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月明かりが翳る。雲が月を隠したのか。
牢獄の中から窓を見上げたルドヴィーコは、静かに息を吐き出す。
「今日はもう遅い。寝ても良いか?……魔界人も、睡眠は必要だろ?」
魔王が、微かに笑った気配がした。
「そうだね。休もうか。──おやすみ」
あまりに穏やかな挨拶の言葉に「……おやすみ」と返事をする。毛布も何も用意されていない冷たいそこに寝転ぶ。これで風邪を引く程ヤワではないが、ずっとこれなら少しは身体が痛むかもしれないな、と思いながら、目を瞑る。
自分で思っているよりも疲れが溜まっていたのだろう、すぐに眠りに誘われる。
あるいは。
魔王から漂う気配に、相棒に近いものを感じたためか。
(──大丈夫、だ)
大丈夫以外の答えなど、持つつもりもない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「朝だぞー、ほら人間! 起きろって! それともまさか死んでんのか?」
「いや流石にこれくらいでは死なねぇべ」
「わからねぇぞ。なにせ人間だからな」
ルドヴィーコを目覚めへ引っ張り込んだのは昨晩聞いた魔界人二人組の声だった。
ぐ、と身体を伸ばしながら「生きているのでご安心を」と応える。月明かりは入りやすい造りになっているが、朝日はあまり入らないようだ。朝だというのに、牢獄は仄暗い。
我ながら随分呑気に寝ていたものだ。若干重たく感じる身体を解すように肩を回す。
「お! 人間!」
その呼び方に、名前くらい教えるべきだろうかと思案するが、教えたところで呼んでくれるとは限らない。幸いここには人間と称される者は一人しかいないので、支障は無いか、と目を瞑る。大した問題ではない。
「起きたら飯を食えよ。夜も食べなかっただろ。死んだら困る」
流石に一食抜いたくらいでは死に直結はしませんよ、と伝えようかとも思ったが、それも止める。人間は壊れやすい、という認識を持っておいてもらった方が、この先やりやすいかもしれないと考えたからだ。
「おら、食え」
差し出された朝飯は、今度は白い粉に埋もれはしていなかった。……が、やはり口には入れられない。
「生肉はちょっと……」
どどーん、と皿に鎮座していたのは、とても新鮮そうな肉塊だった。なんの肉かは知らないが、生の肉を食らうのは、勘弁願いたい。腐っているよりかはマシだが、どちらにせよ食べられない。こんなところで腹を下すことは、御免被る。
顔を引き攣らせたルドヴィーコを、二人組が「この人間、グルメだ!」と批難する。グルメとかそういう問題ではないのでは、という突っ込みはこの際封じ込めておく。
そういえば、魔界人にとっての“食”は、優先度が低いのだったか、と思い出す。要は、料理など浸透していないということだ。なまじっか強い種族である。生肉で腹を壊すことも無いに違いない。
(ラウラはこれ、嫌がりそうだけど)
甘い物好きな蜥蜴は、本人の言う通り、魔界では少々変わり者だったのだろうな、と改めて思う。
「食わなきゃ死ぬって時に、選り好みとは!」
「贅沢だ! もっと謙虚になるべきだ!」
「いや、ナマは最悪、死に至るので」
静かに反論すると、案の定というべきか、「人間、弱い!」と口を揃えて叫ばれた。
「仕方ない。これは後で俺が食べる」
言いながら、何故か鼻輪男の口元には涎。食べたいだけではなかろうか、という疑惑が深まる。
「じゃあこの人間には何を食わす?」
「むしろ何が食える?」
逆に訊ねたい。何があるのか、と。
「ラウラが食べてたような物なら大丈夫だよ」
反対側の牢獄から、鎖が擦れる音がした。どうやら魔王も起きたようだ。これだけ騒いでいたら、当然である気もするが。
「ラウラ様?」
「何食べてたっけ」
首を捻る二人組に、「パンとか、フルーツとか、お菓子とか」と声が続く。どうやら、ああ、と納得したような返事がある程度に、有名なことらしかった。
「あのなんか……すかすかのやつ?」
「そこはフワフワと言って欲しいものだね!」
「だって噛みごたえが無い!」
騎士団では乾パンが支給されることもあるが、ラウラがこの城で食べていたのは、どうやらルドヴィーコが実家で食べていたような、純粋に美味しいパンであったようだ。そういえば過去に、彼女の嫌い──本人はそうと言わなかったが、おそらく嫌いなのだろう──物を口元に近付けたら、顔を背けて嫌がっていた。食が生きるために必要ではないのだから、わざわざ口に合わない物を食べる必要も無い。
