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この世に生まれ落ちた時、ランベルト=ジネストラは、ランベルト=スタインという名であった。しがない男爵家の子供だ。
曾祖父、祖父の代で築かれた財産もあり、金銭面で困るような家庭ではなかったと記憶している。しかし、ランベルトが物心ついてしばらくした頃、スタイン男爵の不正が明るみに出て、家は取り壊しとなった。
大量の財産を前に“生きる感覚”が狂ったのか。あるいはその異常は、先天的なものであったのかもしれない。
違法に手を染め、結果的に自らが闇に堕ちた男爵の財産は、真人間であった先代のソレを超えている反面、酷く汚れたものであった。
とはいえ、金は金だ。
一説では、王家が男爵家の取り壊しを決めたのは、裏社会での影響力を恐れたというよりも、その財産を没収するためではないかとも言われている。真相を、ランベルトは知らない。知る必要も無いと思っている。
ランベルトの親は、彼を置き去りにして、処分が下る前に夜逃げした──彼らは結果的に、一ヶ月も経たず発見され、投獄されることとなった──。哀れな子供は、幸か不幸か、スタイン家の先代に“恩”があったジネストラ家が引き受けると名乗りを上げた。罪人の子は、同じく罪人という訳ではなかろう、と。
ランベルト自身に、魔法の才があったことも幸いしたのか、その主張は是とされた。なにしろ光属性の魔法を操る人材は、その母数の少なさから重宝されているのだ。光魔法には攻撃性を伴うものが少ないという点も、外に出された理由のひとつかもしれない。
彼はその後一切血の繋がった“家族”と会うことを禁じられ、姓を捨てた上で、ジネストラ家に引き取られた。
「別に恨んじゃいませんよ。恨むはずがない」
元々、“家族”という記号が載っているだけの希薄な関係性だった。愛された記憶も、大事にされた記憶もさして無い。唯一、学術面においては援助をして貰ったが、あれは単なる“投資”だろう。将来の金のなる木に、水をやっていただけの話だ。
だから、姓を捨てる、という行為も、その後血の繋がりのある“家族”と接触を断つことも、なんら苦では無かった。むしろ、これのどこが罰なのか、と感じた程である。
新たな“家族”は、ランベルトに温かさも向けてくれたが、“恩義”の手前、父母と呼ぶことはできても、想うことはできなかった。
「確かに私たちは、きみの命を救ったのかもしれない。だからこそきみは、好きに生きればよい」
“父”はそう言い、“母”はその傍らで微笑んだ。
しかし、好きに生きろと言われても、そんなことできるはずがない。
そんな時である。
ジネストラ家に、小さな命が誕生した。
アレッタ=ジネストラだ。
正真正銘の、ジネストラ家次期当主である。
誰もが分かっていたはずだ。ランベルト自身、ジネストラ家を継ぐのは長男たる自分だと、そんな愚かなことを言うつもりはない。
貴方の妹よ、と母は小さな生き物をランベルトに差し出したが、とてもそうは思えなかった。
そうしてから、自分に与えられた役目は、まずもって、この小さな女の子の盾でいることだと、幼心に理解した。
誤算であったのは、ランベルトよりもいくつか歳下の小さな子供が、ランベルトをまるで本物の兄のように慕ったことだ。打算も何もない透明な瞳でランベルトを射抜き、屈託無く笑い、ランベルトを“兄”と呼んだことだ。
下に見るのでもなく、上に見るのでもなく、ただ純粋に家族として見たことだ。
怖かった。本能的な恐怖を覚えた。だから素っ気なく接したのに、その子はいつだってランベルトを追ってきた。追って来ては転び、大声で泣いた。仕方なく引き返せば、彼女はきょとりとして泣き止み、花が咲くように笑う。ある時は、どこかで見つけてきたらしいちんまりとした花を差し出し、どうだとばかりに輝く目を向けながら、ランベルトに手渡す。
──なんなのだろう、この生き物は。
理解が追いつかない。未知の生物だ。
ある日、彼女は出掛け先の森で迷子になった。奥深くに入り込んだのか。目を離した自分を、ランベルトは責めた。彼女を護ることが、自分の役目ではなかったのか。
父と母の制止を振り切り、ランベルトは使用人達と共に森へ入った。がむしゃらに歩き回り、共にいたはずの使用人と逸れ、それでも歩き続け──とうとう、花畑の中央で無邪気に花を摘む妹を見つけた。彼女は鼻歌混じりに、花の冠を作っている。
その呑気さが、憎らしかった。
どれだけの人が肝を冷やし、どれだけの人が心配したと思っているのか!
