彼女が決めた大切なもの 中編
「ドナート=ダニエーレ」
それが彼の名であると、その時に知った。
頭痛を抑えるように、こめかみに添えられた手。ひくついた口元。なんてことをしてくれたんだ、と言いたげな目。少女を引っ掴んだままの男――ドナートというらしい――を目の前に立たせ、自身は椅子に座っているところからして、彼はドナートの上司か。
「貴様は自分が何をしたのか、わかって――」
「団長、こいつぁすごく強いですよ! それにおもしろい! いやあ、いい拾いモンをした!」
「全然、まったく、わかっていないだろう!?」
ダンダンと机を強く叩く音に、少女は悟った。どうやら目の前の彼は、自分の味方である可能性は薄いが、被害者という意味では同じらしい、と。
それだけ言われているというのに、一切合財気にも留めていないこの男は、どれだけ図太いのか。心臓に、いやむしろ脳にさえ毛が生えているに違いない。
「ああ、俺はもう終わりだ……」
頭を抱え始めた上司の後頭部を見下ろしながら、ドナートはむんと胸を張った。
「話は以上ですか。帰っていいですかね」
「いいわけあるか!」
勢いよく立ち上がった上司は、「いいか?」と詰め寄る。
「こんなことは前代未聞だぞ。巡回中に、騎士が人を浚う? それも――」男は声を潜めたが、それは結局少女の耳に一言一句間違えなく届いた。「――ソレは、この町で、化け物、と言われているんだろう。それを“拾って帰る”などとは」
ふむ、とドナートはひとつ考え、口を開いた。
「要するに、町の輩は、コレを要らんということでしょう。俺は欲しい。利害は一致していて、何の問題も無い、と」
「大有りだ、阿呆! 騎士団が化け物を匿ってみろ、民間人との軋轢を生み、ひいては日時業務、非常時の対処にも支障が出かねんことくらい、少し頭を働かせればわかるだろうが!」
「あー、頭使うことはどうも苦手なんで」
「そういうことを言ってるんじゃあない……!」
がっくりと項垂れた上司の顔には、もうこの問題をどうにかして始末をつけたい、と書かれていた。
いいからソレを戻して来い上司命令だ、と切り捨てないのは、ドナート相手には命令を振り翳せない理由があるのか、あるいは過去に似たようなことをして、効果が無かったか。
話し合いは、この調子だ、到底できない。ならばどうするか。やけに据わった目をした上司は、一番効果が高そうな手段に出た。
「なら、上に直訴できるだけの資料を纏めて来い」
「げっ……」
……どうやら。
この二人がどの程度の付き合いなのかはわからないが、相手の一番の弱点は把握しているらしい。
初めて引き攣ったドナートの顔を見ながら、少女は思ったよりも早くに“解放”されそうだ、と内心ほくそ笑んだ。
「いやあ参った」
ドカリと椅子に座りながら、ドナートは肩を落とした。少女の身体はポイと横に放られる。
大部屋には、それぞれ個別の机を割り当てられていた。ドナートは一番入口に近い席だ。他の者と机の大きさは変わらないはずだが、随分と大柄な彼が着席すると、どうにも玩具のように見える。その机の側面に背中を預け、少女は床に座り込んだ。傍を、たまに別の団員が通って行く。彼らは一様に、少女に目を向けるなりギョッとした顔をした。
あの上司の男も、少女のことを知っていた。彼らも知っているのだろう。彼女がこの町においてどういう存在なのかを。
……この男も、知っていたのだろうか。
視線を向けた先で、ドナートは頭を掻きながら、スラスラと紙をしたためていた。
「書類、苦手なんだがなー」
苦手と言いながらも、できるはできるのか。てっきり嫌いな書類作成を前にして、面倒だからと手放すもんだと思っていたのに。想定外だ。少女は目論見が外れたと肩を落としながら、そっとドナートの手元を覗き込み、――絶句した。
『この娘は、極めて戦闘能力が高く、我らが騎士団の強き戦力となること必至である。どの程度の実力かは、直に見て頂いた方が確かであろう。是非直接、実技試験を――』
してみようではありませんか。直訳すると、つまりはそのような文言で締め括られている。続きを書く様子は無い。いや、そんなまさか。
相手を納得させる資料、と言われていたはずだが。それだけか。というか、このままでは何か妙な場に引き立てられ、下手をすれば死ぬ。
「よし終わり。これでいいだろう!」
「お、終わり……?」
これで? これだけで? 書類って、こんなものでいいのか?
