55
「想いを伝える気は無いんだ。悪者になったって構わない。ただ……彼女は、どうもそれでは納得してくれないような気がする」
だからどうしたらいいのか分からないのだ、とランベルトは零した。
それまで口を結んでいたラウラは、「思っていることを全部言ってしまえばいい」と言い放った。いっそそうしてしまった方が丸く収まるのではないかと、割と本気で思っていた。
ランベルトはきょとりと目を瞬かせてから、蜥蜴へと目をやった。ややあって、ああ、と得心したように息を吐いた。蜥蜴が喋る生き物であることを忘れていたらしい。
「納得しないのは、それが本心じゃないからだ。なら腹を割って話せば良いだろう」
「でも知らなくていいこともあるだろう。僕の考えていることを知ったところで、彼女には何もできない。して欲しくない。余計に悩ませるだけだ」
「それがどうした。知りたいからここまで来たんだ。聞いて悩むことになるなら、その時はその時だ。それからどうするか改めて考えれば良い」
「知ってしまえば、知る前には戻れないのに?」
「それが後悔に繋がるかはわからないだろう? 知っていれば行動できることもある。行動できなくて後悔することもある」
そうだろう、と相手に問い掛けながら、ラウラはルドヴィーコが怪我をした時のことを思い出していた。行動できなくて後悔する方が痛い時だって、確かにあるのだ。
取り返しがつかない、と言うのなら、どちらだって同じことだ。
無論、今回のケースが、ラウラのケースとそっくりそのまま重なる訳ではない。答えは、ひとつひとつの物事によって違う。
押し黙ったランベルトに更に追撃をするつもりはない。
どこまでいっても、決定権は当事者しか持ち得ない。今ラウラが話したことは、あくまでも彼女の選択であり、“正解”ではない。
トン、と蜥蜴の鼻先をルドヴィーコがつついた。
「なんにせよ俺たちは、まずお前に幸せになって欲しいと思っている。お節介だとは重々承知してるけどな」
俺たちとな。自分も入っているのか、とラウラは瞬きを繰り返した。あくまでもルドヴィーコが望むからそうしているだけなので、別に彼の幸せを格別に願っているわけではない。わざわざ、不幸になれ、と言う気も無いが。
「避け続けるだけじゃ解決に繋がらないって思っているんだろ?」
この話を始める前、彼は『自分たちだけでは、事態が好転していかないから』話すのだと口にした。ならば、介入不要を掲げるつもりは無いのだろう。案の定、ランベルトは小さく顎を引いた。
「なら、俺たちがアレッタに先に話をする。さっきの話は極力伏せて、な。その上で話し合った方が良いと思えば、二人にそう提案するよ。そうでなければ彼女を説得してみる」
どうだ、と同意を得ようと顔を覗き込めば、彼はすぐに頷いた。
「そうしてもらえるなら助かる。僕が直接話をすると、どうも感情が先走っていけない」
食堂で再会した時と同じように、ランベルトの瞳は揺れていた。幸せを願うのに、それができない。だがそれを嘘にはしたくない。その葛藤の真ん中に独り、立たされたように。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ジネストラ家の“兄”から事情を聞いたルドヴィーコは、その足で食堂へと向かった。もう一人の当事者である“妹”はここにいるはずだ。
彼女自身、兄とは血が繋がっていないことを認識しているようだった。“普通の兄妹ではない”というのは、おそらくそのことを指しているのだろう。
彼女は、一人黙々と机を拭いていた。その表情は至って真剣なものだ。
「アレッタ」
声を掛けると、アレッタは肩を震わせてから、振り向いた。先程の怯えなどまるでなかったかのように笑う。
「ジーノさん、どうかしましたか?」
「ちょっと話があるんだけど……」
彼女は布巾を持ち上げ、首を傾げた。
「兄のことですか?」
「ああ。都合が悪ければ出直すけど」
「いえ」一拍。置いて、口を開く。「大丈夫です。これを片付けてきますから、少々お待ちください」
手早く掃除道具を片付けたアレッタは、早速ルドヴィーコに向き直った。
「ここでは話せないことですか?」
おそらくはその方向になるだろう。しかし、今自室に帰ることは、避けた方がいい。ジェラルドならまだしも、ランベルトと顔を合わせてしまうようなことになれば、和解は更に遠退く予感がした。
さてどうしたものか。
「何か話があるなら、奥の部屋を使うかい」
ミラが厨房から顔を出す。
「いいんですか?」
「今は空いてるからね」
ふくよかな身体を揺らしながら、ミラは気持ち良く笑った。その厚意に甘え、ルドヴィーコは軽く一礼する。
厨房の奥には食堂で働く者の休憩スペースが備わっている。ルドヴィーコは、入るのは初めてだ。普通はこんなところまで入ることはない。その必要が無い。
中央に用意された丸椅子に腰掛ける。対面に座ったアレッタは「兄から何か聞きましたか?」とほんのり微笑む。
「……概要だけは」
「そうですか」
彼女はそれ以上深く踏み込むことはしなかった。
気合いを入れるように、ふー、と息を吐いたルドヴィーコに寄り添うように首に身体を擦り寄せる。いつものように鼻先を突く指先から、“ありがとう”と伝わってきた気がしたのは、果たして気のせいか。
「俺は、貴方とランベルトが歩み寄れる道があるのなら、その手助けをしたいと思ってる」
アレッタはそっと目を伏せた。
「お気持ちは嬉しいですが、私は……」
その言葉の続きを探すように、彼女は何度か口を開き、しかし結局なんの言葉も紡げないまま、黙り込んだ。
無理も無い。自分の気持ちを曝け出す行為はそれだけでひどく疲れるものだ。加えて、アレッタとルドヴィーコは知り合って日が浅い。
アレッタは、それ以上の追求は許さないとばかりの様子だ。街で会った時にルドヴィーコの話を深く掘り下げなかったように、自分もまた心の奥底を語る気は無い、ということか。
「兄と、一度話をしたいんです。私の所為で、兄を不幸にすることは、許されないことです。だから、ここに来たんです」
実質的な拒絶に近い言葉だった。
「ランベルトは、貴方の身を案じていた。実際ここは危険な場所だ。いつ命を落としてもおかしくない。そんな場所に来ている自覚は?」
「あります」
即答だった。彼女が本当の意味で、“理解”しているかは分からない。ただ──
「ここで、兄が死ぬかもしれない。私ともう二度と言葉を交わすことの無いまま。──そういうことですよね」
死ぬ、という単語を使った時、彼女の声は微かに震えた。
「死にたくないです。私は、死にたくはないです。だけど、もし“そんなこと”になれば、……それはきっと死よりも辛いです」
何故、一歩前に出られなかったのだろう、と。死ぬ程後悔する。死ぬ恐怖を前にしたら、自分の甘さを悔やむかもしれない。けれど過ぎ去れば、行動しなかった方が、余程辛いと感じるだろう。
その覚悟を試すように、ルドヴィーコが更に言葉を重ねる。
「ランベルトは、貴方の幸せを想って、ここにいると言っていた。アレッタがここに来たことは、その想いを壊す行為だ。それでも……貴方が思うよりもずっと“辛い”現実があって、それが理由で二度と同じようには接することができないのだとしても、話をしたいと思う?」
「それは勿論。だって今は、その一度すら、話せないじゃないですか」
違いない、とラウラは尻尾を揺らした。
どちらが正しい訳でも、なくて。