青の星見草
――2017年9月5日、松江市民病院。
そこで私が見たのは、何もない空間に向かって叫ぶ陽子の姿だった。
「そ、そうよ!私があなたのお子さんの面倒を見るから!だから成仏して!」
誰に向かって話しているのだろう。彼女の近くには一人の女性の姿しか見えないが、その人に向かって話をしている様には見えない。
私は急いで陽子のもとへと走る……と、同時に陽子が苦しみ始め、膝を地面に着き、首をかきむしり始めた。何が起きているんだ?
「うっ!!」
「陽子さん!陽子さん!」
近くにいた女性が、陽子に声をかけている。しかし、その声に応える余裕はなく、苦しみながら地面に倒れ込んでゆく陽子の姿が見えた。
「あれはもしかして……!間に合って!!」
私は懐から液体の入った瓶を取り出すと、蓋を開け、陽子の頭から液体をかける!
「ぎゃっちゃみぃぃぃ!!」
聞いた事のない、奇声が辺りに響くと、病棟の方から患者達が窓から顔を出し、騒ぎ始めた。
「誰かおるのか?」
「何?今の声?」
「何だ?何だ?」
病棟からこちらを覗き込む数人の視線を感じる。警察を呼ばれたら厄介だ。私は陽子を抱き抱えると、病院の出口へと向かった。
――病院を出てしばらく行くと、湖のほとりが見えて来た。辺りは暗くなり人気はほとんどない。私の後ろからは、先程病院にいた女性と、なぜか狸が付いてくる。
「待って……あなたはいったい……?」
「申し遅れました。私は神野小春。専務……秋津陽子の秘書をしております」
「あぁ、そうだったのね。私は早乙女良子、こっちがお師匠様の小吉です」
「え?この狸が?」
「やかましい!わしは霊験あらたかな妖狸――」
「喋る狸は初めて見ました……。陽子も喋る狐ではありますけど……ふふ」
「小春さん、あなたも妖怪の類いなのですか?」
「早乙女さんは人間なのですね。私も同じです。ただ……人より妖怪が好きな変わり者ですが……」
そう言いながら私は陽子を湖のほとりに下ろし、体の周りに小さい水晶を並べていく。
「小春さん、それは何をなさろうとしているの?」
「これは祓い師の……まぁ、見てて下さい、早乙女さん」
「はい……」
不安そうな顔で、陽子を見る早乙女と狸。
「良子、こやつは何者じゃ?」
「お師匠様、私にもわかりませんが、少なくとも妖怪の気配はありません」
「うむ……」
「早乙女さん、狸さん。私は、幼い頃から陽子を守る為に遣わされた守り人……。先程の御神水で動きは一時的に止まっていますが、彼女に取り憑いているこれは『おたたり様』と言います」
「おたたり様?」
「はい。先程の病院の小さな怨念が、周囲の怨念を呼び寄せたのでしょう。このままほっておくと、いずれ陽子の体を媒体にして、化け物が生まれます。私達、神野一族はその化け物を祓う事を生業としているのです」
「神野一族ですか!?もしかして、妖怪見聞録に出てくる祓い師の末裔ですか……!」
「はい……。準備が整いました。お祓いを始めます」
私は懐から、一冊の経本を取り出す。
「臨兵闘者皆陣烈在前……」
胸の前で九字を切り、陽子の頭に経本を置いた。
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン……ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン……」
経本が徐々に赤い光を放ち出す。
「お師匠様、これはいったい……」
「うむ、これは不動明王の御真言じゃな」
「御真言……」
「そうじゃ。その昔、密教と呼ばれ世間には出ない教えがあっての。それは古くから仏の真理を、儀式やお祓いで伝える者達じゃったと聞いておる……」
「密教……」
辺りが静けさを増し、陽子の周囲に黒いモヤが立ち込め始めた。
『――神野小春の名において命ずる!いでよ!不動明王!!』
そう私が叫ぶと、突然辺りが真っ赤な炎で包まれ、私と陽子の周りで燃えさかる炎が渦を巻く!
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン!!」
私がさらに真言を唱えると炎は勢いを増し、陽子の体から出る黒いモヤを焼き尽くす!
