と言う前に、堤防は決壊してしまった。
ぼろぼろこぼれてきた涙に、わたしはどうしようと慌てた。
俯いてしまった羽根田さんになんて言葉をかければいいのか分からなくて、両の手をわたわたさせるしかなかった。
「だから、私…好きなんです、あなたのことが!」
涙声で言われると、とても、こう、罪悪感が募る。
ごめんなさい、と謝ろうかと思って、でも今それは逆効果でしかないってことはわたしにでも分かっていた。
「だけど、わたし…好きと言われる理由が、分からないんです」
それはわたしの心からの言葉で、これほどまでに卑屈な言葉もそうないだろうな、と心の内で笑った。
でも本心だ。だってそれらしきエピソードは何一つとしてない。友達ですらない、それが羽根田さんとわたしの関係。強いて言うならクラスメイト。
羽根田さんは何も言わず、俯いたまま、私の右手を掴むと、そのまま自分の方に思い切り引き寄せた。必然的にわたしは羽根田さんの胸元に引き寄せられて、ぶつかったと思ったら、今度は強く抱きしめられていた。
身長が170センチもある羽根田さんと、150半ばしかないわたし。だから、わたしは羽根田さんの腕の中にすっぽりとはまって、随分早い心臓の音をどこか遠くに聞いていた。
「私が、本気だってこと、分かりました?」
上ずった声が降ってきた。
嘘じゃないことはもうはっきり分かっていた。これで嘘だったら羽根田さんは女優にでもなった方がいい。
だけど、分からなかったのだ。
羽根田さんがわたしに好意を持った理由が、こんな風に抱きしめて、わたしに迫る背景が。
「…わたしの、どこが、その…好きなんですか」
「全部」
「いつから、わたしのことを?」
「初めて会った時から」
「なら、なんで今なんですか?」
「…ほんとは、もっと早く言うつもりだったけど、勇気が出なくて…」
相変わらず心臓は早くて、声は上ずっている。
答えは出なかった。突然すぎて、なんて言えばいいのかちっとも分からなかった。
でも、ここで断りでもしたら、明日から教室にわたしの席は無い気がした。
かと言って、はい、とすんなり答えることはできない。どうしよう、なんて答えればこの状況から切り抜けられるんだろうって、わたしは必死に考えた。
「あ、あの…」
付き合ってくれと言われても、いきなりすぎて戸惑いしかない。だから、
「わたし、あなたのこと…全然知らないから、お友達から、じゃ…ダメですか?」
なんとも情けない返しだった。だけど、これがわたしの精一杯。これ以上を、人付き合いが希薄なわたしに求められても困る。
羽根田さんはしばらく黙っていたけど、心臓の音が落ち着いた頃になって、わたしを解放した。
「仕方ないから、それでいい」
素っ気ない声だったけど、納得してくれたようだった。
「えっと、じゃあ、お願い、聞いてくれますか?」
今度はわたしが緊張してしまう。
だけど、きっと断られることはないはず。だって、相手はわたしのことが好きなんだから。
「け、携帯のアドレス…交換してください」
言えた。
やった、わたしはやっと言えた。ずっとずっとシミュレーションしてきたこの言葉を、やっと、3年の終わりになって!
「…携帯、貸して?」
羽根田さんはぽかんとしていたけど、わたしの携帯を預かると、手早く登録を済ませてくれた。
ガラケーだったら赤外線通信で簡単なんだけど、わたしも羽根田さんもスマホで、赤外線の機能はついていない。でも、数分経たずにわたしのアドレス帳には、羽根田かなという名前が登録されていた。
「あ、ありがとう…」
「私が、一人目だね」
親すら入ってないわたしの、まっさらなアドレス帳に、初めて登録されたのは、わたしのことが好きだという、学校一の人気者。
「帰ろう、もう暗いし」
「え、ああ、ほんとうだ…すっかり忘れてました」
空を見れば赤どころか暗い青になっていて、途端に肌寒くなった。ベンチに置いておいたカバンを肩にかけて、わたしは歩き出す。
「敬語」
「えっと、あの、ごめん…」
その指摘に、さっきまで羽根田さんだって敬語だったのに、なんて、言うことはできなくて。
「帰ろ?」
差し出された手を、拒むことなんて出来やしなくて。
細くて長い指にはちゃんと骨が中に入ってて、力もそれなりに強かった。
「『羽根田さん』ってもう呼ばないでね、彩絵果」
「え、う、うん…」
ずるい。そんなのはずるすぎる。きれいな顔の人は、気安い笑顔一つだって武器になるなんて。
まっすぐに向けられたその顔を、わたしはまっすぐ見れなかった。
これが、わたし、湯井彩絵果の、遅すぎる春の始まり。
よろしくお願いします。