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カン、と音がした。
ルドヴィーコが音がした方を見ると、窓の外から、蜥蜴がコツコツとガラスを叩いている。
(さっさと入れろー)
訴えは、無事に通じたようだった。
ラウラの主は、仕方なさそうな顔をしながら、窓を少し開けた。その間からスルリと身体を滑り込ませたラウラは、グルル、と小さく鳴いた。ありがとう、の気持ちを込めたのだ。
「……後で、いろいろ言いたいことがある」
しかし、返ってきたのは、妙に低い声だった。ラウラはいつもと違う主の様子に、ピキンと固まり、それから窓の外へ逃げようとした。逃げる前にルドヴィーコの手によって完全に閉まってしまい、その願いは叶わなかったが。
何か悪いことをしただろうか。
ラウラには、何も思いつかなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「さて、何か申し開きはあるか?」
休み時間に入り、ルドヴィーコはやけに据わった目でラウラを見下ろした。蜥蜴に申し開きを聞かれても、答えられないというのに。理不尽だ。
大体、何に対して申し開かなくてはならないのか。
「おいジーノ、蜥蜴相手に何してるんだよ」
バルトロが周囲の視線を気にして言ったが、「こいつがある程度言葉を理解しているのは、お前も知っているだろ」とルドヴィーコに一蹴された。ある程度どころか、全て分かっている。……バレたら面倒そうだ。
「蜥蜴っ子」
まるで蛇に睨まれた蛙のように、その場に固まる。蜥蜴は爬虫類なのに。主従契約が結ばれているからなのか、はたまたルドヴィーコの怒りが理由なのか。身体が素直に反応した。
「お前な、急に飛んでくな! 心配するだろうが!」
(…………しんぱい?)
何が、と内心で首を捻る。
顔にも出ていたのか、いや、そうだとしてもそれを読み取れるのは彼女の主くらいだろうが、──とにかく。ルドヴィーコの青筋が更に深くなった。
「犬猫鳥に、その他諸々。いつも食われそうになっておきながら、呑気なもんだな……?」
言われて、ラウラもようやく思い出す。蜥蜴の本分は、まず食われぬことである、と。人型に戻れる程に魔力回復できていたので、すっかり忘れていたが、ルドヴィーコの中では、ラウラはあくまで100%蜥蜴だ。
つまりそれで、この基本的に無力な蜥蜴は、心優しい主に心配を掛けたようだ。
ようやくそこに気付いたラウラは、ちょっとだけ嬉しくなった。不謹慎ながら、気にかけてもらえたことが嬉しかったのだ。最近は、愚痴すら言ってもらえなくなったラウラは、昔よりも更に役立たずで、流石にそろそろ愛想を尽かされたのか、と思っていたので。
もちろん、いずれは魔界に帰らねばならないことは、承知している。
自分は、魔王の娘なので、……まあ実力主義の世界では、世継ぎがいようがいまいが、次の王は決まるが、しかしだからといって父を放置するのは、娘としていかがなものか。
──そうだ、自分はいずれ、帰らなければならない。それはつまり、彼の傍にいられなくなる、ということだ。
そんな当たり前のことに思い当たったラウラは、急に悲しくなってきた。いやいや、何故だ。当然のことだと、分かっているのに。
しおしおと萎れる蜥蜴に、ルドヴィーコは「いや、そこまで項垂れなくても……」と慌て始めた。違う、そのことじゃないんだ。口を開けたならそう言っただろう。口を開けなくて良かった。そうではないのだ、に続く言葉は、まだラウラには分からない。
ラウラは、しばらくうーんうーん、と悩んだが、とりあえずこの問題は放置することにした。少しの間なら人型に戻れるようにはなったといえ、まだまだ魔力不足に変わりはない。今から気分を沈ませても、まだ帰るアテすら無い状態だ。悲しくなるのは、もっと先で良い。
そう結論付けたら、元気が出てきた。
差し出された手を伝い、いつもの定位置でへたり込む。
(しばらくは、このままで……)
ルドヴィーコは、首を傾げる。
「……あと、結局、なんのために外に飛んでいったんだ、蜥蜴っ子」
(それは企業秘密だ)
質問に答える気の無いラウラは、言葉の分からない蜥蜴のフリをした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
次の日の食堂で、コレットと会った。
流石に昨日の今日で一人になるのは、避けたかったようだ。それにラウラのお陰で、コレットがルドヴィーコの近くにいても、チクチクと文句を言う者もいない。二人は、卒業の日の約束などまるで知らないかのように、いつも通り挨拶して、いつも通り隣に座り、話をする。
ラウラもいつも通り、トレイの上でご飯を分けてもらっていた。
不意に、ルドヴィーコと目が合った。
「そういえば」
彼は、ラウラを見て、自分の中で今ホットな話題を思い出したらしかった。
「この前、蜥蜴っ子が空を飛んだんだ」
「え、飛ぶって……、え? 蜥蜴さんがですか?」
コレットは、ぽかんっと口を開いて、ルドヴィーコとラウラを交互に見つめた。蜥蜴が──正確には、普段ちろちろ地面を走って動き、とても飛ぶための仕組みなど持っていないように見えるこの蜥蜴が、自力で飛ぶことが信じられなかったのか、「ええと、風船の紐の先に結んだとか、そういう……?」とコレットは目を白黒させた。
「いや、そういうのじゃなくて、俺も驚いたんだけど」
トレイの上にいたラウラは、無造作に胴体を掴まれた。更に前足を摘まれる。為すがままの状態だ。
「窓からジャンプしたと思ったら、この前足と、後ろ足の間に飛膜が出現して、滑空していった」
「わあ、すごいです!」
コレットは、心の底から感心し、小さな拍手を送った。普通の蜥蜴としてはあってはならないことが起こっているのに、特に動じていない。気付いていないのか、気付いていてそういうものだと思っているのか。
使い魔としては、変体は特殊なことでもないため、後者かもしれない。
「すごいっていうか……」
素直に驚き、褒め称えるコレットに、どことなく釈然としないルドヴィーコは、言い淀んだ。蜥蜴が、ただの蜥蜴ではないことが、受け入れ難いのか。
無理もない、とラウラは思った。もしラウラが魔王の娘であると知れたら、希望職種に就ける就けないの騒ぎでは無い。彼は普段から、ただの蜥蜴でいいのだ、と言っている。
ルドヴィーコは、恨みがましい目でラウラを見て、蜥蜴の鼻先を突っついた。
「今日はどっか行かないんだな。……そういえば、飛んだのも一回きりだな。教室の窓からじゃないと飛ばないのか?」
「風に乗れないからでしょうか」
コレットの冷静な発言に、ルドヴィーコは納得したように、ああ、と声を上げた。確かに、室内では風は無い。それから、机の上では高さも無いので、滑空してもすぐに地面に落ちるだろう。
百面相な蜥蜴さん。