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鼻を突く臭いに、意識を取り戻す。薄らと開いた目にまずもって飛び込んできたのは、暗い灰色の石畳だった。場所によって、多少色味が違うのは、元々の素材か、年季が入っているためか。
暗いと感じるのは、今が夜だからかもしれない。部屋の上部に空いた隙間から、月明かりが漏れている。
頰が酷く冷たい。無理も無いか。しばらく放置されていたのだろう、身体の節々が痛い。
横になった状態から身体を起こし、胡座を掻く。ぐぐ、と背中と腕を伸ばした。顔を上へと向けると、床と同系統の天井が見える。高さは程々で、頑張れば手がつかないこともない。
(……特に拘束されている訳じゃないことが、まだせめて救いか)
服もそのまま。唯一剣だけが手元にない。もしかすると、連れ去られる直前に取り落としたからかもしれない。そうでなければ、無頓着にそれごと放り込まれていたのではないかとさえ思えた。現に、懐にしまっていた魔銃は、そのままだ。
“たかが”人間に警戒心など不要、と言わんばかりである。確かに──横目でちらりと鉄格子を確認する──これを素手でどうにかできる自信は、ない。
──“連れ去られる”。
自身の言葉を反芻する。そう、確かに自分は連れ去られた。あの坑道から。
「──捕まえました」
背筋がゾッとするような声が突如背後から聞こえ、振り返ろうとした瞬間に、意識を持っていかれた。
アレは、人間ではなかったように思う。
なんの根拠がある訳でもないが、そんな気がする。
であれば、ここは……ここはどこだ。
どう思う、蜥蜴っ子。そう訊ねる相手は、今は傍にいない。肩に伸ばした手は、虚しくも自分のソレに触れるだけだ。
(存外、心細くなるもんだ)
自分は一人で生きていくのだと決めていたのではなかったか、ルドヴィーコ=クエスティ。自分自身を嗤う。いつからこうも弱くなった。いや、そもそも自分が強いことなど一度だってなかったのではないか。
「…………はあ」
「やあ、新参者め。来て早々に盛大なため息とは、ご挨拶だな。せめて拍手か大歓声を贈ってはどうだ。なにせここは趣味人が趣味を極めに極めて完成させた、至極の“牢獄”だぞ!」
びくりと肩を震わせ、声がした方向を見る。気配は感じ取れなかったのに、いったいどこから。暗闇の中で目を凝らせば、反対側に造られている鉄格子の向こう、四肢を重そうな枷で繋がれている男が、呵呵と笑っていた。
漆黒の髪は長いのか、それとも短いのか。完全に闇と紛れ、見ることができない。しかし、金色の双眸だけは、闇夜の中で煌々としていた。その瞳に、既視感を覚える。
至極の牢獄、という正反対の言葉が繋がっている不可思議さよりも、なによりも。
声が、漂う面影が、記憶を揺らす。
「ラウラ?」
思わず漏らした声に、「ラウラ!」と金色が更に輝いた。
「ああ、ここ最近会っていない我が娘ではないか!……きみはラウラを知っているのか?」
「知っていますけど、」
娘、という単語に目を見開く。魔王の娘の父親というと、つまりは魔王だ。魔王がいるということは、ここは魔界であるはずだ。
しかし、言葉を止めたのは、それに対する驚きのためではない。「やめてくれ!」と男が悲痛な声を上げたからだ。
鎖に繋がれた状態で身を捩ったためだろうか、ガシャガシャと金属がぶつかり合う音が響く。
「僕は敬語アレルギーなんだよ! 敬語だけは無理だ! 鱗が逆立つ!」
「敬語、アレルギー?」
そんなものあるだろうか。冗談を言っているのか、と観察するように相手の顔を見るが、どうも嘘や冗談を口にしている様子ではない。
「そうだよ、ああ、あの敬語というものは本当に恐ろしい。デスだとかマスだとか、恐ろしい言葉を平然と使う輩の得体が知れない!」
だから僕は魔界人にはとにかく僕の前では敬語を使うなと言ってあるのだ、と彼は何故か胸を張った。
「くれぐれもきみも気をつけるように! なにしろ僕は実は魔王でね、偉いんだよ」
「普通、偉い人には敬語を使うものだと思いま……思うけど」
敬語になりかけた途端に鋭い視線を向けられ、言葉を変える。満足げに頷かれた。
「偉ければ、ルールが作れる。例えば、魔王に対する敬語禁止、とか」
「はぁ」
「ま、強制力は無いんだけどね」魔王は首を振る。「だからここにいるんだ」
それはつまりどういう?