「成仏しなさい!!えぇいっ!!」
『ギャァァァァァァァァ!!』
燃えさかる炎の中で、入院着を着た女性とその周囲からこの世の者とは思えぬ断末魔が聞こえた……。
数分の出来事だった。どこからともなく、消防車のサイレンの音が聞こえる。辺りには、黒く丸い焼け焦げた跡だけが地面に残っている。
「うぅ……」
「陽子!!大丈夫!」
「……あれ?小春……どうしてここに……」
「説明は後でするわ。早乙女さん、近くに陽子を休ませる場所はないかしら?」
「そうね……病院以外なら、狐狸田神社に戻った方が早そうね。タクシーを拾うわ」
「お願いします!」
――それから狐狸田神社で、陽子は丸1日眠っていた。陽子の寝顔を見ていると、幼い頃一緒に遊んだ日を思い出す。
私は小さい頃、お祓いの練習をしている時に失敗をし、命を落としかけた事がある。おたたり様……怨霊、魑魅魍魎、それらが集まり、群がり、一つの塊となる。それがおたたり様だ。核となる媒体が相当の霊験を持っている時に起こり得る現象……あの時は幼くして失敗し、叔母に助けてもらったが、今回はようやく……私の手で陽子を救う事が出来た。
「うぅ……ん……小春……ここは?」
「陽子、気が付いたのね。ここは狐狸田神社よ。安心して?あの化け物は退治したわ」
「そっか……ありがと……」
そう言いつつも、なぜか陽子はあまり浮かない顔をしている。
「……何か食べ物を買って来るわね」
「うん……」
陽子の事は小吉狸に任せ、私は歩いて山を下りる。陽子のあの表情が、なぜか腑に落ちない。いつもより元気がない……当然か、先ほど目覚めたのだから……でも気になる……。そんな事を思いながら歩いていると、いつの間にか松江児童養護施設と書かれた看板の前に差しかかった。
「ん……?」
聞くつもりは無かったが、通りがかった施設の横で、怒鳴った様な声が部屋の中から聞こえた。素通りすれば良いのだが、陽子の秘書をしているせいか、情報があれば何でもメモをするクセが付いていた。
私は木陰に身を隠し、部屋の中の声を盗み聞く。
「――そう言ってるじゃない!私はその日は歩いて帰ったんだから、わからないって!黒のBMは私の名義だけど、その日は弟が貸してくれって、何度も同じ事を言わせないで!失礼します!」
「事故……?」
聞き耳を立て、しばらく聞いていると、電話を切った女性が独り言を言いながら部屋から出て行く音が聞こえた。
「え?今のはどういう……」
「あの、どうかされましたか?」
「ひっ!」
軽く悲鳴を上げる程、自分の世界に浸っていて、見上げると目の前にジャージ姿の若い女性が立っている。
「大丈夫ですか?」
「は、はい。ちょっとコンタクトを落としたみたいで……」
「あら!大変!一緒に探しますね!」
今のは真っ赤な嘘である。しかし、それらしく見せようと私は探すフリをしながら、予備のコンタクトレンズを地面に落とす。
「あっ!ありまし――」
「え!どこに――」
『パキッ』
「え?」
「は?」
こいつ踏みやがった……。
「え……と、今のって……」
ジャージの彼女はそっと足を上げ、地面に顔を近づける。もう割れているのだ。足をゆっくり上げても何も変わらない。
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」
「い、いえ!大丈夫です!予備も持ってますので!」
「ごめんなさい!弁償します!」
「本当に大丈夫ですよ!私の不注意なので、謝らないで下さい!」
そんなやり取りをしていると、遠くから誰かを呼ぶ声が聞こえる。あの声は先ほどの……。
「あっ!施設長の声だわ!私、行かないと!連絡先を教えて下さい!弁償しますので!」
もう後には引けない感じがピリピリと伝わってくる。教えたくないのだが……SMSのアドレスを初対面で教えるのは気が引ける。
「とりあえず、電話番号を言うので1回鳴らしてもらっても良いですか?」
「はい、もちろんです!」
「090……」
彼女と連絡先を交換し、私は施設を後に、町へ買い出しに向かった。
その日の夜。目が覚め、薄っぺらい布団をはがすと、私は体を起こす。隣では陽子が寝ている。
「うぅ……うぅ……あぁ……」
「陽子?大丈夫?」
声をかけてみるが、陽子はうなされたまま、目を覚ます気配はない。
「陽子?陽子?大丈夫?」
今度は肩を揺すってみる。しかしやはり起きる気配はなく、うなされている。
「この症状は本で読んだ事がある……確か……」
「呪気夢じゃな……」
「狸さん……気付いていたんですか?」
「うむ。かすかじゃが、誰かの記憶の匂いが残っておる……」
「記憶の匂い……。呪気夢は、確か本人が夢に打ち勝つしか脱出する方法は無かったはず。このままでは夢に飲まれて……」
「そうじゃ。夢に飲まれ、夢遊病が始まり、最後は死に至るのぉ……」
「そんな……!!」
「ふむ。早乙女も今日は帰ってしもうたし、わしが中継するしかないかの。どれ……」
「どうするんですか?」
「わしが小娘の夢の入り口を教える。お主が入り、助けて参れ」
「……夢に入る?そんな事出来るわけがな――」
「普通はの。しかし、わしはこの小娘の夢の入り口を知っておる。着いて参れ」
「え?どこへ行くんですか!ちょっと!陽子を置いて、どこに――!」
私は慌てて、妖狸の後を追った。