いや、よくあるまい。あるわけがない。ありえない。
市立図書館で文献を見る機会があったが、どれをとっても、こんな一文で終わるようなものではなかった。――なお彼女が読み書きができるのも、これが理由である。外に出ていれば、誰彼に付け狙われる。その点、こんなちっぽけな町の図書館は、はっきり言って人の出入りも少ない。このような土地で必要以上の学を身につけたところで、活かす場所も無いからだ。棚と棚の間、その奥の薄暗い場所でフードを被っていれば、大抵は気付かれない。みな、化け物が勉学を好むなどとは考えない。唯一、館員の一人だけが、化け物がそこにいることを知っていたが、彼女はその真実を誰かに広めることはしなかった――。
とにかく、である。
このままではまずい。それだけははっきりしていた。
思わず呻いた少女は、「さて問題は無くなった! 帰るか!」と声高々に宣言をしたドナートに、「いい加減にしろ!」と叫びたくなった。
結果的に男の思い通りになることは癪だが、それでもこれは看過できない。
そもそも。
「帰る……?」
「おう、宿舎だ。部屋は空きがあるが、お前さんの分を借りれるかどうか。借りれなければ、当分はうちのソファをベッド代わりにするか」
何故、自分までそこに行くことになっているのか。少女は当然のように彼に小脇に抱えられた。
「……無理でしょう」
ドナートはやはり不思議そうにしている。どうして無理なのか。そう言わんばかりに。あまりにも裏の無い顔に、言葉を失う。この男は出逢った当初から、少女の枷などまるで無いもののように扱う。いや、最初から見えていないのか。
頭に響く声は、今は無い。だから、少女は少女の意思で、どうするのかを決めなくてはならない。
男は、少女が自ら口を開くのを待っている。言葉を、待っている。
何もかもが初めてのことで、ひどく疲れる。
目を細めた。他の騎士たちは、みな遠巻きにこちらを見ている。誰も少女に触れようとしない。言葉を交わそうとしない。それでもそれらは、数時間前にこの男と出会うまで向けられていたものよりも、まだ優しかった。
いや、それは単なるこじつけだ。
自分が重要視したのは、それではない。もっと単純に、少女と真正面に向かい合い、おもしろい目をしている、綺麗だ、と笑ったこの男の存在が大きい。
刃を持った言葉を、石を、投げつけられ、流れた赤い血を無感動に拭う日々を思う。
『生きている場所に頓着が無いなら、この町じゃなくて、俺のとこにいたって良いだろう?』
――良いのかもしれない。
どうせ。戻ったところで、渇いた時間の連続だ。
「絶対に無理です、この資料じゃ。説得力、欠片も感じませんから」
「そうか? 完璧だと思ったんだがな」
「これのどこを見てそんな言葉が出てくるんですか」
悪態を吐きながら、腕の中でもぞりと動けば、腕の力は驚く程簡単に緩められた。とん、と地面に足をつく。
紙とペンを要求する。ペンは初めて使うが、持ち方に多少苦労したくらいで、後は問題無かった。
「まず第一に、化け物を捕らえた理由ですが、これについては、化け物の存在が町民にいかに日常生活において多大な不安を与える要素になっているかを、前面に押し出した方が良いかと思います。名目上『市民を助けた』ということにするんです。急ぎ市民の声を集めましょう。『日頃、化け物がいることで、不安に思うことがあるか』『この町から化け物がいなくなって欲しいか』。ハイ・イイエで答えてもらいます。低く見積もって九割がたが、ハイと答えるはずです。貴方はそれを受けたから、化け物を捕獲した。そういう筋書きです。良いですね?」
ぽかんとした顔で、ドナートが頷いた。……わかっていないように見える。が、気にせず続けた。
「第二。私は現段階で騎士にするというのはあまりにも成功率が低いです。せいぜい騎士見習いか騎士付き、もしくはもっと下の……でしょう。いずれにせよ、『化け物をわざわざ手元に置くのか。処分した方が、声を上げた町民の救いになるのではないか』という点を突っ込まれることでしょう――処分は、今後に響くことがない、最も単純で簡単な無理の無い“解決手段”ですからね――。これについては、私の特異体質を利用します。……貴方は私の目が、何故こうなっているのか、ご存じですか?」
ちらりと彼を見る。未だ惚けた顔で、「知らん」と簡潔に一言。さもありなんと納得する。
「無理もありません。一般知識には含まれない情報ですから」
だから、誰も積極的に少女に関わろうとしないのだ。もし知っていれば、捕まえて売り払うくらいの企てはするだろう。
「――私のコレは『精霊の祝福』によるものです。精霊に祝福を受けた者の多くは、身体になんらかの“印”を刻まれます。私の場合は、この目が印です。似たものに『使い魔契約』があります。使い魔契約があくまで人間から使い魔に対する交信手段であるのに対し、精霊による祝福はその逆の意味合いを持ちます。つまり、精霊から人間への交信手段になるのです。祝福を受けた者は、精霊に“お願い”して、力を借ります。精霊の祝福は、本来人には干渉しない精霊の力を借りる点、またその契約の在り方から、稀少性が高く、最上位の使い魔と同レベルで括られます。母体の少なさから解明されていない謎も多く、このハイドィル王国においても、私――“化け物”の価値は高いはず。少なくとも、しばらくは『生かす』理由にはなるでしょう」
ただし、その事実を提示しただけでは、少女の身は王都に引き渡しになるだけだ。騎士団には残れない。なにせ大きな擁護者がいない現段階で、少女自身の人権を慮る必要など、国には無い。
そこまで説明したところで、ドナートはようやく我に返ったように口を閉じた。
「おお……よくわからんが、すごいな。――で? 続きがあるんだろう?」
にやりと笑った顔は、どこか獰猛さも備えていた。傲慢とさえ受け取れる程の余裕。絶対的な君臨者の雰囲気を纏う男に、良くも悪くもこれがこの男の本質なのかもしれないと思う。
命じられて唯々諾々と従う側ではない。さりとて全てを命じる支配者とも違う。ただそこに君臨し、周囲を飲み込む。そのような存在だ。
今はそうでないとしても。
いずれ、そうなる。そんな予感。
(きっと、その時には私も――)
その顔を見つめた後に、少女は意を決し、口を開いた。
「私に、名前をください」




