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「まったく。あまり小動物を虐めるな。お前達には遊びでも、私達にとったら命懸けなんだぞ」
猫の頬っぺたを、むにゅう、と伸ばす。本能でどちらが強いかを知っているのだろう、猫は決して抵抗をしない。
しばらくその毛むくじゃらの感触を堪能してから、ラウラは木の枝の上で立ち上がった。カサカサ、と耳元で葉が擦れる音がした。
「戻らないと」
しかし、そのためにはこの猫をどうにかしなくてはならない。今ここで蜥蜴の姿に戻ると、また猫の玩具になるだけだ。嬉々として自分に襲い掛かってくる光景が目に浮かび、ラウラはブルリと身体を震わせた。こんなところで一生を終えるだなんて、御免被る。
猫を胸に抱いたまま、トン、と木の枝を蹴った。身体全体を、浮遊感が襲う。その感覚を、“懐かしい”と思いながら、ラウラは地面に降り立った。
短い飛行だった。いや、落下、か。風を切って進むことが、ラウラの本分だ。また魔力が溜まれば、あの頃のように暴れたい。魔界人の本能が疼く。
ラウラは、魔界人の中では平和的な性格だ。しかし、魔界人であることには変わらないのである。ここ三年、まともに暴れていない。
運動不足だ。
グルル、と唸ると、猫が怯えたように暴れ出した。
「ああ、お前には刺激が強かったか」
拘束する力を弱めると、猫はラウラの腕を飛び出して逃げ去っていった。それだけではなく、近くの木々に止まっていた鳥たちも、一斉に飛び立つ。
ラウラは空を見上げて、それらを見送った。彼らの怯えが、世界に響いている。ぼんやりと、それを感じる。
「あら……最後の最後で、ようやく会えましたわ」
鈴を転がしたような声がした。
ラウラはゆっくりと視線を動かし、自分の前に現れた人物を見据えた。
栗色の髪と、翡翠の輝きを放つ瞳。妖艶に微笑む表情は、今朝方見たばかりだ。生憎と、向こうは知らないだろうが。
「銀色に輝く髪の女性。わたくしの主催する仮面舞踏会に乱入したのは、貴女でお間違いない?」
「……乱入、な」
招待されていると言えば、されているのだ。ルドヴィーコの“使い魔”として。
しかし、その事情を説明するのは億劫だった。面倒臭がぷんぷんする。
「学園では、貴女は幽霊なんじゃないか、なんて実しやかに囁かれておりますけど、実際のところどうなのです?」
「死人に見えるなら、そういうことにしておけ。……それより、何の用だ。王族たる者、不審人物とのお喋りは、あまり褒められたものではないぞ?」
言外に、サッサとしろ、という意味を含めると、正しくその意味を読み取ったらしいジュリアは、「あら、お気遣い感謝致しますわ」とくすくす笑った。
気遣ったつもりはないのだが。
顔を顰めると、少し意外そうに、ジュリアが扇で口元を隠した。
「貴女……」
「なんだ?」
しばらく、じ、とラウラを見たジュリアは、「なんでもありませんわ。友人に似ていたものですから」と今度は少し柔らかく微笑んだ。
「……で? 用件は?」
「せっかちですのね」
ころころと笑いながら、パン、と扇を閉じる。「質問はいくつもありますが、本当に訊きたいことはひとつだけ」とふるりとした唇を震わせた。
「貴女は、わたくしの国に、仇をなす者ですか?」
ラウラは、そのあくまで真剣な瞳を見つめ返し、きょとんとした。その質問を頭の中で反芻し、意味を受け取ると、腹を抱えて笑い始めた。
「あら、何が可笑しいのでしょう」
「い、いや……てっきり、私の正体を訊くのかと思いきや。──ああ、分かった。お前の一番は“それ”なのか。うん、そういう人間は嫌いじゃない」
にんまりと笑みを作ったラウラを前にしても、ジュリアは自分の表情を崩さない。漏れ出る魔力は、今もなお動物たちの本能を刺激しているだろうに、大した胆力だ。
「人間も面白いものだな」
言いながら、一歩、二歩と距離を詰める。伸ばした細い腕が、ジュリアの首裏に回る。ぐい、と顔を近付けると、耳元で囁いた。
「私が刃を向けるのは、私自身の敵と、我が主の敵のみだ。お前もこの国も、私には特にどうでもいいし、我が主は……きっと、この国に剣を向けはしないだろう。だから、安心するといい」
ハッキリ言い切ってから、身を引く。扇を掴む手が多少震えていることを見て、ラウラは口元を緩めた。恐れを知らぬ愚か者より、恐れながらも我を貫く者の方が好きだ。
「“貴方がたの道中、そして道の果てが、光に満ちていることを願う”」
首を傾げたジュリアに、笑い掛ける。
「学園長とやらが言っていたな。私も願おう。お前の道に、光が多いことを」
一歩、二歩と下がり、真っ直ぐに相手を見つめる。芯の通った、良い目だ。
さらばだ、と口を動かす。もう会うことは無いだろう。しかし、引かれる気持ちは無かった。彼女の前に続く道を、彼女は精一杯歩くだろう。そして、自分には自分の道がある。機会があれば、交わるかもしれない。それだけだ。
身を翻し、跳躍した。人にはできない芸当だが、今更だろう。なにせ、幽霊扱いされているのだから。
小さくなる背中を見送ったジュリアは、扇を広げ、口元を隠した。
(学園長の話を知っていた……“主”の存在……そして、あの魔力。──もしかすると)
そこまで考え、しかし彼女はパタリと扇を閉じた。このまま考え続ければ、答えには行き着く気がしたが、意図的に止めたのだ。
「わたくしは、何も気付きませんでしたわ」
ハッキリとそれだけを口にして、ジュリアもまた、その場に背を向け、歩き始めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ラウラは蜥蜴の姿に戻ると、木に登った。ある程度の高さまで進んだところで、ルドヴィーコを探す。コレットとの話は終わったのだろう、校舎裏から歩いてくるルドヴィーコを見つけた。ぱ、と手を離し、滑空する。
無事その肩に着地すると、彼は、よく戻ってきたな、と笑った。
「待たせて悪かったな、蜥蜴っ子。寮に帰るか」
ぺろ、と舌を出して答える。
……ところで、告白はどうなったのだろう。
蜥蜴の視線に気付いた彼は、「……断ったよ」とボソリと告げた。
「お互いの道を、歩くことにした」
コレットも傷心だと思う。けれど、ルドヴィーコも悲しい顔をしていた。真っ直ぐな気持ちに真っ直ぐ向き合うことは、それだけで、ひどく体力を消耗する。決してそれが悪いこととは思わないけれど。
寮に着くまでの間、ルドヴィーコはそれ以上一言も口を開かなかった。
ジュリアさん、退場。
また出せたらいいのですが、予定は未定……。
(なにせ行き当たりバッタリ!)
ラウラさん→ジュリアさんの言葉は、ブーメランで戻ってくる気がするのでーす。