蜥蜴だから主食は虫か、と虫を近付けた時の逃げっぷりを思い出し、くす、と笑う。
「なんだよ、その笑い。馬鹿にしてんのか」
「上等だ! 表へ出ろ!」
「出してくれるなら、ありがたいですけど」
「なんだこいつ脅しが効かない!」
「人間って怖い!」
昨日と同じようなやり取りを経て、ルドヴィーコの前に出てきたのは、王都のカフェで朝食として出てきそうなメニューだった。
スープを啜りながら、その味加減に、ほう、と感嘆する。彼女のこだわりが見える。
予想外に美味しい食事に舌鼓を打ちながら、今日のスケジュールを考える。とはいえ、牢獄の中でやれることなど限られている。
一番やらなければならないことは、所謂脱獄であるが、抜け出そうにも、やはりこの硬い鉄格子をどうしようか、という問題が付き纏う。
魔銃をぶっ放せば、穴くらいは開くだろうか。しかし目立ちそうだ。魔界人と鉢合わせた時に困る。一人、二人ならなんとかなりそうだが、それ以上となると危険だ。
そもそも、この反乱にどの程度の魔界人が関わっているのか。
先のアドルフォの反乱を見ても、暴れられるなら参加しようかな、などという考えをしている者も多数いそうである。
ラウラと合流できれば良いのだが。
最も確実な方法を取りたい。さて、それは何か。
食べ終えた膳の前で、手を合わせる。この際につい目を閉じてしまうのは、なんの性か。不意に視線を感じ、片目を薄ら開くと、穴が開くのではなかろうかという程真剣に、二人組がルドヴィーコを見ていた。
まさか、これの中にも何か入っていたのだろうか。可能性としては十分有り得るが。
そう考えた矢先、「綺麗に食べるもんだなー」とトサカ男が感心したように呟いた。鼻輪男も「まったくだ」と同意する。
これは……褒められている、のだろうか。
「それ、何やってんだ?」
質問された相手が自分であることと、指差された先が合わせた手であることを把握する。
「命に感謝を。作り手に感謝を」
「ほーん?」
わかったような、わかっていないような。首を捻っているから、わかっていないのかもしれない。
「なんかそのポーズ、カッコいいな」
「真似すんべ。……こうか?」
「なんか違ぇなー。あー、うーん。わかった、肘張り過ぎだからだ!」
「なるほど、もうちょい下だな」
大の男が隣り合って、あーでもないこーでもないと合掌の練習をしている様は、なかなかに毒気を抜かれる。
揶揄ならともかく、二人組はどちらも真剣な面持ちだ。
「…………」
なんだかんだ、憎めない。ここから脱出せねばならないのに、一服盛られてやった方が良いのだろうか、とつい思ってしまう程度に憎めない。もはやそれは“憎めない”の範疇ではなく、単に“好感を抱いている”だけとも言えるが。
「人間は三食も必要なんだろ。昼にまた来るかんな」
「手を合わせるの忘れるなよ!」
「クスリは隠しといてやるから!」
なんとも気の抜ける注意をしてから、二人組はせこせこ去って行った。この調子で最後までいてしまいそうな気がする。
「悪いね。若い連中には、人間は大層珍しいんだよ。ラウラも珍しがってただろう?」
「まあ……」
定期的に、観察するような目を向けられていた自覚はあるので、否定できない。
人間にとって、魔界人は強大な力を持つ恐怖の対象であるのに反し、魔界人にとっては、人間は好奇の対象なのだろう。それは実力差が大きいが故の違いなのかもしれないが。
「大目に見てやってくれたまえよ」
悪戯っぽく笑うと、魔王はそのまま静かになった。昨日の話の続きをされるのではないかと内心で緊張していたルドヴィーコは、これにもつい肩の力を抜いてしまう。
何も訊かないのか、という言葉は、
「邪魔するぜぇ〜!」
突如牢獄に響いた声を前に、慌てて引っ込めた。
異文化交流中。ふぁんたじーな世界観ですが、日本の文化をちょこちょこ持って来つつ。
ところで、地方によっては、手を合わせないのですね……!
私は小学校からずっとそれだったので、てっきり全国統一なのだと思っていました。いやはや。
「手を合わせてください。(ここで全員が手を合わせていることを確認してから)いたーだきます!」
「「いたーだきます!!」」
という感じでした。