「アレッタ!」
声を荒らげれば、彼女はきょとりとして振り返り、にぱ、と笑った。思えば、名を呼んだのはこれが初めてだったかもしれない。
「にいさま、見て! 綺麗なお花を見つけたの! きっとにいさまも笑顔になるわ!」
もしかしたら彼女は、いくら花を摘んでも難しい顔をしたままの兄に喜んでもらおうとしたのかもしれない。
どうすれば“正解”なのか。それすら判断する時間を自分から奪い、ランベルトは心のままに彼女の顔を両手で掴んだ。
「なるわけ、ないだろ!」
自分の声は、震えていた。それがどこから来たものなのか、わからなかった。
「どれほど、どれほど心配したと……!」
幼いながら、それが本気の叱責だということを感じ取ったのか、アレッタは笑うことをやめ、大きな瞳にはじわじわと涙が浮かび始めた。
「ご……ごめんなさい……」
ごめんなさい、ごめんなさい。謝り続ける彼女を、少しの躊躇いと共に、抱き締めた。温かかった。
しばらくして、彼女の泣き声に引き寄せられたのか、使用人がランベルトたちを発見するまで、彼は妹をあやすようにそうしていた。
やがて上品でいることを憶えた少女は、自分を追って来て転ぶようなヘマや、とんでもない無茶をすることはなくなったが、それでも変わらず「にいさま、にいさま」と兄を慕った。
恐怖が戸惑いに変わり、放り出せずにいる内に、情が湧いた。
その身を護りたいと思った。それが初めに抱いた『護るべきだ』という義務感とはまた違うものであることに気付くことに、幾年か要した。数年気付かぬ間に、想いはもはや引き返せないところまで心に根を張っていた。
笑顔にしたいと思った。
同時に、彼女は幸福になるべきだと思った。
健やかに育ち、闇など知らずに、光の中を生きる人と横に並び、子を産み、笑い、泣き、自然と共に老いていく。そのように生きるべきだと思った。普遍的な幸福を祈った時に、胸に小さな、しかし鋭い痛みが走った。
何故その隣にいるのは、自分ではないのか。
当然だ。自分であるはずがない。
恩義で生かされ、恩義をもって生きる自分が、そのような場所に立てるはずがない。立って良い道理など無い。
何を馬鹿な。嗤う。
名を捨てなければ生きられぬ程の卑しい血を引く自分が、高潔で純粋な──それも、自分の命の恩人である方々の娘御でもある少女を望むなど、愚かしいことこの上無い。
好きに生きろと言われても、そんなこと、できるはずがないのだ。
恩人に砂を掛けることなど、できるものか。
後ろ指を指される人生に、どうして愛おしい存在を巻き込めようか。
好きに生きろと言われたところで。
どうしようもない壁がある。
「ここに──ジネストラ家に、いるべきではないと、そう思った」
熱情など無いような静かな顔で、ランベルトは語る。
「幸い義務教育期間は終わっていたからね。そこまで育てたのだから、父と母が悪く言われる謂れは無いだろう」
自分には貴重な魔力もあったことだし。ランベルトは彼自身の死を回避させた光魔法を挙げ、そう笑った。確かにその才覚と、基本的な学力があれば、勤め先には困らないだろう。
彼女から物理的に距離を取るには、それまで籍を置いていた場所から離れる必要があった。やりがいは感じていたが、離れることに、躊躇いは無かった。優先順位の問題だ。
数多ある候補の中、ランベルトが選んだのはこのハイドィル南部国境警備騎士団だった。
「両親には止められたけど、ここなら……彼女との接点は完全に切れる。それに、遠い地で、両親や彼女のことを、護ることができる。平和を祈ることができる」
まさかその“お嬢様”が騎士団に飛び込んでくるとは。ランベルトにとっては──おそらく彼だけではなく、誰にとっても──予想外の出来事だったのだろう。
無茶は引っ込んだと思っていたのに。
近くにいたら、気になってしまう。詰められない距離がもどかしくなる。幸せになって欲しい。自分以外と幸せになる姿を見るのは耐えられない。だけど自分とは一緒になるべきではない。
想いと想いがぶつかり合い、どこにも行けずに積もっていく。堰き止めざるを得なかった気持ちが、自分の首を絞める。
その状態が続けば、いずれ自分は誰かを害してしまうのではないかと思った。なにしろ自分には、悪人の血が流れている。自分で自分が信用ならなかった。
何事かが起こる前に離れるべきだ。
激情のまま行動しても、後悔しか残らない。
せめて彼女の幸せを願う気持ちだけは、本物のまま突き通したかった。
「だから、彼女には帰ってもらわないと。僕はアレッタにここにいて欲しくないんだ」
そこまで話し、ランベルトはようやく表情を崩した。その顔は、苦しそうでもあり、悔しそうでもあり、──それでいて誇らしげでもあった。
なんと勝手な、とラウラは思う。まどろっこしいなあ、とも思う。思うが、否定することはできなかった。ラウラに信念があるように、彼にだってソレはあるのだ。命を懸けてでも、護りたいものがある。
「そうは言っても、実際問題、あのお嬢様は厄介そうだぞ」
少女の瞳を思い出す。大人しく引く気など到底無い、という主張をしていた。なるほど確かに、あい分かった、と引く玉ではないだろう。
ルドヴィーコは困った顔をしている。未だどうすることが正解か、思い悩んでいる顔であった。
当然といえば当然か。
ランベルトは、自身が幸せになることに極めて消極的だ。それは、友として、仲間として、あまり喜ばしいことではない。
──大事な人には幸せになって欲しい。
それは誰しもが持ち得る感情だ。
ただ、誰かの“大事な人”の中に自分が入っている可能性を、彼はゼロだと考えている。
その点を踏まえると、ルドヴィーコは、ランベルトの主張を、全面的に支持することはできないのだろう。




