09
反射的に振り返ると、ニヤニヤと笑う男が立っていた。同学年。見覚えは無い。無いが、しかし。
身体が、震えて仕方がない。
「よー、久し振り」
軽薄そうな挨拶。その言葉に、好意など一切ない。
「あいつらが言ってた通りだな。やっぱお前、こういう静かで誰にも見られないところが好きなんだな。なら、やっぱさあ、──内心では、襲われたいってことじゃねーの?」
その言葉に、ハッとする。襲う、とこの男は言った。
「あ、あの時の……!?」
慌てて立ち上がるが、上手く力が入らない。早く逃げなくてはいけないのに。ここには、救世主は現れない。
「こ、来ないで、ください……!」
叫べば、少しは手足に力が入る気がした。それでもいつもより鈍い。どうして動かないの、と悔しい気持ちになりながら、もどかしく後退りをする。
「そうだ、あんな女、怖がる必要なんて無ぇよ。都合良く現れるなんてあり得ねぇ。はは、そうだよなぁ?」
男は、よく分からないことを言って、更に笑みを深めた。決して好感を抱く笑みではない。
コレットが少し下がる度に、一歩男が踏み出す。嬲るように、距離を詰めていく。
あと一メートル。
「──あの程度では物足りなかったか?」
冷めた声が、響いた。
男の変化は、それはもう、分かりやすかった。顔はサッと青褪め、身体は傍から見て分かる程、ガクガクと震えていた。
コレットは、恐る恐る、声の主を見た。とても綺麗な女が立っていた。
軽くウェーブのかかった、輝くような銀色の髪に、強い意志を感じさせる金色の瞳。その瞳は、非常に冷たい光を灯し、男を映している。何故か、学校だというのに、黒いドレス姿だ。太腿までスリットの入った扇情的なドレスだったが、彼女にはよく似合っていた。
「たった三つの約束だ。お前、その三つを悉く破ったな。余程私をナメているとお見受けするが、……なあ、どうなんだ?」
「そっ……俺は、い、いえ、あの……」
銀髪の女は、にっこりと笑った。
「それとも、“バレなきゃいい”、とでも思ったのか?」
残念、全部バレバレだ。
女は言い放ち、軽い足取りで男に近寄っていく。ヒッ、と男は先程までの威勢はどこへやら、情けなく悲鳴を上げ、へたり込む。そのまま、這って逃げようとしている。
「……腕の一本ぐらい、イッとくか?」
ん? とやはり笑いながら、女は言う。しかし、よく見ると目が全然笑っていない。
「や、止めてください! そこまでしなくても……!」
コレットは、我に返り、慌てて止めた。いくらなんでも、腕を折るのはやり過ぎだ。
女は、コレットを一瞥した。その視線に身体を震わせたコレットだったが、女は気にしなかったらしい。ふうん、とまた男を見下ろし、「まあ、コレットが言うなら、腕は許してやるか」と言い、足で男をグリグリと踏み付けた。
「まあ、骨折は免れた訳だが、──おい、そこの隠れてる女三人。そう、今ビクついたお前らだ。名前は……なんだったか、ピクルス? 違うな、ああ、ピアルスだったか。後の二人は、あー、あー、アップルとオレンジみたいな名前だった。駄目だ、思い出せない。まあいいや。顔とニオイは分かってるから」
食べ物の名前は憶えられても、人の名前は憶えるのが苦手なんだ。特に興味が無いやつの名前は。
女はそう言い、自分の失態を紛らわせるように、男を更に踏み付けた。多分あれは八つ当たりだと、コレットは思う。
「いいか、この男が忘れたようだから、もう一度言う。あと、そこの三人にも言っておく。三つのことを守らないと、私は本当に腕でも折るぞ? 力加減を間違えると死ぬから、させないでくれよ? はい、いち、彼女には手を出さない。に、女を襲うような真似は金輪際するな。さん、私のことを口外するな。以上だ。簡単な話だろ? その簡単なことをこの馬鹿は半年も経たずに破ったけどなあ?」
余程それが気に食わなかったのか、女は更に力を入れて、踏み詰っている。男から漏れてくる悲鳴が、痛々しい。
大事なことだから、もう一度言う。
女はそう言った。この男は一度だけだと憶えられなかったようだ、お前たちも同じだったら困るからな、と。
女は、三箇条を復唱した。
それから、一度目には言わなかったことを、口にした。
「コレットは、私の大事な友人だ。私は友情に厚い。だから、傷付けたらタダじゃおかない。憶えておけ」
最後に男をゲシッと蹴って転がすと、まるで犬にするように、しっしっ、と手で払った。
プライドの高そうな男は、しかしそれに対してもなんの文句も言わずに、慌てて逃げて行った。ちょっと待ちなさいよ、と続けて響く女たちの声と、走る足音。
やがて、シンと静まり返った裏庭に、予鈴が鳴り響いた。
「あ、授業始まる。コレット、大丈夫か?」
「え……あ……」
「調子が悪いなら、遠慮無く保健室で休むといい。付き添いたいところだが、生憎私は、あまり表立って動けない。やつらの手前ハッタリをかましたが、今回は偶然見掛けただけだ。だから、お前もいくら庭いじりが好きだからって、あまり一人になるな。今後はしっかり気を付けないと駄目だぞ?」
矢継ぎ早にそう言って、女は言いたいことを全て言い切り満足したのか、ふう、と息を吐いた。
何度か頭の中で咀嚼し、どうやら彼女は自分のことを心配してくれているらしい、と気付いた。しかし、何故?
「ほら、行け。お前が行かないと、私が動けないだろ」
急かされて、慌てて立ち上がる。土まみれになった制服を叩き、土を落とすと、女に深々と頭を下げた。
「助けて頂いて、ありがとうございます!」
顔を上げると、女はきょとんとしていた。何故礼を言われたのか、分かっていない顔だった。しばらく考えた彼女は、「別に私が嫌だったから、やったんだ。だから礼はいい」と答えた。
「でも、それじゃああまりにも……」
男の口振りからだと、コレットは以前にも彼女に助けて貰っていたようだ。知らなかったけれど。女は、コレットの戸惑いに気付いたのか、うーん、と唸ってから、悪戯っぽく笑った。
「それなら、こうしよう。もし次にどこかで会ったら、クッキーを私にくれ。それで手を打とう」
「クッキー、ですか?」
「ああ、そうだ」
何故クッキーなのだろう。コレットは、首を傾げたが、最終的には了承した。
「では、住まいを教えて頂けますか? クッキーはお渡しする日に合わせて焼かないといけないですし。届けます」
「届ける? いや、それは困る」
「そ、それならどうしたら……」
「あー、会った時で良いんだ、うん」
なんの解決策にもなっていない。コレットは、気持ちを切り替えた。
「なら、せめて名前を教えてください」
こんなに立派な銀髪と金眼なのだ。あとは名前さえ分かれば、見当が付くだろうと思った。
女は、少し考えてから「ラウラ」と名乗った。
「ラウラさんですね、私はコレットです。……って、知っていらっしゃいましたね」
でもどこでだろう。訊ねようとしたら、「もういいだろう。ほら、行ーけー」と背中を押された。詮索されたくないらしい。何か事情があるようだ。
仕方なく、コレットは校舎に向かって歩き始めた。不意に後ろを振り返ると、彼女はまだコレットを見守っていた。
銀髪。金眼。うーん。
どこかで見た組み合わせだ。
どこで見たのでしょうね!