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「あっ、ちょっとちょっと、ジーノ君!」
いよいよ明日休暇に入るという前日、ルドヴィーコは、砦の食堂勤務の中年期の女性──ミラに声を掛けられた。屈強で癖のある輩も多い中で働くだけあって、ハキハキした活発な女性だ。肝っ玉母ちゃん気質の彼女に、頭が上がらない団員も多い。
蜥蜴に対して、小さめに切った林檎を一欠片くれる良い人だ。シャクシャクした感触を楽しみながら咀嚼している間にも、ルドヴィーコとミラは会話を続けていた。
「あんた明日、王都に行くんだって?」
「はい、三日休みを頂きました。明々後日には戻りますよ」
にこやかに応対するルドヴィーコに、ミラは好感を持っているようだった。彼女は、ゆっくり休んで来なさいね、と声を掛けた後で、す、と薄っぺらい紙を一枚、差し出した。
これは? 首を傾げながら、紙を受け取る。ラウラもごっくんとフルーツを嚥下してから、覗き込む。
「……『ハイドィル南部国境警備騎士団 食堂手伝い、募集中』? 求人、ですか?」
求人紙だった。
募集要員、一名。というか、一名も来るのか、ここに。倍率はすこぶる低そうだ。続く人間も少なそうだが。
「ジーノ君、顔が良いんだから、ちょっと引っ掛けて来なさいねー。あ、でも根性ある子が良いわぁ」
「は、あ、いや、でも……」
「だーいじょうぶよぉ! 自信持って!」
困り顔のルドヴィーコを、あはは、と明るく笑い飛ばしたミラは、「ま、機会があったらね〜」と言いつつ「期待してるわー」と続ける。どっちだ。
(そう上手くいくものだろうか)
んー、と首を左右に揺らす。コレットにこんな危険な仕事場を案内できないし。
蜥蜴の主人も同じ気持ちだったのだろう。話を逸らそうとでもしたのか、裏面を読むという名目でチラシを引っくり返した。
「ん? 『メイシー菓子屋』?」
チラシの裏面には、手書きで店名が記されていた。その下には、ご丁寧に通り名が記載されている。実はこちらの方が本題だったらしい。
「そう! 最近、そこのケーキが美味しいって聞いてたのよ! 流石にケーキは持って来れないけど、クッキーなら持つでしょう? よければ買って来て欲しいのよ〜!」
ケーキ! クッキー! ラウラの目が輝いた。食べたい。砦では甘い菓子はなかなか手に入らないのだ。
(ジーノ、私も食べたい!)
主張するように、たっしたっしと首を叩く。「蜥蜴っ子、首は擽ったい」と頭をぺしゃんと押さえ付けられた。
「ほら、蜥蜴ちゃんも食べたいみたいよ。やっぱり女の子だから」
クルルー、といつもより高い声で返事をする。尻尾がゆらゆらと揺れる。
ラウラが人型になれるのは、既に砦では周知の事実になっていた──流石に“魔王の娘”ということは広まっていなかったが──。
どうやら、アドルフォが暴れた際に、蜥蜴から人型に変わるところを、あの場にいた者に見られていたようだ。人の口に戸は立てられぬとは言うが、まさしくその通りだった。
「直接店頭に行けるから、ケーキも食べれるかもしれないわね〜」
ケーキ! じー、とルドヴィーコを見つめる。彼は苦笑して、「じゃあ三日目の朝にでも寄るか?」とラウラに提案した。即座に頷く。了解、と短く返したルドヴィーコは、ミラにも「クッキーって何種類かあるんですか? 希望があれば、それを探してきますけど」と声を掛けた。
「あら本当? じゃあ遠慮無く──」
いくつかの要望を述べた後、ミラは思い出したように「列車の移動中は、蜥蜴の姿でね」と付け加えた。
学園在籍中の仮面舞踏会で騒ぎになったことを思い出し、確かに銀髪は目立つかもしれないな、と考える。
