06
「助けてください!」
女の声が響いた。一気に踏み込む。
髪がほつれ、胸元を肌蹴させ、自分の身体を両腕で抱き締めている女性が、座り込んでいる。今日の舞踏会の参加者なのだろう、顔は仮面で隠れている。
聞くまでもなく、状況は明らかだった。パーティの庭では、不埒を働く連中が出ることもある。パーティの雰囲気と酒の力で気分が高揚し、気が大きくなる上、庭園は暗く人通りが少なく、更に多少騒いでもパーティの喧騒で声が掻き消えるため、馬鹿なことをしでかす者がいるのだ。おまけに、今日は仮面で顔が割れない。
「相手は?」
「あ、あっちに……」
女性が指差した方向には、既に男の姿は無かった。今から追い掛けるのは無理だろう。ルドヴィーコは「クソ!」と呪いの言葉を吐き捨ててから、女性に自分の上着を着せた。脱いだ拍子に肩に乗っていた蜥蜴が、コロンと転がったのだが、どうやらルドヴィーコはラウラの存在を忘れているらしい。まあいいけれど。むしろ好都合だ。
ラウラは、ああいう輩は嫌いだ。
「ああ、ありがとうございます、ありがとうございます……! 本当に……!」
女性は安心感からか、ワッと泣き出した。
ラウラはこっそりと、草むらの中へと姿を隠す。だだだだだ、と一気に走り、ルドヴィーコ達から見えない場所に来ると、魔力を解放した。
地面が離れていく。ウェーブを描く銀の髪が、視界の端に映った。
溜めた魔力が失われるが、仕方ない。それに、流石に二年間節約し続けたので、意外と魔力は回復しているのだ。すぐに終わらせる気なので、問題ない。
魔力で、服装を調整する。闇の色を思わせる、黒いドレス。魔界で好んで着ていたドレスだ。
「……ああ、忘れるところだった」
トン、と顔に触れ、仮面を出現させる。相手を飲み込まんとする輝きを放つ金色の瞳が、隠れた。
「さて、行くか」
魔王の娘は、口元だけでもハッキリと分かる程の、獰猛な笑みを浮かべた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
黒いドレスを着た美女が、会場に入った途端、辺りは騒ついた。
決して華美ではないドレスは、しかし女の雰囲気にピッタリと合致している。人間の文化では下品とされる太腿の辺りまでスリットの入ったドレスから見える細い足も、これまた人間界ではあまり見ない大きく開かれた背中も、首元も、顔も、透き通るように白く、まるで作り物のようだった。
「おい、あれ、誰だ……?」
「あれほど素敵な銀の髪をお持ちの方、いらっしゃったかしら」
彼女は、その場の人間の注目を集めていることなど意にも介さず、颯爽と歩く。そして、ある一人の男の前で、立ち止まった。
クスリと笑った彼女は、まるで誘うように白い手を伸ばす。
男が思わずその手を掴もうとすると、彼女はス、と手を引っ込め、踵を返した。ふわり、と銀の髪が揺れる。
一歩、二歩と進んだところで、女は肩越しに振り返る。挑発的な微笑みを浮かべながら。
誘いを受けた男が、ふらふらとその後ろを追い掛ける。それを見ると、女はまた軽やかな歩みを再開させた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
予想以上にちょろかった。
外に出る。会場から姿が完全に見えなくなった頃、男がラウラに飛びついてきた。しかしその指先は、ラウラの触り心地の良さそうな肌に触れる直前に、パンッ、と弾かれた。「触るな」という言葉と共に。
「なっ……」
先程女を食い損ねたこともあり、今度は確実に楽しめるだろう(しかも、先程の獲物よりも上等だ)と期待していた男は、悔しげに顔を歪めた。
その顔を見て、ラウラは、くすりと笑った。
「私は知っている。お前が先程、そこの庭で、何をしようとしていたか」
「へええ。それじゃ、あんたも楽しもうって口だろ。なら、早く──」
「阿呆か」
もう聞いていられない、とラウラは男の言葉を遮った。 これ以上聞いていると、勢いあまってやらなくてもいいことまでやりそうだ。
「誰がお前みたいな男に肌を許すか、馬鹿者が」
「ああン? てめぇこの女……ッ」
カッとした男が拳を振り上げる。
勢いを付けて振り抜かれた拳を悠々と避け、首を引っ掴むと、相手の身体を木に押さえつける。
「ぐ……ァッ」
首が絞まっているのだろう、苦しみと恐怖に歪む顔を見て、思わずニヤリと笑ってしまう。……いかん、本能が。
ふう、と息を吐き、冷静さを保つ。
「解放して欲しいよな。欲しいだろう? 別に私は、このまま絞めたって構わないが、お前は構うだろう?」
ガクガクと震えているのが、ラウラの言葉に頷いているためなのか、恐怖のためなのか、単に酸欠のためか、いまいちよく分からないが、瞳孔が開いた目を見る限り、おそらくは肯定の意を示しているのだろう。
「私がお前に望むことは、三つだ。三つなら憶えられるよな?」
返事を待たずに、指を一本、立てる。
「ひとつ、さっきの女性のことは、一言も漏らすな」
現行犯として逃した以上、後で「あれは女が誘った」などと言われても面倒だ。この際、永久に口を噤んだもらう。
「ふたつ、今後、同じことをするな。私は、お前のようなやつが嫌いなんだ。今も随分と我慢してるんだ。分かるだろ?」
話しているうちに、思わず、ギリ、と力がこもり、男の顔が青くなった。やりすぎた。「おっと、しまった」と言い、慌てて少し弱める。
「間違って殺しそうだな。……それじゃ、最後のひとつだ。私のことを他言するな」
別に、話してもいいんだけどな。変な噂をされても面倒。ついでに約束事に組み込ませてもらう。
「分かったか?」
にーっこり、と笑い掛けてやると、既に涙目の男は、必死に頷く。まあ、これだけ脅せば大丈夫だろう。
手を外すと、男の身体が崩れ落ち、地面に落ちた。そのまま、喉を押さえながら、「がッは、ごほッ」と咳き込む男を、見下ろす。
「いいか? さっきの三つ、もし破ったら、今より酷い目に遭うことを、よく憶えておけよ? 私は、お前のニオイを憶えたから、いくら人相を変えても、服装を変えても、絶対に見つけるからな」
聞こえているのかどうなのか、非常に怪しい状態の男に、言葉を投げつけ、ラウラは「じゃあなー」とその場を去る。
さて、あとは。
バレないように戻らなければ。
これが一番、難関かもしれない。
そろそろと気配を消しながら、庭園付近に近寄る。耳を澄ましてみるが、人がいる気配は無い。
(……おいてかれた?)
それもそれで悲しいものがあるな、と思いながら、元々女性がいたところへ戻ってみる。
「いないか……」
参った。ここで蜥蜴に戻って、待っているべきか。それとも蜥蜴姿で歩いたという体で会場付近に待機するか。
うーん、と悩んでいると、ガサッ、と草を掻き分ける音がした。その足音には聞き覚えがあった。慌てて蜥蜴になる。
「蜥蜴っ子? おい、蜥蜴っ子!? 返事しろっ!」
焦っている。少し、気分が向上した。これで、いなくてもどうでもいい、という態度だったら、かなりショックだ。
グルル、と鳴いて居場所を知らせると、「蜥蜴っ子!」と余計に慌てた声が聞こえ、自分に影を落としていた草が退けられた。
この紋所が目に入らぬか〜!
には、ならず。力で押し押しという、場合によってはラウラさん悪者……!
初登場の人間版ラウラさん。
またしばらくは大人しくしていると……思い、ます。