首を捻ったルドヴィーコに答えを与えるように、魔王はにやりと笑った。
「ウーノ──ああ、我が配下にウーノという蜂がいるんだがね──あの男、急に敬語なんぞ使って、僕がゾワッとして動けなくなったところを牢に繋いだんだよ、まったく……」
言葉を切った後、ひとつ、息を吐く。
「なんとも卑怯な輩に成長したものだ」
卑怯だ、と言いながらも貶している様子が一切垣間見えないのは、この“世界”特有なのだろうか。
ああでも、と彼が思い出したように付け加える。
「彼女だけは、別格だった」
「彼女?」
「僕の妻だよ!」
余程誇らしいのか、にんまりと笑う。
「彼女はね、僕に対してだけ、ずーっと敬語だったんだ。その冷たさといったらなくって。ゾクゾクしたし、ザワザワした。これが愛なんだと、僕は確信した!」
それは単にアレルギー症状が出ただけじゃないのか。口を突いて出そうにった言葉を、賢明にもルドヴィーコは飲み込んだ。
彼は懐古するように、目を柔らかく細める。
「……彼女も、初見で僕が固まったところを容赦なく攻めてきたなぁ」
果たして、それがそのような穏やかさで微笑みを浮かべながら懐かしむ内容かどうかは別として。
「魔王討伐に来たらしくてね、別にそれ自体は珍しくもなかったんだけど。僕は彼女に初めて負けたんだ。それまでの人間は、仲間内ならともかく、“敵”に敬語なんて使わないだろう」
ましてや僕は憎む対象だったようだからね、と魔王は悲しげに眉を寄せた。僕は何もしていないのに、と零す。それはおそらく真実なのだろう。きっと、その当時、人は“わかりやすい敵”を倒すという、“わかりやすい救い”を求めていた。
「それで、その彼女、貴方の奥さんは、」
どこに、と続けようとして、それまでの発言が全て過去形であったことを思い出す。それから、“今の”妻の様子を一切語らないことに、気付いた。続く言葉を変える。
「──きっと綺麗な龍だったんだろうな」
「それはもちろん」
魔王は朗らかに笑った。
「とても美しい、白い龍だった」
つい、と彼を見やる。しばらくしてから、気付く。この男は、とても長い時を生きているのか、と。
“その存在が、伝説と謳われる程に、長く”。
ルドヴィーコの表情から、何かを読み取ったのか。魔王が訊ねる。
「きみは僕の奥さんを知ってる?」
「ああ、白い龍の話は。一人の英雄と共に、魔王を討った、龍。──とても、有名な伝説だ」
何故“討った”はずの魔王がここにいるかは知らない。なんらかの事情があったのかもしれない。彼にとっては不名誉であろう“伝説”を、しかし魔王はいとも簡単に受け入れ、やはり笑う。それが楽しい思い出であったかのように。
そんなこともあったか、と。
「この牢獄も、最初、彼女が作ろうって言ったんだ。人間界で見て気に入ったらしくって。だからね、せっかくだから、しばらく繋がれていようと思ってるんだよ。もしかしたらこれ、彼女が僕を繋ぐために作ってくれたのかもしれないし」
どちらにしたって牢獄に吊るされるなんて、なかなか経験できることじゃない。彼女にも、そして友人にも後で自慢をするのだ、と魔王は鼻を高くしている。その感性は、到底ルドヴィーコには理解──まあ、できなくも、ない。
どうせなら、という想いは、わからないこともない。
どうせなら楽しもうではないか。──それは余裕の裏返しでもある。
ルドヴィーコは、自分の力を過信しているつもりはない。今時点で、弱い存在だと思っている。少なくとも、魔界にいる限りは。
それでも心は落ち着き払っている。
大丈夫だ、と信じていられる。
理由は、言わずもがな、だ。
「ところで」
魔王は自分を裏切った男のことをサラリと流して、興味に染まった瞳をルドヴィーコへと向ける。
「きみは、ラウラの何なのかな」
他意の無い問い掛けに、ルドヴィーコは目を細めた。
「唯一無二の相棒で在りたいと思っている……人間だよ」
現段階ではただの願望だ。まだ力不足だ、とルドヴィーコは思う。それでも。
「ほー、きみが。とすると、きみがセルジュたちのいう、ラウラの下僕とやらか!」
「下僕……」
なんとも語弊のある言い方だが、報告した者が、ラウラ大好きのセルジュと、戦闘以外では怠惰的なヴィゴールでは、そういう説明になっても仕方ないか、とも思う。むしろ随分マシな方だ。
苦笑を灯した後に、ジェラルドたちはあの後無事に帰還できただろうか、とふと思う。直後に、ラウラがいるなら大丈夫だろうと結論付けた。彼女はなんだかんだいって情が深く、ルドヴィーコの仲間を切り捨てられない様子であったから。
問題は自分の方だ。いつまでもここにいるわけにはいかない。
決意を新たにしたルドヴィーコを、魔王はおもしろいものを見つけたようににまにましている。
「もしかして脱獄しようとしているのかい?」
「ああ。何か良い案は無いかな」
「穴を掘ればいい!」
よく人間たちはそうやって逃げるんだろう! 期待の眼差しに晒され、ルドヴィーコは申し訳なさそうに顔を傾けた。
「俺にはそのやり方はできないと思う。それじゃ長期戦覚悟になるだろ?」
そんなに長い間、この場所でお世話になるつもりはない。
それもそうだ、長期戦では途中で飽きてしまうからな。と真顔で返事があった。こちらの意図を汲んでいるとは思えない。どうやら根本的に考えの軸が違うらしい。
ルドヴィーコはそのことを不快に思うでもなく、飄々と繋がれている魔王を一瞥し、それから丹念に部屋を観察し始めた。ようやく暗闇に目が慣れてきた。──かと思った矢先に、ガコ、と音がして一部の壁が動き、光が牢獄の中を貫く。思い掛けない攻撃に、う、と呻き、目を瞑る。
「──あ、ほんとだ。起きてやがる」
「人間がいる。人間が動いてる!」
どことなく興奮した声が光の中から聞こえてくる。やがて姿を現したのは、人間と同じ姿形をした──おそらく、魔界人だ。
しばらくルドヴィーコさん視点で進みます。
蜥蜴さんは、しばらく外側。