直後、ミラがビシッと人差し指を突きつける。
「人型になっていたら、一人分、余計に切符代が掛かるからね!」
(あー)
「……なるほど」
ルドヴィーコとラウラは同時に納得した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
休暇一日目は、ルドヴィーコの実家に滞在する。
王都から少しだけ離れた場所に位置するそこには、今はちょうどルドヴィーコの弟も帰っているらしい。偶然などではなく、次にいつ休みが取れるか分からないルドヴィーコに合わせ、弟がわざわざ予定を合わせてくれたようだ。
学園の勉強は良いのか、と問うルドヴィーコに対し、それは後でどうとでもなるけど会えるのは今だけだから、と屈託無く笑う。
兄弟姉妹のいないラウラには、それが少し羨ましい。逆に、父親の愛情は一心に自分に向いているようだが。早くに妻、つまりラウラにとっての母を亡くしたことも大きいかもしれない。
ルドヴィーコの両親も、温かく息子を迎え入れる。
なんてことはない家族団欒の光景だ。
──ただ、何故だろう。
主人の横顔に違和感を覚える。その正体を、ラウラは掴めずにいた。
別段両者の間に壁がある訳でも無い。むしろ余程友好だ。残念ながらラウラの倫理観は魔界のものなので、人間界の中ではこの程度の仲の良さ、至って普通である可能性はある。しかしその事情を考慮しても、仲が悪い状態とは誰も言わないだろう。
笑顔が絶えない食卓で、ご飯を分け与えてもらう。蜥蜴サイズの食器などありはしないので、ルドヴィーコから直接貰う形だ。
「相変わらず仲が良いね」
もごもごと口を動かしていたら、クエスティ家の現当主であるルドヴィーコの父が、まるで微笑ましいものを見るように目を柔らかく細めた。
この人物に会うのは、これで何回目だったか。片手の指で足りる程度だ。そういえば、ルドヴィーコは長い休みでもなかなかこちらの家には戻らなかった。
それが普通のことなのか、ラウラには判断がつかない。他の生徒は帰郷していたから、普通ではないのかもしれない、とも思う。
だからなんだ、という話だ。
和気藹々としたリビングを後にしたルドヴィーコは、真っ直ぐに自室に向かった。不在の間も掃除をしているのか、埃は見当たらない。ありがたいことだ。
物なども、半年前に訪問した時そのままである。ベッドに腰を下ろしたルドヴィーコの前に、ラウラはふわりと降り立った。
「もう良いのか? 私が邪魔なら、ここで一人で残ったって良い。魔界人と違って、お前達人間は、別れや再会を大事にするだろう?」
突然に現れた白銀の女に、しかし彼女の主人は、特別驚いた表情は見せない。
「いや、もう十分だ。ありがとう」
「礼を言われるようなことをしたか?」
ぐぐぐ、と顔を傾ける。訳が分からない。
「分からなかったら、“どういたしまして”と言っておけば問題ないさ」
「そういうものか」
ドーイタシマシテ、と復唱する。これでいいのだろうか。ルドヴィーコが可笑しそうにしているので、いいのだろう、と判断する。
「明日は朝食の後に、王都に向かおう」
「分かった」
頷いたと同時に、扉がノックされる。
「兄さん、いるー?」
弟だ。ああ、とルドヴィーコは返事をしてから、慌ててラウラを見た。に、とラウラは笑う。
「しばらく散歩に行ってくる」
言うなり、窓枠に手を掛け、身を宙に投げ出した。魔力が回復しつつある今、このくらいはなんてことない。
地面に降り立ち、空を見上げる。月も星も綺麗で、いい散歩になりそうだ。
弟が訪れたと分かった時の、主人の顔がふっと脳裏に浮かぶ。
(……嬉しいなら、素直に喜べば良いのにな)
不思議だ。全くもって、人間はよく分からない。
経費削減……。




