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魔界に戻り、はや三日となる。
乾いた空気の中で、ぴゅうと風が吹く。曇天を見上げ、人間界の青空を懐かしく思う程度にラウラはあちらに染まっていた。
色味の少ない魔界は、それに比例するように、住んでいる者たちの思考回路も単純なのか。
いつぞやと同じように群がってくる輩を一掃し、ふう、とため息を吐く。この脳筋どもが、今、何が起こっているか知りもしないで──知ったところで、ルドヴィーコを直接知らない彼らは「だから何?」という感想以外持ちようがないのだが、それはさておき──ラウラに彼らの相手をしている暇はないのだ。
たん、と地面を蹴ると、高く、長く空を舞う。着地と同時に、更に跳躍。地面に降り立つ時に、その辺りにいる魔界人をもれなく踏み付けることは忘れない。手を振るい、風圧で周囲の連中を吹き飛ばすことも。
なんとも、単調な作業だ。アドルフォはおろか、セルジュやヴィゴール並みの魔界人すらいないので、致し方ないと言えばそれまでか。彼らを基準にすると、他の連中があまりに憐れだ。無論、その頂点に自分が君臨していることは、言うまでもないとして。
「ラウラ様、お覚悟ォー!」
「煩い」
やけに威勢の良い敵の額に、べし、とチョップをお見舞いする。相手は、声を出す余裕すらなくなったのか、額を押さえながら、のたうち回った。
ラウラはすぐに視線を外す。いちいち気にしていられない。
反乱の首謀者であるウーノは、魔王を人質に城に居座っているらしい。魔王本人は至って元気だと、牢に遊びに行ったという魔界人が言っていた。だから安心するといいよ、という言葉に、最初からそれに関しては大して心配していないのだがな、と内心で反論する。
父が牢獄に繋がれたまま身動きが取れないなど、有り得ない。本気で逃げようと思えば、いつだってできるだろう。手枷をされているらしいが、そんなもの壊す必要すらない。ただ小さくなればいいだけだ、蜥蜴のように。そうしないということは──つまりそういうことだ。
だから、ラウラが気にすべきは、自分の主人ただ一人である。
……とはいえ。
彼についても、下手を打つ心配はしていない。不思議なまでに心は凪いでいる。
ただ迎えに行くだけだ。そのついでに、反乱も止めてくれよう。ひっそりと笑う。主人を攫った嫌がらせでもある。壊してしまえばいい、そんな企み。それに──あちらにはコレットたちがいる。ウーノが彼女たちの幸せそうな顔を崩すことを、ラウラは決して許さない。
魔力の消費は少ない。魔界の空気中から常に魔力を補給しているからかもしれない。今日中にも問題なく城まで着くだろう。
すいすいと順調に跳んでいく。身体は軽いはずだけれど、なんとなく本調子ではないことを自認する。
着地し、しばし止まる。わらわらと敵が集まる。対する自分は、一人だ。一人、──だからなんだ。別に問題は無い。負けるわけがないのだから。だけど──なんだろう。
「…………」
物足りないなあ、と思う。
「お? なんか油断してそうだぞ!」
「今だー! かかれー!」
わ、と飛んできた同族を薙ぎ払う。
「不意を突くことを事前に大声で宣言してどうする。阿呆か」
盛大にため息を吐く。一から十までこの調子なのだから、ここの連中はまったく愚かだ。
いつもなら魔力が満ちた場所で暴れようものなら、すぐにでもむくむくと湧き上がってくる本能は、今は静まり返っている。
「悪いが今回は、お前たちに構ってやる気分じゃないんだ」
──ルドヴィーコがいないと、全く、楽しくない。
ラウラは軽いジョブで立ちはだかる敵をいなすと、止めを打つことすらせずに、再び魔王城へと向かい始めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
無駄に大きいその城を、ラウラは無言で見上げた。過去に母が父と初めて出会った場所でもあるここは、当時は随分と小さかったのだそうだ。それを、父が母への求愛のために魔界一大きくしたのだと聞いた。アドルフォの種が強さを見せてアピールするのと同じように、龍は家をアピール材料にするのだろうか。……しかしラウラは特別魅力にも感じなければ、母もやはり当時「大きければいいってもんじゃないの」とバッサリ切り捨てたというから、単に父の方向性を間違えたアピールであった可能性が高い。
基本的にズレた方向へ進んでいくあの父が、よくもまあ母を射止めたものだ、と思う。
不意に母の言葉を思い出す。
『パパは、ママの大事なものを理解してくれたから』
こてりと首を傾げた幼き日のラウラに、母は穏やかな表情で語りかける。
『大事だと思うものを、同じように大事だと思ってくれなくても、良いの。ただ、大事だということをわかって、寄り添ってくれるだけで良いのよ』
それは当たり前で、とても簡単なことではないか。あの人はあれが好き、これが大事。その事実を知るだけだ。それでは母の恋愛対象はいくらでもいたのではないか。ラウラはそう思い、そしてそれをそのまま口にした。
『案外、難しいことなのよ』
母は、くすりと笑った。
母の言うことは最もだと思った。確かに、難しい。何が難しいことなのか、ラウラにはさっぱりわからなかったから。今も、わかってはいない。
──けれど。
少なくとも、大事にしたい人を傷付けたり蔑ろにする輩は好きになれない、という理屈は、わかる。
招かれるように目の前で開いた城門を潜り、ウーノの姿を認めた途端、目を鋭く細める。彼は、手のひらで爪を磨くように弄っていた。爪といっても、ただの爪ではない。一メートル先の相手を突き刺せるのではないかという程に長く伸びた爪だ。しかしラウラにとって重要なのはそれではない。彼の傍らに、力なく横たわるルドヴィーコの姿が見えた。我を忘れそうになる自分を抑え込めたことは、奇跡に近い。
血の臭いはしない。怪我をしている訳ではない。
ならば──。
「これはこれはラウラ様、ようこそおいでくださいました!」
「……久し振りだな、ウーノ」
「おや」
彼は目をぱちくりさせる。
「何か怒っていらっしゃる?」
「そう見えるか? 私を怒らせた自覚でもあるのか」
凶悪に笑うと、「おー怖い怖い」とおちょくられる。腹立たしい。だから嫌いなんだ、こいつ。
ざ、と砂を蹴りながら、前に出る。怒りが滲んでいたのか、「おっと!」とウーノが制止した。
「それ以上近寄ると、この人間の命は無いですよ」
「その脅しはあまり上手くないな。ジーノを殺したら、その瞬間にお前の首が飛ぶだけだ」
「ああ、そうでしたか! では痛めつけるだけに留めましょう」
にやりと笑う顔は、それだけで抑制力になると信じている顔だ。間違ってはいない。ルドヴィーコに怪我をさせることを、ラウラは厭う。
「ジーノに何をした」
動かない彼に視線をやる。
「ふふ、少々薬で眠って貰っているだけですよ。でも投与した量が、多過ぎたかもしれませんね」
ウーノは足でルドヴィーコを転がし、仰向けにする。固く閉じられた両目は、健やかに眠っているというよりかは──。
ふう、とため息をひとつ。
そうしてまた一歩、踏み出す。
ウーノは警戒心を強めている。彼としては、ラウラがルドヴィーコに気持ちを置くことを前提で計画を立てていたのだろう。だが、彼はひとつ、大きな勘違いをしているのだ。
「ウーノ」
今度はラウラが笑う。誇らしげに。
「お前が警戒すべきなのは、私じゃないぞ」
怪訝そうに眉を寄せたウーノの前髪を、銃弾が掠めた。




